第73話『セルフウナギ祭り』
そんな賑やかな宴も、夜が一段と深まった頃。
それまでのバカ騒ぎから少し離れた場所で休んでいたゆうこの前へ、一人の老人が静かに歩み寄ってきた。
この港町を長年取りまとめている町長だった。
深く刻まれた皺がその苦労の歴史を物語る、年老いた男。
しかし、今の彼の目には、松明の光を反射して大粒の涙がじんわりと浮かんでいた。
「先生……」
老いた掠れた声で、町長が呼びかける。
「あ、だから先生じゃないですってば。私はただの――」
「いや、あなたはこの町の、いや、我々全員の先生だ」
町長は静かに、しかし断固とした態度で首を振った。
「この港町は、本当にもう何年もの間、あの恐ろしいゴーレムの脅威に苦しめられ続けてきたのだ」
語る彼の声が、過去の辛い記憶を思い出してか少し震え始める。
「ある時は、漁に出たばかりの若い者たちの船が容赦なく沈められた」
「多くの、本当に多くの大切な仲間や家族を失った。命を繋ぐための港も、何度も無残に壊された」
「だが……それも今日、あなたのおかげで全て終わったのだ」
町長はそれだけ言うと、ボロボロと涙を流しながら、ゆうこに向かって深く、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
その言葉をきっかけに、それまで騒がしかった広場が、嘘のように水を打ったように静まり返る。
先ほどまで大酒を喰らって酔っ払っていた荒くれ者の漁師たちも。
楽しそうに走り回っていた子供たちも。
全員が静かに、そして最大限の敬意と感謝の念を込めた目で、中央に立つゆうこを見つめていた。
その、あまりにも純粋で真っ直ぐな無数の視線を全身に浴びて。
ゆうこは、どうにも居心地が悪そうに、少しだけ困ったような苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……私は、ただのしがない医療従事者なんだけどなぁ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと小さく呟く。
ゆうこの持つ技術は、本来は傷ついた人を助けるため、癒やすために血の滲むような努力で磨き上げてきたものだった。
なのに、どうして異世界にやってきて気付けば、巨大なゴーレムを爆縮させて木っ端微塵に破壊しているのだろうか。
自分でも、本当に意味が分からない。
まあ、この理不尽で型破りな世界らしいと言えば、それらしい結末なのかもしれないけれど。
思考に浸るゆうこの頭の中に、不意に、懐かしい温かみを持った声が直接響き渡った。
――『何を悩むことがある。人を救うために極限まで鍛え上げた力で、結果としてこうして多くの人々を救ったんじゃ。お前のしたことは、何一つとして間違っとらんよ』
それはアルケラの声だった。
いつもは皮肉しか言わない神だが、驚くほどに穏やかで、慈愛に満ちた優しい声だった。
ゆうこは、その言葉に救われたように、ほんの少しだけ目元を緩めて笑う。
そして、手元にあった木製のジョッキを、思い切り高く持ち上げた。
「……じゃあ、みんな」
ゆうこが声を張る。
広場中の、町民全員の視線が彼女のその一点に集中した。
「今日、こうして私たちが生きてることに!」
満面の笑みでジョッキを夜空へと掲げる。
「そうね!」
サクがそれに続いてジョッキを掲げる。
「生きていることに!」
クルスが涙を拭いながら掲げる。
「しゅわぁ!」
しゅわ丸が体全体を弾ませて肯定する。
そして、町中の人々が、弾かれたように一斉に各々の杯を掲げた。
満天の星が広がる夜空の下。
掲げられた無数のジョッキが、美しい月明かりを浴びてキラキラと銀色に反射していた。
「乾杯!!」
「「「乾杯ィィィィィ!!!」」」
地鳴りのような乾杯の歓声が、遥か遠い夜空の果てまで響き渡っていく。
この不運な港町に、本当に久しぶりの、そして心の底からの平和な笑い声が、温かく満ち溢れていた。
――しかし、平和な時間は長くは続かない。まさにその時だった。
広場の入口の方から、周囲の喧騒を力技で掻き消すような、地響きに似た野太い大声が響き渡った。
「おおおおい!! お前ら、話は聞いたぞォォォ!!」
その尋常ならざる気配に、歓声に沸いていた人混みが一瞬でざわざわと波立つ。
驚いて振り返った町人たちの視線の先。
広場の入り口の門を潜り抜けたそこに、一人の規格外な大男が堂々と立っていた。
広い肩幅、はち切れんばかりの腕の筋肉。
額には気合の入ったねじり鉢巻を巻き。
背中には大きく『酒うなぎ』の四文字が大胆に染め抜かれた、年季の入った法被を羽織っている。
その規格外な肩には、これまた大人が数人がかりで運ぶような巨大な木箱を軽々と担ぎ。
顔には、見る者を圧倒するような豪快極まりない笑みを浮かべていた。
「ナ、ナミキさんだ!」
誰かが怯えと興奮の混ざった声で叫んだ。
この界隈で知らない者はいない、高名な酒うなぎ専門店の店主。
命懸けで荒波に挑む、伝説の酒うなぎ漁師。
そして同時に、この広大なビールの国の中でも三本の指に入るほどの変人として恐れられる男。
それこそが、このナミキという男の正体であった。
「お前ら、あの厄介なゴーレムを本当に倒したんだってなァ!!」
どんっ!! と、ナミキは担いでいた巨大な木箱を、容赦なく地面へと叩きつけた。
頑丈な木箱の底が、その凄まじい重量のせいで今にも悲鳴を上げて割れそうなほどの衝撃だった。
「がはは! こんなめでたい日に、この俺が黙っていられるか! 最高の祝いの品を持ってきたぞ!」
ナミキが太い腕で木箱の蓋を勢いよく引っこ抜く。
次の瞬間だった。
ぴちぴちぴちぴちぴちっ!! と、凄まじい生命力の音が響く。
なんと、箱の中から信じられないほどの勢いで、大量の『酒うなぎ』たちが一斉に外へと飛び出してきたのだ。
「うわああああ!? 何だこれ、うなぎが飛んできたぞ!?」
「おいバカ、逃げたぞ!! あちこちに散らばっていく!」
「早く捕まえろォ!! 貴重な食材が逃げる!」
平和だった広場は、一瞬にして別の意味での狂気の戦場へと変貌を遂げた。
そんな大混乱を目の前にして、当のナミキはというと、太い腹を抱えて涙を流しながら大爆笑していた。
「がははははは!! 見ろ見ろ、活きが良すぎて最高だろう!」
「ちょっと、あんた何してくれてんのよ!?」
ゆうこが髪を振り乱しながら、ナミキに向かって怒りの叫びを上げる。
「何って、祭りだ!! 祭りの追加に決まってるだろうが!」
「だから、何でわざわざこの人が密集してる場所にノーモーションで放したのよ!?」
「がはは! 決まってるだろ、セルフサービスだからだ!!」
「意味が分からない!! セルフの概念が壊れるわ!」
ゆうこの必死のツッコミも、ナミキの豪快さの前には虚しく霧散する。
ナミキは、ゆうこに向かって白い歯を見せ、親指をグッと立てた。
「美味いもんを食いたきゃ、自分の手で苦労して捕まえて、自分で焼け! それが鉄則だ!」
そして、さらに声を張り上げて続ける。
「いいかお前ら! 食う前から! この捕まえる段階から既に宴会は始まってるんだよ!!」
その狂った理論に、なぜか広場中の酔っ払いたちから、今日一番の地鳴りのような大歓声が上がった。
「うおおおお! セルフウナギ祭りだァァ!!」
「捕まえろォォ!! 今夜はウナギの蒲焼きだ!」
「逃がすかよ、こいつ!」
足元をすくわれた酔っ払いが派手に転び、子供たちが歓声を上げてうなぎの尻尾を追いかけ、血気盛んな漁師たちが服のまま地面へとダイブし、捕まってたまるかと酒うなぎたちがヌルヌルと逃げ回る。
広場は、まさに敵味方入り乱れる完全な大混乱の渦に包まれていた。
そして、そんなカオス極まりない狂乱の真ん中で――。
なぜか一匹の、周囲の奴らよりも明らかに一回り二回りは巨大な、丸々と太った酒うなぎが、他の人間には目もくれず、まっすぐゆうこの足元へと滑り込んできた。
ぴたっ、と、その巨体がゆうこの靴の真ん前で止まる。
「……え、何?」
ゆうこが不審に思って視線を落とす。
その酒うなぎは、つぶらな瞳でじっとゆうこの顔を見上げていた。
そして。
ぺちっ、と、小気味いい音を立てて、自らの尻尾でゆうこの靴の先端を叩いた。
ぺちっ。
ぺちぺちっ。
「……なんで私だけ叩かれてるの!?」
思わず後ずさりしながら叫ぶ。
そのあまりにもシュールな光景に、周囲にいたサクや漁師たちが大爆笑した。
ナミキが、さらに腹を揺らし、目元に涙を浮かべながら大声で笑う。
「がはははは!! おい見ろよ、そいつは傑作だ!」
「何がおかしいのよ!? 早くこれどうにかして!」
「そりゃ、そのうなぎもお前が『本物』だってことが、ちゃんと分かってるんだろ!」
「何がよ!?」
「この場にいる誰が一番、本物のウナギ好きかって事をなァ!!」
ゆうこの目の前で、酒うなぎはさらに嬉しそうに激しく尻尾を振り始めた。
それはまるで、信頼する料理人に向かって
「さあ、早く俺を極上の蒲焼きにしてくれ!」
と、自ら進んで懇願しているかのようであった。




