第78話『追憶酒蔵』
その後。
私たちは王城の会議室へと移動した。
丸いテーブルの上には、地図と資料、そして何故か大量のワインが並べられている。
さすがはヴィノリアというべきか。会議室に当然のように酒が置かれている光景に、私は少しだけ眉をひそめた。
「仕事中では?」
ゆうこが呆れたように問いかける。それに対し、ちくわは平然と答えた。
「仕事中です」
「飲んでいいの?」
「飲んでいいです」
「そうなんだ……」
文化の違い、と割り切るしかない。そう結論づけて、私は地図へと視線を戻した。
キムが広げたその紙面には、追憶酒蔵の見取り図が記されている。
かなり巨大な施設だ。地上三階、地下五階。事前の予想を遥かに超える規模に、クルスが目を丸くして感嘆の声を漏らす。
「酒蔵ってレベルじゃねぇぞ」
「国立施設ですから」
キムは淡々と説明を続ける。追憶酒蔵――そこはヴィノリア最大の保管庫であり、建国以来の歴史を誇る場所だ。人々の思い出を託した酒を管理し、その数は数百万本に上るという。
「数百万?」
ゆうこが引きつった声を出す。そんなにも多くの「思い出」が、この酒蔵に眠っているのか。
「ええ」
キムは静かに頷く。
「家族への想い、恋人との記憶、親子の絆、叶わなかった夢、そして死者への祈り。全て酒に託して管理しているのです」
その言葉には、重みがあった。しかし、ゆうこは言いようのない違和感を覚える。この国は、あまりにも「思い出」という過去に価値を置きすぎているのではないか。
その時、サクが静かに問いかける。
「最初の被害者は?」
キムは資料をめくり、表情をわずかに曇らせた。
「酒蔵職員です。地下保管区の担当でした。その後、地下へ入った者を中心に被害が増え始めました」
また地下だ。ゆうこの胸の中で、警戒心が鋭く音を立てる。
「地下五階に何があるの?」
質問を投げかけた瞬間、会議室の空気が凍りついた。キムも、ちくわも、ヴィオレッタまでもが沈黙を貫く。嫌な予感が胃のあたりを重くした。
数秒の重苦しい沈黙の後、ヴィオレッタが意を決したように答えた。
「王家の熟成庫です」
「王家……?」
「はい」
女王はゆっくりと頷く。
「歴代国王、王族、英雄達。そして……」
そこで一度、言葉を切り、彼女は伏し目がちに言った。
「私の婚約者の酒もあります」
重い、あまりにも重い言葉が落ちる。
ゆうこは即座に理解した。しゅわ丸が以前見た映像の中の青年。今もなお、女王の心に深く残り続けている存在なのだ。
その時だった。
ぷるるっ。
突然、しゅわ丸が激しく跳ねる。全員の視線が集中する中、しゅわ丸はテーブルの中央にあるワインボトルへと向かった。
ただの会議用のワインだ。そう思った刹那、瓶内の泡が怪しく発光する。
ぽんっ、と弾ける音と共に、空間に映像が投影された。
地下の、石造りの通路。並び立つ無数の樽。その奥に、葡萄色の霧に包まれた人影が立っている。顔は見えない。だが、響き渡る声は冷徹だった。
「まだ足りない」
全員が息を呑み、凍りつく。
「もっと熟成させろ。もっと未練を」
ぞわり、と肌が粟立つ。映像が消え、しゅわ丸がぐったりと倒れ込む。私は慌てて抱き上げた。
「しゅわ丸!」
ぷるる……と弱々しく震えるしゅわ丸。まるで無理やり見せられたような衰弱ぶりだった。
その時、ヴィオレッタが血の気を失った顔で呟く。
「その声……私も聞いたことがあります」
震える唇。女王は小さく拳を握りしめ、消え入りそうな声で続けた。
「毎晩、夢の中で同じ声が聞こえるのです」
会議室の空気が一気に張り詰める。これは単なる病気ではない。地下五階の王家熟成庫に、確実に何かが巣食っている。
ゆうこは資料を閉じ、立ち上がった。
「決まりね」
クルスが不敵に笑い、サクも静かに頷く。ちくわは怯えながらも覚悟を決めたようだ。
「まずは追憶酒蔵を見に行こう」
こうして、ヴィノリアの深い闇へと続く最初の調査が幕を開けた。
◇
翌朝。
追憶酒蔵は早くも賑わいを見せていた。
巨大な石造りの建物、葡萄の蔓を模した荘厳な装飾、色鮮やかなステンドグラス。観光名所としても名高いこの場所には、多くの人々が出入りしている。
だが、館内の空気はどこか重い。人々は一様に、未来ではなく過去を見つめるような、虚ろな目をしていた。
「普通に営業してるのね」
「閉鎖したら国中が大騒ぎになりますから」
ちくわが答える。
「この国の人達にとっては、聖地みたいな場所なんです」
なるほど、だから王城も介入に慎重なのか。私は館内へ足を踏み入れた。
途端に甘い香りが鼻をくすぐる。葡萄、樽、熟成酒……様々な香りが混ざり合い、壁一面には無数のボトルが並んでいる。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。クルスも圧倒された様子で言葉を失っていた。
「これ全部酒かよ」
「展示区画だけでこの量です。保管庫はこの何百倍もあります」
「何百倍……」
「はい、何百倍です」
クルスが考えるのを放棄するほど、その規模は途方もなかった。
奥へ進むと、『思い出の一杯展』という展示コーナーがあった。ガラスケースの中に収められたワインと、そこに添えられた説明文が目に留まる。
『最愛の妻へ。共に過ごした三十年に感謝を』
別のケースには。
『娘へ。思い出は消えてしまうから、この酒に預けておくよ』
さらに別の場所には。
『親友へ。あの日伝えられなかったありがとうを』
静寂が支配する館内。誰も騒いではいない。皆、ただ思い出を見に来ているのだ。
しかし、私は違和感を覚える。誰も笑っていない。泣いている者、動かずに立ち尽くしている者。思い出を味わっているというより、思い出に溺れているように見えたからだ。
その時だった。
ぷるっ、ぷるるる。
しゅわ丸が激しく震え出す。
まただ。しゅわ丸は一直線に一つの展示ケースへと飛んでいく。中に入っていた古いワインのラベルには、こう書かれていた。
『婚約二日前』
「変な名前ね」
サクが呟いた瞬間、泡が強く光を放った。
映し出された映像。若い男女が結婚式の準備に追われ、心から幸せそうに笑い合っている。しかし、次の瞬間には崖からの落下、悲鳴、そして――。
映像はそこで途切れた。
また、失った記憶。
また、後悔。また、未練。
この酒蔵は、私が思っていたよりも遥かに、深く重い闇を抱えているようだった。
その時、突然、館内に悲鳴が響き渡った。
「きゃああああっ!!」
全員が一斉に振り向く。そこには人だかりができていた。嫌な予感が胸をよぎり、ゆうこはすぐさま駆け出す。クルス、サク、そしてちくわもそれに続いた。
人混みをかき分けた先、そこにいたのは一人の若い女性だった。
彼女は展示ケースの前に立ったまま、目を閉じて微笑んでいる。まるで誰かと再会したかのような、あまりにも幸せそうな顔で。
「おい!」
係員が肩を揺するが、女性に反応はない。
「またか……」
誰かの呟きが、妙に重く響く。「また」という言葉の意味に、ゆうこの背筋が凍る。
すぐさま彼女の脈を測ると、呼吸も身体も正常だ。だが、意識だけが戻らない。
(眠り葡萄病……間違いねえ)
ゆうこが確信したその時、女性の唇が微かに動いた。
「……お父さん」
こぼれ落ちる涙。あまりにも幸せそうな寝顔を見て、胸が締め付けられる。
傍らのしゅわ丸が、激しく震えながら女性の足元を指し示した。
「ぷるるるるるっ!」
異変に気づいたゆうこが床の石畳に目を凝らす。そこには、ほんの僅かな紫色の霧が漂っていた。
糸のように細い霧は、まるで何かが獲物を手繰り寄せるかのように、酒蔵の奥へと伸びている。地下へ向かって。
「見える?」
「……見える」
ゆうこの問いに、サクが目を細めて頷く。クルスにも霧は見えているらしい。ちくわは青ざめた顔で立ち尽くしていた。
紫色の霧はゆっくりと、酒蔵の奥にある『関係者以外立入禁止』の扉へと続いていた。
その扉の向こう、被害者たちが最後に足を踏み入れた場所である地下保管区へと。




