第76話『ちくわ、現る』
翌朝。
ヴィノリアの朝は、どこか他の街より遅いように感じられた。葡萄畑には柔らかな朝日が差し込み、鳥たちも快活に鳴いている。
景色だけを見れば、これ以上なく美しい牧歌的な風景だ。だが、この街には決定的な欠落がある。街そのものに、活気がまるでないのだ。
ゆうこは、朝の光に包まれた街路を歩きながら、胸の中に広がる違和感に気付いた。
「……変ね」
ゆうこは市場の喧騒に身を置きながら、小さく呟いた。
店は開いている。人も行き交っている。しかし、そこには奇妙なほどの停滞があった。誰もが急ぐ素振りを見せず、誰も未来の話をしない。聞こえてくるのは、耳にタコができるほど繰り返される昔話ばかりだ。
「昔はな」
「若い頃はな」
「亡くなった妻がな」
「父さんがな」
過去。過去。また、過去。まるで街全体が、過ぎ去った日々に背中を向けたまま、後ろ向きに歩んでいるかのようだ。
その光景に、隣を歩いていたクルスが不快そうに眉をひそめた。
「なんか変だな。平和そうなのに、どうも元気がないですね」
クルスの言葉に、サクが冷静に相槌を打つ。
「ええ。まるで、何かに栄養を吸い取られているみたいね」
その時、前方で突然の騒ぎが起きた。
「おい!」「誰か呼べ!」「まただ!」といった緊迫した声が響く。
その『また』という言葉に、ゆうこの神経が鋭く反応した。四人は顔を見合わせると、同時に駆け出した。人だかりを無遠慮にかき分け、中心へと進む。
路地裏に、一人の男が座り込んでいた。いや、正確には座っているのではない。男は虚空を見つめたまま、微動だにせず、ただ穏やかな笑みを浮かべているのだ。
まるで、誰にも邪魔されない至福の夢の中にいるかのような、安らかな表情だった。
「おい! しっかりしろ!」
仲間らしき男が肩を激しく揺さぶるが、反応はない。
「昨日からこうなんだ!」
「ずっと?」
「ああ、朝からずっと……!」
ゆうこは即座に膝をつくと、手際よく診察を開始した。脈を測り、呼吸を確認し、瞳孔に光を当てる。意識レベルのチェックも行ったが、どれも異常は見当たらない。それなのに、男は決して目覚めない。
「病気か?」
クルスの問いに、ゆうこは迷いなく首を振った。
「違う。少なくとも、私が知る限りどの病気にも当てはまらない」
その時、男の口元が微かに動いた。
「……母さん」
小さな、あまりにも愛おしそうな呟き。男の目から涙が零れ落ちる。それなのに、彼は笑っていた。あまりにも幸せそうに、絶望的なほど穏やかに。
その光景に、ゆうこの背中に冷たいものが走った。
「何が見えてるの……?」
誰にともなく呟くゆうこに、友人が掠れた声で答える。
「分からねぇ。でも、あいつ昨日言ってたんだ。親父の形見だっていう酒を飲んだって」
形見。思い出。昨日の老人。そして昨夜の映像。全てのピースが、カチリと音を立てて繋がっていく。その瞬間、ゆうこの肩に乗っていたしゅわ丸が、激しく震え出した。
『ぷるるるる』
しゅわ丸は弾丸のように男の服へと飛び移り、ペタリと張り付く。触れた瞬間、しゅわ丸の体がまばゆい光を放った。次の瞬間、ゆうこの視界が白一色に染め上げられる。
見えた。幼い男の子が、母親に抱きしめられている。温かい食卓、誕生日、優しい声。
そして――病室での別れ。泣き叫ぶ少年の姿。
――映像が途切れる。ゆうこは荒い息を吐きながら、現実へと引き戻された。
「……そういうことね」
サクが静かに状況を整理する。
「彼は今、現実を生きることをやめて、失ったはずの過去の中に閉じこもっているのよ」
男はもう、ここにはいない。戻れないのではない、戻らないのだ。クルスが顔をしかめ、歯噛みする。
「それって、要するに……」
「ええ。最高の夢よ。だからこそ、最高に厄介なの」
サクの指摘に、ゆうこも深く頷く。苦しみなら人はそこから逃げ出そうとする。痛みなら治療できる。だが、愛おしい過去は違う。
誰もがそこへ戻りたいと願い、二度と離れたくないと願う。だからこそ、抜け出せない。
「また発症者ですか」
不意に背後からかけられた声に、四人は振り返った。そこには、白色の制服を纏った少女が立っていた。
両腕には到底人間には持てないであろう巨大なワイン樽を抱えている。しかし彼女は平然としていた。よく見れば、彼女の腕は鉄のように黒く硬化している。
少女は深い溜息をつくと、ゆうこたちを見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「初めまして。王城給仕見習いの――ちくわです!」
少女は、この異常な状況には不釣り合いなほどの満面の笑みで名乗った。その名前に、クルスが即座にツッコミを入れる。
「ちくわ!? お前、絶対本名じゃねぇだろ!」
少女はきょとんと瞬きをする。
「いいえ、本名ですよ?」
「いや、無理があるだろ! どういう経緯だよ!」
「私も知りたいです」
彼女は至って真顔だった。
そのあまりの真剣さに、クルスもゆうこもサクも、どう反応していいか分からず言葉に詰まる。どうやら本人も、自分の名前の由来には納得していないらしい。ちくわは再び、にこりと笑った。
「よく言われます」
「だろうね」
ゆうこが即答し、溜息を吐く。そんな会話をしている間にも、男は路地裏で幸せそうに眠り続けている。ちくわは慣れた手つきで男のそばにしゃがみ込むと、瞼を開き、脈を確認した。
「やっぱり……最近、本当に増えてるんですよね」
彼女の表情から先ほどまでの天然ぶりが消え、影が差す。彼女は給仕見習いだが、ただの給仕ではなさそうだ。
「これ、『眠り葡萄病』って呼ばれてます」
「眠り葡萄病……」
「正式名称じゃないですけど、皆そう呼ぶんです。過去の夢から戻ってこなくなる……」
ゆうこの顔が険しくなる。
「治療法は?」
「ありません。今のところは」
即答だった。
周囲の人々も、彼女の言葉に驚く様子を見せない。つまり、この現象はもはや珍しいことではなく、この街で頻発しているということだ。
ゆうこは男の手首を握りしめる。身体は明らかに痩せ細っていた。このまま放置すれば、衰弱して命を落とすだろう。
「どれくらい続くの?」
「人によりますが……数日で目覚める人もいれば、そのまま亡くなる人もいます」
静寂が路地裏を支配した。クルスの顔から笑みが消える。
その時、男の胸の上でしゅわ丸が激しく振動し、一滴の泡を男の胸に落とした。
泡が弾けた瞬間、男の身体から薄紫色の霧が立ち上る。ほんの一瞬。誰もが見逃すような現象だったが、ゆうことサクは確かにそれを見た。
「……今の、見えた?」
「ええ。間違いなく」
紫色。葡萄酒のような色をした霧が、虚空へ溶けていく。その光景に、ちくわが驚愕の表情を浮かべた。
「えっ!? 今の、見えたんですか?」
「ええ。見えるの?」
ゆうこの問いに、ちくわは慌てて首を振る。
「い、いえ! 普通は見えません! 私たちでさえ……あ」
『普通は』。その言葉に、サクの銀色の瞳が鋭く細められる。
「あなた、何か知っているわね」
ちくわの肩がビクリと跳ねる。分かりやすすぎる反応に、クルスが呆れて溜息を吐いた。
「隠し事向いてねぇな、お前」
「うぅ……」
ちくわは観念したように目を逸らし、声を潜めて語り始めた。
「実は……王城から調査依頼が出ているんです。この病気の被害者のほとんどが、ある場所を訪れた後に倒れていると」
「ある場所?」
ちくわは街の中心、丘の上にそびえる巨大な建物を指差した。
葡萄を模した尖塔、陽光を反射して煌めくステンドグラス。ヴィノリアの象徴であり、最大の名所。
「『追憶酒蔵』です」
その名前を聞いた瞬間、しゅわ丸が今までで一番大きく、悲鳴のような振動を上げた。まるで本能が、ここへは近づくなと警鐘を鳴らしているかのように。
「何かいる……何かがそこにいるのかもしれないわね」
サクの呟きに、ちくわは顔を曇らせる。
「それだけじゃありません……王城は公表していませんが、追憶酒蔵の職員も何人か倒れているんです」
空気が一変した。単なる噂ではなく、施設の内部すらも汚染されているのだ。
「いつから?」
「半年くらい前から……原因不明。酒にも建物にも、呪いの兆候すらもない。なのに、被害者は増える一方なんです」
ゆうこの胃が重くなる。医者として、原因不明の病を聞く時のような不快感。その時、路地の奥から昨夜会った老人が現れた。
「また追憶酒蔵か」
「爺さん、知ってるのか?」
クルスの問いに、老人は苦笑を浮かべる。
「この街の人間なら誰でも知っとるよ。追憶酒蔵は、本来思い出を大切に保存する場所だった。亡くした家族、叶わなかった夢、愛した人……それらを酒に託して未来へ残す場所じゃった」
老人は遠い目で、丘の上の酒蔵を見つめる。
「だが、今は違う。思い出を残すためではなく、思い出の中に逃げ込むためにあそこへ行く。この国はな、過去を愛しすぎた。……だから、喰われ始めたんじゃよ」
「喰われる?」
「思い出にな」
その瞬間、しゅわ丸が再び、ひときわ激しく震えた。泡が弾け、ゆうこの脳裏に光景が焼き付く。広大な地下空間。無数の樽。
そして、暗闇の奥に潜む、人ならざる『何か』。葡萄色の霧。揺れるワイングラス。甘い香り。その何かが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「しゅわぁぁぁぁっ!!」
しゅわ丸が悲鳴を上げ、ゆうこは息を呑んだ。
今の映像は、ただの思い出ではない。あちら側から、確かに『見られた』のだ。
「……今の、追憶酒蔵の地下です」
ちくわの震える声が、静まり返った路地に響く。誰も笑わなかった。冗談で済まされないと、全員が本能で理解していたからだ。
ヴィノリアという街は、想像以上に深刻な『病』をその地下に抱えていた。




