第72話『最大の功労者』
一瞬。
海辺に、まるで時が止まったかのような、あまりにも深い静寂が落ちた。
誰もが、今まさに自分の目の前で起きた光景を、すぐには理解することができなかった。
あれほどまでに強固な装甲を誇り、暴れ回っていたスタウトゴーレム。
この港町を何度も壊滅の危機に陥れ、人々の心に逃れられぬ恐怖を植え付け続けた、まさに天災とも呼ぶべき災厄。
その圧倒的な巨体が、まるで内側から目に見えない巨大な力で押し潰されたかのように、轟音を立てて崩れ落ちていく。
ざばん、ざばんと、ただ静かに波が岸壁に砕ける音だけが、静まり返った戦場に虚しく響き渡っていた。
そして――。
「……勝った、のか?」
静寂を破って、誰かがポツリと信じられないといった風に呟いた。
次の瞬間だった。
「勝ったぞォォォォォ!!」
堰を切ったような大歓声が、その場にいた全員の口から爆発した。
それはまさに、港町全体が物理的に激しく揺れ動くのではないかと思わせるほどの大歓声だった。
興奮のあまり、被っていた帽子を思い切り夜空へと投げ捨てる漁師。
自身の財産を守り切った安堵から、子供のようにその場で何度も飛び跳ねる商人。
恐怖から解放され、満面の笑みで砂浜を走り回り始める子供たち。
そこにはもう、戦いの緊迫感など微塵も残っていなかった。誰も彼もが狂喜乱舞し、大声で叫び、涙を流して笑い、互いの無事を確かめ合うように激しく抱き合っていた。
「ゴーレムが、あの化け物が本当に倒れたぞ!」
「あの姉ちゃん、本当にやりやがった! 信じられねえ!」
「おい見ろ、あっちにいるのが俺たちの命の恩人、ぽしゃけ医だ!!」
「いいから飲めの姉ちゃんだ!! 今日は朝までトコトン付き合ってもらうぞ!」
「そこ! 呼び方もっとどうにかならないの!?」
ゆうこは二つ名の数々に、顔を真っ赤にして思わず叫び声を上げた。
だが、狂喜の渦に巻き込まれた群衆の耳に、彼女のまっとうな抗議が届くはずもなかった。
そもそも、誰も彼女の言葉を聞く気などさらさらない。
そして町を挙げた、文字通りの大祭り状態が幕を開けたのだった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
戦いの舞台となった海岸から少し離れた、町の中央広場。
そこには、普段の市場では見られないような巨大な長机が何列も何列も並べられ、松明の明かりに照らされていた。
机の上を埋め尽くすのは、港町が誇る最高の食材を使った料理の数々。
獲れたての新鮮な魚を豪快に捌いた魚料理。
炭火で香ばしく焼き上げられた貝料理。
タレの焦げる匂いが食欲をそそる焼きイカ。
じっくりと煙で燻された、旨味の凝縮された燻製。
カリッと揚げられた黄金色の揚げ物。
そして何よりも目を引くのは、それらのご馳走を完全に脇役に追いやるほどの、異常なまでの酒の量だった。
とにかく大量の酒。尋常ではない、文字通りの酒の海だ。
あっちを見ても樽。
こっちを見ても樽。
そっちを見ても樽。
まさに、見渡す限り全方位が酒樽で埋め尽くされているという、常軌を逸した光景が広がっていた。
「ねえ、ちょっと待って」
ゆうこはあまりの光景に引きつった笑みを浮かべ、完全に真顔になった。
「この町の人たちって、もしかして『反省』っていう高尚な言葉を知らないの?」と、呆れ果てた口調で尋ねる。
「知らん!」
日焼けした漁師たちは、なぜか誇らしげに一斉に胸を張った。
「即答かよ!?」
ゆうこの鋭いツッコミが炸裂する。
それを合図に、広場全体から地鳴りのような大爆笑が巻き起こった。
宴が始まってまだ間もないというのに、既に何人もの大人が完全に出来上がって床に転がっている。
あまりにも早すぎるペースだった。
そんな中、サクは琥珀色の液体がなみなみと注がれた大きなジョッキを豪快に掲げて笑う。
「固いこと言わないの、ゆうこ! 細かいことはいいじゃない! 何はともあれ、今日は命拾いした祝勝会よ!」
「そうだそうだ! サクの言う通りだ!」
「今回の最大の主役が、飲まなくてどうするんだ!」
「いや、ちょっと待って。私、そもそもさっきまでの戦闘のせいで、肉体的にはもう死んでるんだけど!?」
ゆうこは必死に両手を振って拒絶の意思を示す。
「まあまあ、じゃあ景気付けに一杯だけ!」
「その台詞、酒乗りの口から出ると絶対に信用できないんだけど!」
ゆうこがさらに眉をひそめると、再び周囲から大きな笑い声が湧き上がった。
賑やかな広場の片隅では、町中の子供たちが集まり、不思議な生き物であるしゅわ丸を取り囲んでいた。
「うわあ、本当にぷにぷにだ!」
「すごい、かわいいー!」
「しゅわぁ~!」
しゅわ丸は小さな子供たちの黄色い歓声を浴びて、実に得意げな様子で周囲を激しく跳ね回る。
その短い体を目一杯に伸縮させながら、頭のてっぺんから半透明の泡をぽこぽことリズミカルに生み出していた。
その愛らしい挙動は、完全に子供たちの心を鷲掴みにしており、町の一大人気者としての地位を確立させていた。
一方。
今回の戦いでそれなりに身体を張ったはずのクルスはというと。
「おいおい、お前ら見たか!? この俺の戦場での大活躍をよ!」
「おおー! さすがクルス兄ちゃん!」
事情を知らない子供や酔っ払いたちが、適当に相槌を打つ。
「あの時、俺が命懸けでゴーレムの囮にならなければ、そもそも勝てなかったろ!?」
「おおー! 確かに一理ある!」
「だろ!? つまり、実質的にあのデカブツを倒したのは俺と言っても過言ではない!」
「違うな」
ゆうこが冷ややかな視線を向けながら、即座にその誇大妄想を否定した。
「違うわね」
サクもまた、酒を煽りながら冷酷に否定した。
「ちがう」と、子供たちと遊んでいたはずのしゅわ丸までが、わざわざこちらを振り向いて否定した。
「そこまで綺麗に揃わなくてもよくない!?」
クルスは精神的ダメージを受けてその場にガックリと膝をついた。
まさにその時だった。
「いや」
喧騒の隙間を縫うように、妙に落ち着いた、しかし存在感のある不意な声が響いた。
全員が、声のした方向へと一斉に振り向く。
そこには、どんちゃん騒ぎの宴会場の真ん中で、なぜか一人だけマイペースにそうめんをすすっているチェンの姿があった。
ずるるるるるっ、と、静まり返った空間に、やたらといい音が響き渡る。
「クルスの功績も、完全にゼロというわけではない」
チェンは箸を止めることなく、淡々とした口調で告げた。
「おお! そうだろう!」
クルスは待ってましたとばかりに、一瞬で元気に復活した。
「さすがチェン、お前だけは俺の努力をちゃんと見ていてくれたんだな!」
「実際、お前は戦闘中、常人では考えられないほどの巨大な酒樽を軽々と持ち上げていただろう」
「だろ!? あれは俺の鍛え抜かれた筋肉の賜物だ!」
クルスはこれみよがしに力こぶを作って胸を張る。
チェンは、そんなクルスの様子を見て深く頷いた。
そして、一切の冗談を感じさせない冷徹な真顔になり、静かに言った。
「だから、俺のおかげだ」
「何でだよ!!」
ゆうこが間髪入れずに鋭いツッコミを入れる。
チェンは、ようやく満足したように箸を器の縁に置いた。
「説明しよう。俺が今作っているこの特製そうめんには、我が家に伝わる秘伝の薬酒が隠し味として混ぜられている」
「そんな設定、今初めて初耳なんだけど」
ゆうこがジト目で睨みつける。
「このそうめんを食べると、体内の血流が爆発的に活性化し、一時的に人間の限界を超えて肉体が大幅に強化される効果があるのだ」
「ちょっと待って」
「だからこそ、普段はそこまで力の無いクルスであっても、あの局面で巨大な樽を持ち上げることができた」
「待ってって」
「つまり、すべての因果を辿れば、今回の勝利は俺のそうめんのおかげ、ということになるな」
「待てって言ってるでしょ! 何その超展開理論!」
ゆうこが声を大にして叫ぶ。
当のクルスはというと、完全に思考が追いつかず、口を半開きにしてぽかんとしていた。
「え?」
「え?」
「……ていうかチェン、俺、そもそも今日そんなそうめん食ったっけ?」
「食べた」
チェンは微塵の揺らぎもない表情で即答した。
「お前はさっき、戦いが終わって興奮状態のまま、俺の屋台に走ってきて一気に食っただろう」
「ええ……全く覚えてねぇんだけど……」
「しかも、美味い美味いと言って、三杯もおかわりした」
「覚えてねぇって……」
「さらにその上、もっと寄こせと四杯目を執拗に要求した」
「いや、本当に覚えてねぇって!」
「俺が『もう麺が無い』と断ったら、子供のように地べたに転がってワンワン泣いた」
「嘘だろ!? 俺、そこまで見っともないことしてねぇよな!?」
クルスは青ざめた顔で周囲を見回す。
横で聞いていたサクが、堪えきれずにブハッと酒を吹き出した。
「クスクス……いや、クルスなら普段の行い的に、めちゃくちゃやってそうよね」
「やってねぇよ! 先生は見ていましたよね!?」
「うーん、でもクルスだし、やってそう」
「しゅわぁ」
しゅわ丸までが、さも当然といった風に深く頷いた。
「お前まで味方してくれないのかよ!?」
完全に周囲から孤立し、頭を抱えた。
そんなやり取りを余所に、チェンは非常に満足そうな様子で、再びそうめんをすすり始めた。
ずるるるるるっ。
「つまり、紆余曲折あったが、今回の歴史的な勝利の最大の要因は――」
チェンが言葉を溜める。
その場の全員が、一体何を言い出すのかと、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「やはり、俺の特製そうめん」
「違うな」
今度はゆうことサク、そしてクルスの三人が、完璧なシンクロ率で同時に声を揃えて否定した。
「ちがう」
しゅわ丸も間髪入れずに否定の意を示す。
「……そうか」
今度はチェンが、精神的ダメージを受けてその場にガックリと膝をつく番だった。




