第79話『熟成された未練』
「関係者以外立入禁止」
重厚な木製扉には、そう無機質な警告文が掲げられていた。
しかし、ゆうこ達の視線は扉そのものではなく、そのわずかな隙間から這い出るようにして吸い込まれていく、妖艶な紫色の霧へと注がれていた。
まるで生きているかのように、霧は意思を持って蠢いている。それはゆっくりと、しかし確実に地下へと流れていた。
「……見間違いじゃないわよね」
サクが戦慄を隠しきれない声で呟く。
「見間違いなら、どんなに嬉しいことか」
ゆうこは苦笑を浮かべるが、その瞳には深い憂いが宿っていた。現実は、そんな都合の良い冗談では済まされないことを、彼女の本能が告げている。
その時、異変を察知したのか、係員が慌てた様子でこちらへ駆け寄ってくる。
「皆様、こちらは立入禁止区域です!」
制止しようと焦燥を露わにする男。
だが、ちくわが懐から王城の刻印が入った身分証を突きつけると、事態は一変した。
「王城調査です」
ちくわの凛とした宣言に、係員の顔色はさっと青ざめる。
「あっ……失礼しました」
畏れをなしたように道が開く。クルスがその様子を冷ややかに見つめ、小声で皮肉を漏らした。
「便利だな、王城権限ってのは」
「……今だけです」
ちくわは胸を張り、どこか誇らしげに答えた。その小さな背中には、この国の命運を背負うという静かな決意が漲っているようだった。
◇
重い扉を潜った瞬間、空気ががらりと変わった。
観光区画の華やかな賑わいは嘘のように消え去り、そこには石造りの無機質な通路と、並べられた無数の樽、そして薄暗い照明が作り出す静寂の空間が広がっていた。
やけに静かだ。心臓の鼓動さえもが反響しそうなほどの沈黙が支配している。
「なんか、地下ダンジョン感あるな」
クルスが周囲を警戒しながら歩を進める。
「『酒ダンジョン』、ね」
ゆうこの言葉に、クルスは顔をしかめる。
「嫌だな、その名前」
「私はちょっと好きだけど」
ゆうこが少しだけ口元を緩めると、横でちくわが困惑したように立ち尽くしていた。
さらに奥へ進むほどに、樽の数は増えていく。どこまでも、どこまでも続く回廊。ふと目に留まったラベルには、どれも切実な想いが綴られていた。
《父へ》、《母へ》、《愛する人へ》、《親友へ》。
それは誰かの人生であり、誰かの後悔であり、誰かの願いそのものだった。
それらすべての感情が、この暗い地下で酒となって眠っている。
傍らで、しゅわ丸がずっと震えている。
ぷるるる、と悲痛な声を上げながら、何かを必死に訴えているようだ。嫌な予感しかしない。
やがて、一行は一つの作業区画へと辿り着いた。樽を管理する職員達の部屋だ。しかし、そこには妙な違和感が漂っている。
誰もいない。机の上には書類が散乱し、帳簿が開かれたまま放置され、飲みかけのカップにはまだ温もりが残っていそうな気配がある。
まるで仕事の途中で、何かに引きずられるようにして立ち去ったかのようだ。
「……何これ」
ゆうこが眉をひそめ、サクも抜き身の剣に手をかけんばかりに警戒を強める。
その時、ちくわが机の上の資料に触れ、あっと声を上げて顔色を変えた。
「これ……」
「どうした?」
クルスが覗き込む。そこにあったのは、凄惨な『被害者名簿』だった。
発症者一覧、日付、職員名、担当区域――そして、全員に共通する項目。
「地下四階?」
サクがいち早くその事実に気付き、息を呑む。ちくわが重苦しく頷いた。
「全員です。被害者は皆、最後にそこへ行っている」
通路の空気は、さらに冷たく重く沈んだ。地下五階ではない、地下四階。この国で何が起きているのか、その核心がすぐ足元にある。
その時だった。
かたん。
小さな、しかし鋭い音が響く。全員が弾かれたように振り向くが、そこには誰もいない。だが、確かに聞こえたのだ。
かたん。
今度は奥の通路から、誰かが歩いているような足音がする。クルスもサクもゆうこも臨戦態勢をとる。ちくわの顔から血の気が失せていく。
静寂が再び訪れる。そして通路の奥から、ゆっくりと人影が現れた。職員服を纏った一人の男。ふらふらと、操り人形のように歩いている。
「おい!」
クルスが声をかけるが、反応はない。男は俯いたまま、ただ機械的に一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
男の顔が見えた瞬間、全員が絶句した。男は笑っていた。異様なほどに幸福そうな、陶酔したような笑みを浮かべて。
しかし、その目は大きく開かれているのに、焦点がどこにも合っていない。夢遊病者のように彷徨っている。
「発症者……?」
ゆうこが呟く。だが、違った。男の口がゆっくりと動き、まるで別の存在が彼を媒介にして言葉を紡ぎ始める。
「……まだ足りない」
全員が凍り付く。それは、しゅわ丸が見た映像の中に響いていた声と同じものだった。
「もっと未練を」
男の身体から、紫色の霧がどくどくと溢れ出す。しゅわ丸が悲鳴に近い叫びを上げた。
ぷるるるるるるるっ!!
地下酒蔵のさらに奥、地下四階へと続く闇の底から、何百人もの囁き声が重なり合って響き始める。
「会いたい」「帰りたい」「もう一度だけ」「まだ伝えてない」「忘れたくない」
無数の未練、後悔、そして想い。その怨嗟にも似た声が、地下酒蔵全体を満たしていく。
サクが低く、しかし凛とした声で言った。
「どうやら、本当にいるみたいね」
彼女の瞳は暗闇の先を見据えている。それはまだ怪物と呼ぶには幼い、しかし確実に形を成し始めた何か。彼らはまだ知らない。
その地下四階に眠るものが、ヴィノリアという国そのものの歪みであることを。
「逃げるぞ!」
クルスの叫びと同時に、紫色の霧が一気に膨れ上がり、通路を埋め尽くす。ぶわっ、と空気が汚染される。甘い香りは、葡萄酒に腐った花を混ぜたような異臭へと変わり、鼻を突く。
「まずい!」
医療従事者としての直感が、ゆうこの脳裏に警鐘を鳴らす。吸ってはいけない、魂が侵される。
「息を止めて!」
全員が口元を押さえるが、遅かった。ちくわが小さく咳き込み、その動きがぴたりと停止する。まるで時間の流れから切り離されたかのように。
「ちくわ!?」
ゆうこが振り返る。少女は立ったまま硬直し、瞳からはとめどなく涙が流れていた。しかし、その唇は信じられないほど幸せそうに弧を描いている。
「まずい!」
サクが駆け寄り、肩を掴んで揺さぶるが反応はない。ちくわの口が微かに動き、誰も知らない言葉を紡ぐ。
「……先生。見てください。私……できました……」
涙、笑顔、震える声。ゆうこは直感的に理解する。これはちくわ自身の、深く封じ込められた思い出なのだと。彼女は今、その過去という夢の中に囚われている。
サクの表情が険しくなる。
「クルス!」
「分かってる!」
クルスがちくわを担ぎ上げる。
「とりあえず上に戻る! ここは戦う場所じゃない!」
全員が踵を返し、駆け出す。地下四階へ降りる準備はまだ整っていない。このままでは情報不足、あまりに危険すぎる。
しかし、背後から低い笑い声が追いかけてくる。
くつくつ、くつくつと、老人や女、子供の無数の声が混ざったような不気味な音。
背筋が冷える。暗闇の奥で、何かが確かに動いている。
振り返るな。ただ走れ。
地下三階、二階、一階。そして地上へ飛び出した時、夕陽の眩しさが目に沁みた。
肺いっぱいに空気を吸い込み、誰もが膝をついて息を切らす。数秒後、ちくわの瞳から霧が晴れるように光が戻った。
「……あれ? 私、どうしたんですか?」
きょとんとした表情で、彼女は何も覚えていないようだった。一番の被害者が、一番の当惑を見せている。
◇
王城へ戻り、状況を報告する。ヴィオレッタ女王は静かに目を閉じ、黙って聞き入っていた。
「やはり……」
「陛下?」
キムが心配そうに声をかけると、女王は小さく頷いた。誰にも聞かせたくなかった秘密を、吐露するように口を開く。
「昔は違ったのです。追憶酒蔵は、思い出を未来へ残すための場所でした。亡くなった人を忘れないために、生きていくために、明日へ進むために」
静かな声だが、その重みは冷徹な事実を物語っている。
「けれど、いつからか変わった。人々は思い出を残すのではなく、思い出にすがるようになったのです。失った人を忘れられない、やり直したい、もう一度会いたい――。その数が増え続け、何百年もの間、少しずつ、少しずつ積み重なっていった」
後悔、未練、執着、悲しみ、愛情。それら全てが酒という器に託され、この地下で熟成され続けたのだ。
「もしかしたら、ネバーエイジは最初から怪物だったのではありません」
女王の言葉に、全員が顔を上げる。
「ネバーエイジ……?」
「王家に伝わる古い記録です。本来、追憶酒蔵の最深部に眠るそれは、思い出を守る守護霊として、人々の想いを保存するために存在していました」
守護霊。人々を支えるはずだった存在。しかし、長い年月の中で守るべき対象が変質し、それに伴い守護霊自身も歪んでしまった。感謝から執着へ、思い出から未練へ。
部屋が静まり返る。サクが絞り出すように呟いた。
「つまり、敵は怪物じゃない」
誰も反論できない。ヴィノリアの人達そのもの。国中の人々が抱えた後悔、伝えられなかった想い、忘れられない記憶。
それら全てが集まり、熟成し、形を得たもの……それが、ネバーエイジだった。
結論は出た。しかし、その正体を知ることは、同時にこの国の根深い病そのものと対峙することを意味していた。




