第74話『次なる酒を求めて』
◇
その十分後。
炭火の上では、大量の酒うなぎが豪快に焼かれていた。
じゅううううううっ、と心地いい音を立てて上質な脂が落ち、そこから香ばしい煙が立ち上る。甘辛いタレが焦げる特有の芳醇な匂いが、夜風に乗って広場全体を包み込んでいった。
「やばい」
ゆうこが信じられないものを見るかのように、ぽつりと呟く。
「やばいわね」
サクもまた、ごくりと喉を鳴らしながら呟く。
「もう15秒経ちましたかね?」
普段は冷静なクルスまでもが、ただ目の前の光景に圧倒されて呟いていた。
三人とも完全に目が死んでいた。いや、正確には――その理性が完全に死に絶えていた。
目の前には、最高の焼き加減で仕上がった焼きたての酒うなぎ。これほどの暴惑的な香りを前にして、抗える者などこの場にいるはずがなかった。
ナミキがそんな三人を見て、豪快に笑う。
「食えェ!!」
その獰猛な一言を合図に、静かなる食欲の戦争が始まった。
ぱくっ、とサクが待ちきれない様子で酒うなぎを口に運んだ。
ふわっ。
圧倒的な柔らかさで身がほどけ、まるで最初から実体がなかったかのように舌の上で溶けていく。溢れ出す濃厚な脂の旨味、鼻に抜ける炭火の香ばしい香り、そして極上のタレの旨味。
さらに追い打ちをかけるように、ほんのりと上品な酒気が鼻腔をくすぐる。
そのすべてが、一気の濁流となって脳を揺さぶりに押し寄せてきた。
「うっっっま!!!」
サクは衝撃のあまり、勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。
「だろォ!?」
そのリアクションを見たナミキが、我が事のように爆笑する。
「これやばい!!」
「だろォ!?」
「やばい!!」
「だろォ!?」
もはや会話にすらなっていない。だが、言葉を交わさずとも、両者ともこの世の終わりかと思うほどの幸福感に包まれていた。
ゆうこもまた、引き寄せられるように箸を動かして食べる。
一口、二口、三口。
ゆうこは無言だった。
四口、五口。
やはり無言のままだ。
六口、七口。
「……」
一心不乱に食べ進めるその姿に、サクは不思議そうに視線を向けた。
「ゆうこ?」
八口。
「ゆうこ?」
九口。
「ゆうこ!」
何度も呼ばれて、ようやくゆうこはピクリと反応した。
「……何?」
「喋って!?」
サクの必死の懇願に対して、ゆうこはどこまでも真顔だった。そして至極静かに、しかし重みのある声で言う。
「今忙しい」
「何が!?」
「味わうのに」
そのあまりにも大真面目な回答に、サクはこらえきれずに爆笑した。
一方。
クルスはすでに驚異的なペースで三匹目を胃袋に収めていた。
「うめぇ!!」
続けて、四匹目。
「うめぇ!!」
さらに、五匹目。
「うめぇ!!」
「語彙力死んでるわよ」
ひたすら同じ言葉を繰り返す姿に、サクが呆れたようにツッコミを入れる。
「だってうめぇんだもん!」
クルスが開き直ったように叫ぶが、それはぐうの音も出ないほどの正論だった。誰も反論できるはずがない。むしろ、この広場にいる全員が似たようなトランス状態に陥っていたのだから。
そして、その幸せな喧騒の中でも、一人だけ明らかに楽しむ方向性がおかしい奴がいた。
ふと気配を感じて、ゆうこが長机の端へと視線を向ける。
「……何してるの?」
そこには、妙に背筋を伸ばしたチェンが座っていた。
ずるるるるるっ。
涼しげな音を立てて、彼はなぜかそうめんをすすっていた。
「酒うなぎ祭りなんだけど?」
「知っている」
ずるるるるるっ。
「うなぎは?」
「食べる」
ずるるるるるっ。
「じゃあなんで先にそうめんなのよ」
ゆうこの至極真っ当な疑問に、チェンは一切表情を変えずに真顔で答えた。
「そうめんは裏切らないからだ」
「意味が分からない」
その独特すぎるこだわりに、ゆうこは深いあきれ混じりのため息をついた。
その時だった。
「……おい」
少し低い声が背後から飛んできた。
ゆうこが振り返ると、そこにはナミキが腕を組んで立っていた。険しい顔ではあるが、その口元にはどこか苦笑いも浮かんでいる。
「またそうめん食ってやがるのか」
しかしチェンは振り返ることもなく、淡々と箸を動かす。
ずるるるるるっ。
「今日は人様の酒うなぎに手ぇ出してねぇだろうな?」
「今日は違う」
「『今日は』って言い方が引っ掛かるんだよ」
ナミキは肩をすくめながら苦笑した。
「ったく……この前は店の酒うなぎを何匹も持っていきやがって。あの時は本気で海に放り込んでやろうかと思ったぞ」
「必要経費だ」
「必要経費で済ませる話じゃねぇ」
呆れたように笑いながら頭をかくナミキ。
チェンは相変わらず表情一つ変えず、そうめんをすすり続ける。
ずるるるるるっ。
そのやり取りを見ていたゆうこは、ふとチェンの足元に視線を落とした。
「……あれ?」
そこには、信じられない量の酒うなぎの骨が綺麗に積み上げられていた。まるで小さな塔のようだ。
「めちゃくちゃ食べてるじゃない」
チェンは当然のように頷く。
「そうめんの合間にな」
「結局食べてるんじゃない」
ゆうこが呆れてため息をつくと、ナミキはその骨の山を見下ろし、大きく笑った。
「がははっ! 盗み食いじゃなく、ちゃんと金払って食ってくれるなら文句はねぇ! まぁ、今日は祝いだからタダだけどな!」
チェンは静かに箸を置き、ナミキへ視線を向ける。
「酒うなぎ、美味かった」
その一言に、ナミキは少し目を丸くしたあと、豪快に笑った。
「へっ。その言葉が聞けりゃ十分だ。また食いたくなったら、今度は正面から店に来い」
「分かった」
短いやり取りだった。
だが、それだけで二人の間に残っていたわだかまりは、潮風に流されるように消えていった。
「……意外とあっさり仲直りしたわね」
「元々、腕のいい料理人と食いしん坊なんて、喧嘩しても長続きしねぇもんさ」
ナミキは照れ隠しのように笑いながら、酒樽を軽く叩いた。
その後、宴のボルテージはさらに上がっていった。
酒が進み、料理も次々と平らげられ、広場には絶え間なく笑い声が響き渡る。
ナミキは大きな酒樽を愛おしそうに抱えて上機嫌で笑っている。漁師たちは互いにがっちりと肩を組んで、大声で海の歌を歌い上げていた。
子供たちは楽しそうにしゅわ丸を追いかけ回し、しゅわ丸もまた嬉しそうにその短い足で追いかけ返している。
客観的に見れば意味は分からない。だが、理屈抜きで最高に楽しそうだった。
◇
夜中。
案の定、クルスが完全に出来上がっていた。
「聞いてくれ!」
大きく手を広げて叫ぶが、誰も聞いていない。
「俺には秘められし力がある!」
さらに声を張るが、やはり誰も聞いていない。
「その名も――」
サクが美味しそうに酒を煽る。ゆうこがマイペースに酒うなぎを口に運ぶ。ナミキが豪快に笑う。そんな雑音を突き破るように、クルスは全力で叫んだ。
「――ポコちんフラッシュ!!」
一瞬にして、広場中を支配していた大騒ぎが嘘のように静まり返った。
一秒。
二秒。
三秒。
静寂の限界が訪れ――そして。
「ぶはははははははは!!」
爆辞の渦が巻き起こった。爆笑、大爆笑の嵐である。
ナミキは笑いすぎて椅子から転げ落ち、サクは呼吸困難になりながら机を激しく叩いて笑っている。
そんな中、ゆうこだけは額にこれでもかと青筋を浮かべて立ち上がった。
「クルス!!」
「何だ!?」
「宴会の締めにその最低な技名を叫ぶな!!」
「なぜだ!」
「私が後で他人に説明する羽目になるからよ!!」
「誇るべき我が必殺技だぞ!」
「誇るな!!」
「ポコちんフラッシュ!!」
「二回言うなァァァ!!」
◇
気付けば。
月は天高くへと昇り、夜空には満天の星が広がっていた。それでも広場の笑い声は、いささかも衰えることなく絶え間なく響いている。
今まで町を脅かしていたゴーレムの恐怖は、綺麗さっぱり消え去っていた。町の人々は、心の底から安心して笑っている。それが何よりも嬉しかった。
ゆうこは贅沢に焼きたての酒うなぎを頬張りながら、澄んだ夜空を見上げる。
隣ではサクがまだケラケラと笑い、向こうではクルスがまた懲りずに何かやらかして怒られている。ナミキはついに大きな樽の上によじ登り、大声で奇妙な歌を歌っていた。
――平和だ。
この異世界に来てから、本当に色々なことがあった。酒のせいで一度死んで、気づけばこの酒の世界に転移させられて、理不尽な神に振り回されて、挙句の果てにはゴーレムと命がけで戦って。
それでも。今この瞬間だけは、本当に、心の底から楽しかった。
そして賑やかな宴は――夜明けの光が差し込むまで、どこまでも続いていった。
◇ ◇ ◇
「……ん」
ゆうこは差し込む光に、ゆっくりと重い目を開いた。
眩しい。やたらと顔が眩しい。
ぼんやりとした視界で空を見上げると、そこには抜けるような青空が広がっていた。太陽の位置も、随分と高いところにある。
「……あれ?」
まだ働かない頭で、しばらく状況を考える。そして、最悪の事実に気付いた。
「昼じゃん!!」
ゆうこはガバッと勢いよく飛び起きた。
見渡す限りの広場には、昨夜の激しい宴会の残骸が無残に散らばっている。
空っぽになった大量の酒樽、山のように積み上がった皿、散乱する酒うなぎの骨。
そして、あちこちの地面で無防備に酔い潰れている町人たち。どうやら自分も、その死屍累々の一人だったらしい。
「気が付きましたか」
すぐ隣から、低く掠れた声がした。見ると、そこにはクルスがいた。どうやら大きめの空き樽を極上の抱き枕代わりにして寝ていたらしい。
「いつから起きてたの?」
「今です」
「一緒じゃない」
少し離れた場所を確認すると、サクが背もたれのない椅子に座ったまま、器用にバランスを保って爆睡していた。無駄に器用だった。
ゆうこは歩み寄り、その肩を揺さぶる。
「サク」
「……んー」
「昼」
「嘘」
「本当」
サクは寝ぼけ眼でゆっくりと空を見上げた。そして、数秒ほど完全にフリーズした。
「……ほんとだ」
寝ぼけた頭をスッキリさせるため、三人が冷たい水で顔を洗っていると、広場の端から再びあの不穏な音が聞こえてきた。
ずるるるるるっ。
恐る恐る視線を向ける。そこにはやはりチェンがいた。そして当然のようにそうめんをすすっていた。
「まだ食べてるの!?」
ゆうこが驚愕の声を上げると、チェンは淡々と答える。
「朝飯だ」
「もう昼よ」
チェンはピタリと箸を止めた。少しだけ、神妙な面持ちで考え込む。
「昼飯だ」
「訂正が雑なのよ」
それからしばらくして。
ようやく酔いも覚めた三人は、テキパキと旅支度を整えていた。
次の目的地は、美食とワインの国。サクが年季の入った地図を地面に広げる。
「ここから街道をまっすぐ西に進めば着くわ」
「ついにワインの国か」
クルスが期待を込めて腕を組む。ゆうこもそれに深く頷いた。
新しい国。新しい酒文化。そして――十中八九、また新しく巻き起こるであろう大騒動。
正直、嫌な予感しかしない。
街の頑丈な入口までやってくると、そこには大勢の見送りの人々が集まっていた。
ナミキもいるし、お世話になった漁師たちもいる。そして――なぜかチェンもそこに混ざっていた。相変わらず、手にはそうめんの器を持ったままだ。
「チェンも来る?」
ゆうこがダメ元で聞いてみる。チェンは即座に首を横に振った。
「行かない」
「即答ね」
「この町のそうめんを、まだ調べ終わっていない」
「一体何を調べるのよ」
「そうめんだ」
どこまでも意味が分からなかった。
しかし、チェンは少しだけ寂しそうに口元を緩めた。
「まあ、お前たちならどこへ行っても大丈夫だろう」
いつになく、珍しく真面目なトーンの声だった。
「死ぬなよ」
「縁起でもないわね」
「お前たちだから言っている」
その言葉に、ゆうこは返す言葉もなく苦笑した。悲しいかな、全く否定できない。この世界に転生してきてから、すでに何度も本気で死にかけているのだから。
「じゃあね、チェン」
「うむ」
「また会おうぜ」
クルスが快活に手を振る。チェンもそれに応じて軽く手を上げた。
「次はもっと美味いそうめんを用意しておく」
「別に楽しみにしてないですからね!?」
クルスが食い気味に、即座に気持ちのいいツッコミを入れる。
三人は賑やかな街を背に、広大な街道へと足を踏み出した。
後ろを振り返れば、町の人々がちぎれんばかりに手を振っている。ナミキの豪快な笑い声も、遠くからここまで響いてくる。
ちなみにチェンは――もうすでに前を向いてそうめんを食べていた。
「別れの余韻!」
ゆうこの全力のツッコミが、爽やかな風に流されて消えていく。
それを見てサクが楽しそうに吹き出し、クルスもつられて大笑いする。
そうして三人は、力強く歩き出す。
目指すはワインの国。葡萄酒の芳醇な香り漂う、まだ見ぬ新たな土地へ。
きっと次の大騒動が首を長くして待っているであろう旅路へ。
ぽしゃけ医たちの賑やかな旅は、まだまだ続くのだった。




