第71話『圧壊爆縮(クラッシング・インプロージョン)』
どどどどどどどっ!!
それは文字通りの爆速だった。クルスは巨大なビール樽を肩に担いだまま、港へ向かって一直線に突き進んでいく。
その凄まじい移動速度に、背後のスタウトゴーレムも即座に反応した。体内の魔力が臨界点に達したかのように、胸部の赤い核が一段と激しく明滅する。
ぐるり。
重々しい岩の頭部が、不気味な音を立ててクルスの背中へと向けられた。
「よし、かかったわ」
ゆうこは小さくガッツポーズをしながら呟いた。すべては計算通り、予想通りの展開だ。
スタウトゴーレムは、自らの大好物である特級黒麦酒の樽を、目の色を変えて追い始めさせた。それはまるで、極上の酒の匂いに釣られてフラフラと引き寄せられる重度の酔っ払いそのものの姿だった。
「港まで一直線だ! このまま引き離す!」
クルスは全神経を足元に集中させ、死に物狂いでアスファルトを蹴って全力で駆けていた。
どどどどどどどっ!!
彼の肩に鎮座しているのは、大人が四人がかりでも持ち上がらないような巨大なビール樽だ。
普通の人間ならその自重だけで骨が砕け、地面に潰れているに違いない。だがクルスは、それを羽毛のように扱いながら猛スピードで突っ走る。その脚力は異様なほどに速かった。
「なんで普通に持てるんですかね、これ!? 自分でも意味が分かりませんよ!」
走りながら、クルス本人すらも自分の底知れない怪力に驚愕して叫んでいた。
その後ろを、巨躯のスタウトゴーレムが猛然と追尾する。
ずしん!! ずしん!! ずしん!!
巨体が足を踏み出すたびに、港町の地面が激しく揺れ動く。沿道の建物がビリビリと震え、軒先に置かれた空の酒樽がガタガタと転がっていく。
ゴーレムの意識は完全に、目の前を走るビール樽だけにロックオンされていた。
「見えた、海だ!」
クルスの視界の先が開け、ついに広大な港が姿を現した。どこまでも広く、どこまでも青い、そして底知れぬ深さを湛えた海だ。
「先生ーー!!」
クルスは喉がちぎれんばかりの声で、後方を走るゆうこに向かって叫んだ。
「無事に着きましたよーー! 次は何をすればいいんですかーー!?」
ゆうこもまた、サクやチェンと共に港へ滑り込みながら、必死に声を張り上げて指示を飛ばした。
「そのまま桟橋の先端で待っててーー!!」
だが、酒の力で強化されたゴーレムの突進速度も、想像を遥かに超えて速かった。岩肌の隙間からシューシューと凄まじい酒気が噴き出す。
どくん。どくん。
核の脈動が激しくなるにつれ、両者の距離はみるみるうちに縮まっていく。
あと五十メートル。
四十メートル。
三十メートル。
たまらずクルスが恐怖に顔を歪めて振り返る。
「近い近い近い近い! すぐ後ろにいますって!」
ゴーレムの巨大な岩の拳が、容赦なく頭上へと持ち上げられた。あの質量をまともに食らえば、一撃で肉塊にされて終わりだ。
「まずい! 追いつかれるわ!」
並走していたサクが、青ざめた顔で悲鳴のような声を上げた。
しかし、その絶望的な状況の中で、ゆうこだけは不敵に笑った。恐怖に怯えるどころか、ようやく待ち望んでいた『その時』が来たと、瞳を輝かせる。
「クルス!!」
「はいっ!?」
「今よ!!」
ゆうこは右手を突き出し、大声で合図を送った。
「その高いビール樽を、海に向かって思いっきり投げて!!」
その瞬間、世界が一瞬の沈黙に包まれた。あまりの命令に、クルスの思考が完全にフリーズして固まる。
「えっ……?」
「いいから早く投げて!!」
「これ、さっき店主さんが言ってた、一番高いやつですよね!?」
「そうよ!!」
「本当に海に投げ捨てるんですか!?」
「投げるのよ、全力で!!」
脳裏をよぎった店主の泣き顔と、背後に迫る死の恐怖。クルスが迷ったのは、わずか一秒だった。彼はすぐに覚悟を決め、心の中で深く謝罪した。
「すみません店主さん! 命には代えられません!」
ぶぉんっ!!
クルスは背筋を極限までしならせ、全身のバネを爆発させた。そして、担いでいた巨大なビール樽を、広大な海へと向かって豪快に放り投げた。
ごおおおおおっ!!
凄まじい風切り音を立てて、樽が美しい放物線を描きながら宙を舞う。
何回も激しく回転しながら、ぐんぐんと距離を伸ばしていく。クルスの怪力によって放たれた樽は、思ったよりも、いや、想像の何倍も遠くへと飛んでいった。
そして。
どぼぉぉぉぉんっ!!
樽は豪快な音を立てて、はるか沖合の海面へと落下した。まるで爆弾でも落ちたかのように、大量の白い水柱が天高く激しく燃え上がる。
どぼぉぉぉぉんっ!!
遅れて第二の波が広がり、穏やかだった海面が大きくうねり始める。波間にゆらゆらと浮かび上がる、最高級のビール樽。
その瞬間、スタウトゴーレムの胸部にある赤い核が、まるで歓喜に震えるかのように激しく明滅を繰り返した。
どくん。どくん。どくん。
体内の酒気が一際激しくざわめき立つ。それはまさに、目の前に最高の極上酒を見つけた、理性を失った酔っ払いそのものの反応だった。
ゴーレムに迷いの色は一切なかった。
ずしん。ずしん。
ただ一直線に、港の頑丈な木製の桟橋をメリメリと踏み砕きながら、樽を目がけて前進を開始した。
「行った!」
クルスがそれを見て安堵の声を上げる。
「本当にビール樽に釣られて動いてます!」
「あいつ、もう周りのことが一切見えてないわね……完全に酒の奴隷だわ」
サクが呆れ果てたように肩をすくめた。
スタウトゴーレムはそのまま躊躇なく、冷たい海の中へと足を踏み入れた。
ざばぁぁぁっ!!
巨体が海水を押し分け、巨大な白い水飛沫が周囲に激しく飛び散る。だが、魔物の歩みは止まらない。さらに一歩、また一歩と、深く底なしの海へと進んでいく。
海水がみるみるうちにゴーレムの膝の高さまで達した。それでも化け物は気にする様子もなく、ただ海面に浮かぶ樽だけを見つめて進む。
ずしん。ずしん。ずしん。
海底の泥を力強く踏みしめるたびに、津波のような波が港の岸壁へと押し寄せる。係留されていた多くの漁船が、激しい波に揉まれて木の葉のように大きく揺れた。
港に残っていたわずかな人々が、建物に隠れながら固唾を呑んでその光景を見守る。誰も、そしてサクやクルスでさえも、ゆうこが一体ここから何をするつもりなのか、その真意を掴めていなかった。
やがて、海水はゴーレムの腰の高さまで達した。それでも欲深き魔物はなおも深く進む。
浮かぶ樽との距離。
あと二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
もう少しだ。あとほんの少しで、念願の酒樽にその太い指先が届く。
その時、沖合から一段と大きなうねりを持った波が打ち寄せた。
ざばぁぁぁっ!!
激しい白波がゴーレムの胸元まで跳ね上がり、冷たい海水が岩肌の隙間へと滑り込んでいく。
そして、次の一歩を踏み出した時だった。
ついに、海水はゴーレムの胸の高さ、すなわち『核』がある位置まで完全に達した。
どぷん。どぷん。
重量級の身体の下半分が、冷たい海の中へと深く沈み込む。胸部にある命の核もまた、水面下へと没していった。
その赤い禍々しい光が海水を通して水面へ映り込み、ゆらゆらと妖しく揺らめいている。
それを見届けた瞬間、ゆうこは静かに、しかし力強く右の掌を空へと掲げた。
彼女の視線の先にあるのは、海に溺れかけたゴーレム。周囲を満たす冷たい海。そして何よりも、剥き出しの核を全方向から包み込んでいる、この世界最大の質量――莫大極まる海水そのものだった。
「……そう、これよ」
かつて修行において、小さな風船を爆縮させた時に使ったのは、たったの樽一杯分の水だった。だが、今の状況はあの時とは根本的に異なる。
目の前にあるのは、無限とも言える広大な『海』そのものなのだ。
背後で成り行きを見守っていたチェンが、その意図を完全に察して、口元を意地悪く吊り上げた。
「なるほどな。そういうことかよ」
チェンの言葉を皮切りに、サクもクルスも、ようやく事の真相に気付き始める。ゆうこが最初からこの場所を選び、何を狙ってゴーレムを誘導していたのかを。
しかし、スタウトゴーレムは未だにその事実に気付いていない。自分がビール樽という餌に釣られ、この世で最も危険なトラップの真っ只中まで引きずり込まれていたことを。
海に浮かぶビール樽へ、ゴーレムの岩の腕が伸び、それを今まさに掴みかけた。
ドクン。ドクン。ドクン。
歓喜に震える赤い核が激しく脈打ち、濃厚な酒気が全身の岩肌を巡る。
その一瞬の隙を突き、ゆうこは冷徹な眼差しで、その掌を水面下の核へと向けた。
「見えたわ」
彼女は小さく、確信に満ちた声で呟いた。
硬い殻に包まれた木の実も、生命の黄身を守る卵も、水圧で潰される風船も、本質はすべて同じだった。
対象を見る。その一点を狙う。そして、自分の力をそこへ正確に届ける。ただ、それだけのシンプルな作業だ。
今度の標的は、ゴーレムの核そのものではない。
その周囲を全方向から包み込んでいる海水、すなわち数万、数億リットルという莫大な水量そのものだ。風船の実験の時とは、規模が何万倍、何億倍も違う。
ゆうこは深く息を吸い込み、限界まで精神を集中させた。
水面下の核を見る。
渦巻く酒気を見る。
そして、その外側を満たす、圧倒的な質量を持った海水を見る。
そこだけ。ただ、そこだけ。外側の水を、内側の一点へと向かわせるために。
「――圧壊爆縮」
ゆうこがその名を紡いだ瞬間、世界のすべての音が完全に消え去った。
彼女の口元が、勝利を確信してすっと上がる。感覚が繋がった。いける、私の力は確かに届いた。本当の勝負はここからだ。
ゆうこは突き出した右手を、ゆっくりと、しかし確実に握り潰すようにして拳へと変えていく。
「圧縮……!」
その瞬間、海が動いた。
常人の目には何も変わらないように見える。だが確かに、水面下にある核の周囲だけ、球状に、寸分の狂いもなく均等に、凄まじい水圧が高まりつつあった。
どくん。
危機を察知した核が、激しく脈打つ。
どくん。
さらに圧力が押し寄せる。
どくん。
まだ足りない。もっと、もっと、もっと。
ゆうこの意志に従い、広大な海そのものが、冷酷な巨大の万力となって核を全方向から押し潰し始めた。
スタウトゴーレムが完全に足を止めた。水面下の赤い光が激しく乱れ、歪んでいく。化け物もようやく、自身の身に起きている致命的な異変に気付いたのだ。
だが、海そのものを敵に回した今となっては、もう何もかもが遅すぎた。
「くっ……あ、あああ!」
ゆうこの額から、大粒の汗がボタボタと流れ落ちる。尋常ではない精神のコントロール。脳が限界を超えてギシギシと軋み、視界が真っ赤に揺らめく。
それでも、彼女は絶対にその手を緩めなかった。
風船を爆縮させた時と原理は全く同じ。ただ、動かしているエネルギーの規模が桁違いなだけだ。
水圧という名の全方向からの容赦ない圧力が、逃げ場のない核へと一点に集中していく。
ぎしっ。
水面下から、岩が軋む不気味な音が響いた。頑強を誇る核の結晶に、ついに微細な亀裂が入る。
それを見たチェンの目が鋭く細められた。サクが息を呑み、クルスが歓喜の声を上げる。
「入った! 効いてますよ、先生!」
ぎしっ。ぎしぎしっ。
赤い結晶が限界を迎え、悲痛な悲鳴を上げ始める。追い詰められたゴーレムが、最後の抵抗を試みるように天を仰いで咆哮した。
ごおおおおおおおっ!!
その振動で海面が激しく波立ち、大気が激しく震える。だが、ゆうこの集中は微塵もブレない。
さらに。さらに。より深く。
すべての海水を絞り出すように、中央の核へと圧力を加え続けた。
そして、ついにその限界の瞬間が訪れた。
ぼぐっ。
それは、驚くほど鈍く、そして低い音だった。
周囲が期待したような派手な大爆発ではない。どこまでも静かで、地味な変化だった。
だが確実に、魔物の命の源であった核が、内側からの爆発ではなく、外側からの圧倒的な水圧によって木端微塵に押し潰されたのだ。
これこそが、修行の果てに辿り着いた『爆縮』の真骨頂。
水面下の赤い光が、ふっと嘘のように完全に消え去る。
どくん。
どく――。
不気味な脈動は、そこで永遠に途絶えた。
港全体に、しんと静まり返るような沈黙が降り立つ。
スタウトゴーレムの巨体が、動きを止めて完全に固まった。ビール樽を掴もうとしていた右腕も、次の一歩を踏み出そうとしていた左脚も、すべての機能が停止してピクリとも動かない。
そして、体内に満ち満ちていたおびただしい酒気が、制御を失って一斉に外部へと霧散し始めた。
ぶわぁぁぁっ――
解放された美しい琥珀色の光の粒子が、暗くなり始めた夜空へと向かって幻想的に舞い上がっていく。
次の瞬間だった。
ずぅぅぅぅぅぅん……。
核を失い、ただの巨大な泥と岩の塊へと戻った身体が、重力に従って海の底へと崩れ落ちた。
激しい水柱が上がり、その余波の波が港の岸壁を大きく揺らす。だが、もう二度とその巨体が動き出すことはなかった。魔物は海の底で、完全に沈黙していた。
しばらくの間、あまりの衝撃的な結末に、港の誰もが言葉を発することすらできなかった。
やがて、その静寂を破るように、背後で腕を組んでいたチェンがニヤリと満足げに笑った。
「――合格だ、ゆうこ」
その言葉を聞いた瞬間、緊張の糸が切れたゆうこは、その場に力なくへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
激しく息が上がり、過度の魔力消費のせいで頭がくらくらと激しく揺れる。それでも、彼女は海の底へと完全に崩れ落ちたゴーレムの残骸を見つめ、達成感に満ちた笑みを浮かべた。
固い木の実の殻を剥いたことも、卵の黄身を見極めたことも、樽の水で風船を潰したことも、そのすべてが何一つとして無駄じゃなかった。
地味で過酷だったあの修行の意味が、今、最高の形で形になったのだった。




