第77話『味を失った女王』
その日の夕方。
ゆうこ達は宿へ戻り、簡単な地図とヴィノリアで集めた情報をテーブルに広げていた。珍しく全員が真面目な顔をしている。
しゅわ丸だけは元気がない様子で、ゆうこの膝の上で小さく丸まっていた。
「整理しましょうか」
元看護師時代の癖で、問題が起きるとまず情報整理を優先してしまう。感情で動く前に状況を把握しなければならない。ゆうこがそう切り出し、指を一本立てて説明を始めた。
「まず病気。『眠り葡萄病』。意識はあるのに起きない。全員が幸せそうな顔をしている」
サクが頷き、さらに情報を補足する。
「そして大半が追憶酒蔵に関係しているわ」
クルスが腕を組んで、渋い顔で続けた。
「地下には何かいるっぽい。しゅわ丸が見たやつだな」
そこまでは確定だ。問題はその先にある。何が原因か、どうやって発症するのか、どうして最近になって増えたのか。全てが不明のまま。部屋に重い沈黙が落ちたその時だった。
こんこん。
扉が叩かれ、返事をする間もなく勢いよく扉が開かれた。
「失礼しますっ!!」
入ってきたのはちくわだった。なぜか息を切らし、樽を二つも抱えている。
「なんで樽持ってんだ」
「落ち着かないので!」
「意味分かんねぇよ」
クルスは呆れながらも、ちくわが樽を降ろすと『どんっ』と床が大きく鳴った。
相当な重さのはずだが、本人は平然としている。その腕だけが黒く硬化しているのを、サクが鋭い視線で見逃さなかった。
だが今はそれを追求している場合ではない。ちくわが胸元から取り出した封筒をテーブルに置いた。
「王城からです」
空気が一変する。
「女王陛下から?」
ゆうこの問いに、ちくわは頷いた。封を切ると、中には簡潔で綺麗な文字が綴られていた。
⸻
追憶酒蔵の件について。貴殿らに協力を依頼したい。至急、王城へ来られたし。
――ヴィオレッタ
⸻
クルスが思わず吹いてしまう。
「いきなり王城かよ。展開早くない?」
「確かに」
ゆうこも苦笑するしかなかった。
だが、ちくわの顔は笑っていなかった。むしろ極限まで緊張している。サクが不審に思い、問い詰めた。
「何かあったの?」
ちくわは数秒間、言うべきか迷うように黙り込んだ。やがて、小さく口を開く。
「実は今日……また一人倒れました」
部屋がしんと静まり返る。
「追憶酒蔵の職員です。これで七人目」
七人。想像以上に多い。ゆうこの表情が険しくなる。これはもう噂話ではない。明確な異常事態だ。
「症状は?」
「同じです。幸せそうな顔で眠ったまま」
ゆうこは深く息を吐いた。医療者として、嫌な予感しかしない。原因不明、進行中、そして誰も止められない。放置していい状況ではなかった。
その時、膝の上で眠っていたしゅわ丸が、ぷるっと身震いをして突然起き上がった。全員の視線が集まる。
夕日に照らされた葡萄色の尖塔。それを見つめながら震えるしゅわ丸から、誰かの声が漏れた。
『……かえりたい』
全員が息を呑み、固まった。確かに聞こえた。クルスが青ざめた顔で振り返る。
「今の聞きました?」
サクも無言で頷く。ゆうこの背中を冷や汗が流れた。しゅわ丸は怯えるように、悲しむように震えている。
『かえりたい』
もう一度、はっきりと。窓の外から、ヴィオリアのどこかから、無数の人々の未練が重なったような声が響いた。
その夜、ゆうこ達は王城へ向かうことになる。味を失った女王――ヴィオレッタと対面するために。
◇
王城は丘の上に建っていた。葡萄畑を見下ろす白い城は、夕陽を受けて赤紫色に染まり、まるで巨大なワイングラスの中に沈んでいるかのようだった。
「お城だぁ……」
ゆうこは素直に感動し、見上げていた。
異世界に来ていくつか城は見たが、ここは華やかでありながらも、どこか寂しげな雰囲気を纏っている。
「観光してる場合じゃないわよ」
サクが呆れたように言うが、ゆうこは食い下がる。
「いやでも城だよ? テンション上がらない?」
「別に」
「上がらないの!?」
クルスが横で吹き出し、ちくわが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、陛下をお待たせしてまして……」
「ごめん」
即座に謝罪し、一同は急いで城内へ向かった。
謁見の間は、巨大な扉の先、赤い絨毯と高い天井、葡萄を模した装飾で彩られた豪華な空間だった。
しかし、人は少ない。必要最低限の衛兵と給仕だけが影のように立っている。
その奥、王座に座る女性がいた。長い紫髪に白いドレス、透き通るような肌。年齢は二十代後半ほどに見える。
溜息が出るほどの美しさだが、ゆうこは彼女の目に釘付けになった。それは、長い時間眠れていない人間特有の、心の底から疲弊しきった瞳だった。
「よく来てくださいました」
ヴィオレッタが柔らかい声で微笑む。だが、どこか空虚だった。ゆうこ達は順に名乗る。
「初めまして。ぽしゃけ医療所のゆうこです」
「サクよ」
「クルスだ」
「しゅわ」
しゅわ丸の自己紹介に、ヴィオレッタが少しだけ笑った。初めて彼女の表情に感情らしいものが灯った瞬間だった。
「可愛いですね」
「でしょ」
ゆうこが間髪入れずに即答する。親バカ全開の様子に、少しだけ場が和む。
その時、脇に立っていた給仕服の男性が一歩前に出た。整った黒髪に、落ち着いた雰囲気の男性だ。
「筆頭給仕のキムです」
丁寧な一礼のあと、彼はヴィオレッタに視線を向けた。ほんの一瞬だが、その目には慈愛に満ちた優しい色が宿っていた。
ゆうこは見逃さない。サクも見逃さない。クルスも見逃さない。全員がその空気に気付いた。
「両想いだな」
クルスが小声で呟くと、サクもゆうこも、そしてちくわまでもが深く頷いた。本人達以外、全員がその事実に気付いていた。
その後、晩餐会が開かれた。テーブルには豪華な料理と、大量のワインが並んでいる。さすがはワインの国といったところか。
ゆうこの目が輝き、釣られてクルスも期待に表情を明るくさせる。サクまでもが少しだけ嬉しそうに口元を緩めていた。
しかし、食事が始まってしばらくして、ゆうこは違和感を覚える。ヴィオレッタが、一度も表情を変えていないのだ。
ワインを飲み、料理を口にし、その香りを嗅ぐ。その間、彼女の表情は氷のように無機質なままだった。
ワインの国の女王でありながら、まるで味が分かっていないかのような空虚な顔。やがて、ヴィオレッタが静かにグラスを置き、ぽつりと呟いた。
「……何も感じないのです」
場が水を打ったように静まり返る。ヴィオレッタは深紅の液体を注がれたグラスを見つめていた。宝石のように美しいワインだが、その瞳には何の輝きも映っていない。
「何年も前から。最高級のワインも、百年熟成の名酒も……何も、味がしないのです」
ゆうこは黙って聞き入っていた。直感で分かる。これは身体の病気ではない。
魂が削り取られるような、心の病だ。その時、それまで大人しくしていたしゅわ丸が突然、ぷるるっと激しく震え出した。
全員が視線を向ける。しゅわ丸はヴィオレッタをじっと見つめていた。その身体からぽたりと一粒の泡が落ち、弾ける。
◇
次の瞬間、ゆうこの視界に激しい映像が流れ込んできた。
若き日のヴィオレッタと、隣に寄り添う見知らぬ青年。二人は楽しげに笑い、葡萄畑を歩いている。幸せの絶頂。
だが、映像は容赦なく急転する。激しい雨、横転する馬車、広がる血の海、悲痛な叫び声。伸ばされた手、届かなかった指先、そして決して癒えることのない深い後悔。
映像が途切れる。
ゆうこは息を呑み、思わず胸を押さえた。サクも表情を凍らせている。どうやら同じ光景を共有したらしい。
しゅわ丸はまだ震えている。まるで、それだけでは終わらないと告げるように。
その時、ヴィオレッタの背後の、誰にも見えない空間に葡萄色の霧が揺らめいた。女王に寄り添い、囁きかけ、そして溶けるように消えていく。
ゆうこの背筋を冷たいものが駆け抜けた。あれはいったい何なのか。
そんな疑念が浮かんだ瞬間、女王が静かに口を開く。
「お願いがあります」
その声は、君主としてではなく、一人の女性としての切実な響きを持っていた。
「追憶酒蔵を調べてください」
少しだけ震える唇で、彼女は言葉を繋ぐ。
「……あそこから、何かが私を呼んでいるのです」
謁見の間が再び静まり返る。ヴィオレッタは自嘲するように小さく微笑んだ。
「おかしな話でしょう? 女王が幻聴を訴えるなんて」
「いいえ」
ゆうこは力強く首を振った。
「しゅわ丸も同じような反応をしています。少なくとも、気のせいではないはずです」
その言葉に、ヴィオレッタの強張っていた表情が少しだけ和らぐ。信じてもらえるとは思っていなかったのだろう。
背後に控えていたキムも、安堵したように小さく息を吐いた。




