第75話『ワインの国』
照りつける太陽は、まるで頭上から地上のすべてを焼き尽くそうとするかのように容赦がない。
視界の先には、どこまでも延々と続く街道が一本、巨大な白蛇の抜け殻のように横たわっている。
そして。
そんな過酷な光景の中を、ふらふらと歩く三人組がいた。
いや、正確には違う。
一人と一人と一匹と一人である。
先頭をゆくしゅわ丸だけは、この酷暑の中でもやけに元気だ。ぷるぷると弾力のある体を震わせ、むしろ跳ねるような足取りで進んでいる。
問題なのは、その後ろをついてくる人間組だった。
「……もう、一歩も歩きたくない」
ゆうこは死んだ魚のような虚ろな目で呟くと、重い足を引きずるようにして立ち止まった。
着古した白衣の裾は、街道を舞う砂埃で茶色く染まり、元の色が判別できないほどに汚れている。元看護師として鍛えたはずの体力も、とっくに限界を超えていた。
「あと少しよ。あそこを越えれば、きっと街があるはずだから」
サクは前を向いたまま、努めて明るい声を出す。しかし、その声にも覇気は宿っていない。トレードマークの美しい銀髪も、湿気と砂埃で艶を失い、どこかしおれてしまっていた。
「その『あと少し』を、昨日から数えて五回も聞いてるんだけど……」
ゆうこが恨みがましく視線を向けると、サクは気まずげに目を逸らす。
「……気のせいよ」
「気のせいじゃないですよ。耳にタコができます」
クルスが即座に突っ込みを入れ、大げさに肩を落とす。彼の額からは大粒の汗が滴り落ち、肩に担いだ長剣の重みがいっそう増しているようだった。
「何日歩いてるんですか、この乾いた大地を……」
「知らないわ。そんなこと考える余裕があるなら足を動かして」
「せめて今日が何日目かくらいは把握して下さい」
「もう途中から、どうでもよくなったの。考えるだけ無駄でしょう?」
諦めに満ちた言葉に、サクも返す言葉を失う。
終わっていた。彼らの旅は、精神的にも肉体的にも、完全に終焉を迎えていた。
その時だった。
乾ききった空気に、一筋の風が舞い込んだ。
ふわり。
甘美で芳醇な香りが、ゆうこの鼻孔をくすぐる。
「……ん?」
ゆうこが、かすかな期待を込めて顔を上げる。
それは、完熟した葡萄の甘い香りだった。果実酒が醸し出す、どこか妖艶でいて、心安らぐような懐かしい匂い。
「この匂い……!」
ゆうこが目を輝かせ、荒い息を整える。
そして。
彼らが最後の力を振り絞って丘を越えた先には、驚くべき光景が広がっていた。
月明かりに照らされた無数の葡萄畑。
地平線の彼方まで続く葡萄棚は、まるで大地の宝石箱をひっくり返したかのように輝いている。その奥には、宝石のような灯りが点在する街が静かに眠っていた。
「おお……なんだ、あれは……」
クルスが驚嘆し、思わず歩みを止めて景色を見渡す。
サクもまた、目を細めて幻想的な光景を焼き付ける。
「信じられない。砂漠の果てに、こんなにも豊かな国があるなんて」
そして。
街の門の上には、古びた、しかし風格のある大きな看板が掲げられていた。
【葡酔国ヴィノリアへようこそ】
「着いた……ようやく、着いたんだわ」
ゆうこが安堵の吐息とともに呟く。
その瞬間、限界を迎えていた体から糸が切れたように、三人同時にその場に倒れ込んだ。
「まず、宿……」
「宿をとらなきゃ……」
「風呂に浸かりたい……」
「しゅわぁ……」
感動よりも先に、強烈な疲労が彼らを支配していた。
◇
それから一時間後。
宿屋の客室で、ゆうこは魂の抜けた声を漏らした。
「生き返ったぁぁぁぁ……」
清潔なベッドに大の字になり、柔らかな布団の感触を全身で味わう。
屋根があり、壁があり、そして何より歩かなくていい。
ゆうこにとって、それは何物にも代えがたい至福の時間だった。
「人間って、寝床があるだけでこれほど幸せになれるのね……」
「……今さら?」
サクが呆れたように椅子へ座り込む。しかし彼女自身も、珍しくぐったりとしており、肩の力が抜けきっていた。
一方、クルスはといえば。
既にベッドへ沈み込み、半分埋まった状態で意識を飛ばしていた。
「今日はもう、一歩も動かねぇ……」
「賛成よ。明日のことは明日考えるわ」
「異議なし。おやすみ」
満場一致の結論だった。
彼らは、文明の利器である「寝具」に身を任せ、深い眠りの淵へ沈もうとしていた。
その時である。
ぐぅぅぅぅぅぅ。
部屋中に響き渡る、三人の腹の虫が合唱する音。
静寂。
三人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
「……飯だわ」
「飯ね。食べないと動けないわ」
「飯です。命の洗濯の前に、命の補給を」
全会一致で、彼らは再び立ち上がった。
一階の食堂へと足を踏み入れると、そこは旅の疲れを忘れさせるほどに温かな熱気に満ちていた。
木造の広い空間には、壁一面に葡萄のつたを模した装飾が施され、天井からは琥珀色の光を灯す葡萄型のランプが幾つも吊るされている。
鼻をくすぐるのは、甘く熟した果実と、古樽の中で静かに呼吸を続けてきたワインの芳醇な香りだ。
「おぉ……すごい活気だな」
ゆうこが目を輝かせ、煌びやかな光景を見渡す。
テーブルの上には、この国ならではの贅沢な料理が所狭しと並んでいた。深く煮詰められた葡萄ソースを絡めた肉料理、芳醇な香りを放つ熟成チーズ、焼きたてのパンの香ばしい匂い。
そして、そのどれもを引き立てるために選ばれた、無数のワインボトル。
「やっと、人間に戻れる飯にありつける……」
クルスが感動に打ち震え、フォークを手に取る。
彼にとって、それはただの食事ではなく、旅という名の苦行から解き放たれる儀式のようなものだった。
三人は無言で食べ始めた。
空腹は最高のスパイスと言わんばかりに、料理を口へ運び、喉を鳴らす。
しばらくの間、彼らの間から会話は消え、ただカトラリーが皿を鳴らす音と、周囲の賑わいだけが響いていた。
そして。
ようやく胃袋が満たされ、人心地ついた頃。
隣の席から漏れ聞こえてくる話し声が、ゆうこの意識を引いた。
「昔の収穫祭は、もっと凄かったんだよ。今の若いやつらには想像もつかんほどに賑やかでな」
白髪の老人が、遠い目をして杯を揺らす。
向かいに座る男も、どこか寂しげに頷く。
「ああ。あの頃は本当に良かった。あの頃飲んだワインの味も、一生忘れられねぇ」
「亡くなった妻が、あそこまで美味そうに笑うなんて……。あの光景は、俺の宝物だ」
しみじみと、言葉を噛みしめるように語り合う三人。
その会話には、未来への希望ではなく、過去の残像だけが刻まれていた。
ゆうこは小さく首を傾げる。
ふと視線を横へ移せば、別のテーブルでも同じ光景が繰り返されている。
「若い頃に戻れたら、もっとマシな生き方ができたのになぁ」
「俺もだ。今でも夢に見るんだよ、あの日の葡萄畑をな」
また、昔話だ。
さらに別の席からも、父の記憶、かつての栄光、戻らぬ日々への郷愁が、ワインの泡と共に立ち上っている。
未来の話が聞こえない。
ゆうこはパンをちぎる手を止め、酒場全体を見回した。
誰もが楽しそうに笑い、グラスを重ねている。だが、その瞳の奥には、どこか鏡のように「過去」だけを映し続ける空虚さがあった。
「……ねぇ、サク」
ゆうこがテーブル越しに小声で呼びかける。
「ん?」
サクがグラスを置き、顔を上げる。
「この国さ。やたらと思い出話が多くない?」
ゆうこが周囲を顎で示すと、サクもまた注意深く耳を澄ませる。
「……確かに。さっきから聞こえてくるの、昔話ばっかりね」
聞こえてくるのは、どこもかしこも過ぎ去った季節の記録ばかりだった。
クルスもグラスを傾けつつ、眉をひそめる。
「言われてみれば……、皆ずっと過去の話ばっかりしてますね」
その時。
テーブルの隅にいたしゅわ丸が、突然、びょんと跳ねた。
ぷるっ、ぷるるっ。
何かに突き動かされるように、しゅわ丸はテーブルから軽やかに飛び降りる。
「しゅわ?」
ゆうこが慌てて声をかける。
「ちょっと、どこへ行くの!」
クルスが立ち上がろうとするが、しゅわ丸の動きは止まらない。
それは一直線に、カウンターの奥に鎮座する一本のワインボトルへ向かっていた。
深い赤色をした、重厚なガラス瓶。
しゅわ丸はその瓶へぺたりと張り付くと、体内の気泡を淡い光に変えて明滅させた。
ぷくり。
ぷくぷく。
そして――。
ゆうこの脳内に、鮮明な映像が流れ込んできた。
若い男女が葡萄畑で笑い合う姿。
村の人々に祝福された結婚式。
ゆりかごの中で眠る赤ん坊。
家族の温かな団らん。
しかし。
映像は唐突に切り替わる。
病室の冷たい白い壁。
細くなった手を握りしめる男の涙。
「ありがとう」という、かすかな言葉と共に閉じる瞳。
静かな最期。
映像は一瞬だった。
だが、ゆうこの胸を締め付け、呼吸を乱すには十分な熱量を持っていた。
「……え?」
ゆうこが顔を強張らせ、固まる。
映像は霧のように消え去った。
張り付いていたしゅわ丸が、ひどく震えている。
ぷるぷる。ぷるぷる。
まるで、凍りつくような冷気にさらされているかのように。
「しゅわ……」
サクもまた、青ざめた表情でワインを見つめている。
クルスは目を見開き、息を呑む。
「今の……見ました?」
「ええ……あまりにも鮮明に」
ゆうこは小さく頷き、震える指先でカウンターのワインを見つめた。
深紅の液体が、瓶の中でゆらりと揺れている。
まるで、そこに誰かの人生そのものが閉じ込められているかのように。
その時、カウンターの向こうでグラスを磨いていた酒場の主人が、ぽつりと呟いた。
「その酒はな。ある夫婦の記念酒だ」
三人が同時に振り向く。
主人はグラスを布巾で拭いながら、少しだけ寂しそうに口角を上げた。
「この国じゃあ、珍しくもないことだ。思い出を酒に預けるのはな」
ぞくり。
ゆうこの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
「思い出を、酒に預ける……?」
ゆうこの問いかけに、主人は肩をすくめる。
「さあな。人による」
「人による、って……」
「飲みに来る奴もいる。忘れたくて預ける奴もいる。あるいは、毎年同じ日に開けて、終わった時間を確かめる奴もいる。中には、一生開けずに墓場まで持っていく奴もいるよ」
主人の淡々とした語り口に、嘘は感じられない。
それが、この国の「文化」なのだ。
だが、しゅわ丸はまだ止まらない。
ぷるるっ、ぷるるるるっ。
明らかに様子がおかしい。
「しゅわ丸、どうしたの?」
ゆうこがしゅわ丸を抱き上げると、その体から伝わる震えが、今度はゆうこの心まで伝播した。
しゅわ丸は、ひどく悲しそうな声で「しゅわ……」と鳴く。
サクが目を細め、静かに分析する。
「感情が、濃すぎるのね」
「感情……?」
「ええ。喜びも、悲しみも、未練も、全部が酒の中に濃縮されて残っている。しゅわ丸は、その剥き出しの感情をそのまま感じ取ってしまっているのよ」
クルスが険しい表情で、しゅわ丸を覗き込む。
「そんなもん、ずっと感じてたら頭がおかしくなるだろ。ただの記憶じゃねぇ、感情の洪水だ」
「だから怯えてるのね」
しゅわ丸は、ゆうこの腕の中へ潜り込む。
いつもなら好奇心旺盛に飛び回るけど、まるで怖い夢にうなされた子供のように、小さく身を縮めている。
その時。
カラン、と酒場の扉が開き、鈴の音が響く。
全員の視線が、自然と入り口へ向かった。
そこに立っていたのは、背筋の曲がった一人の老人だった。
だが。
彼が入ってきただけで、酒場の空気が一瞬にして凍りついた。
店主が眉をひそめ、常連客たちが、まるで何かに怯えるように視線を逸らしていく。
老人は何も言わず、黙々とカウンターへ座った。
そして。
懐から、一本のワインを差し出した。
深い紫色の瓶。ラベルはすっかり色褪せ、文字すら読み取れないほど古い。
「……開けてくれ」
その声は、掠れていた。
店主が固まる。
「……本当に、いいのか。あと戻りはできないぞ」
「ああ」
老人は笑った。
どこか寂しげで、どこか解放されたような、不思議な笑みだった。
「五十年……待ち続けたからな」
酒場が、重い静寂に包まれる。
ゆうこ達には、その言葉の意味が分からない。だが、周囲の客たちは、皆がその重みを共有しているようだった。
店主がゆっくりと瓶を受け取り、震える手で栓を抜く。
ぽんっ。
小さな、しかしこの場では爆発音よりも重く響く音がした。
瞬間、甘い、あまりにも甘い葡萄酒の香りが広がった。
老人は、差し出されたグラスを静かに受け取る。
そして。
一口、飲んだ。
静寂。
誰も喋らない。誰も動かない。
老人は目を閉じる。
一秒、一秒を、まるでその味の中に生きているかのように。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
味わうように。
そして――。
ぽろり。
老人の目から、一粒の涙が零れ落ちた。
「……ああ、会いたかったなぁ」
誰に向けた言葉なのか。
聞く者はいない。いや、聞いてはいけない気がした。
老人は泣きながら、笑っていた。
その姿を見て、酒場の誰もが言葉を失う。
しゅわ丸は、その老人を見つめていた。
じっと、瞬きもせずに。
まるで、その老人の心の叫びを、一つ残らずその身に刻み込もうとするかのように。
そして、小さく震えながら呟く。
「……しゅわ」
その声は、この世の何よりも悲しかった。
ゆうこは、その光景をただ眺めることしかできなかった。
そして、まだ知らない。
この国で最も恐ろしい病が。
酒に酔うことではなく――
「思い出」という過去の残影に、魂のすべてを預け、二度と未来へ歩けなくなることだということを。




