第70話『修行の、その先へ 』
酒場の客達が慌てて逃げ始めた。平和だった昼下がりの空気は一瞬で吹き飛び、割れたグラスの音と悲鳴が入り混じる。
「に、逃げろぉぉぉ!」
「魔物だ!」
「スタウトゴーレムだ!!」
その恐ろしい名前を聞いて、サクは形の良い眉をひそめた。見たこともない巨大な影が、酒場の入り口を塞ぐように立ちはだかっている。
「スタウトゴーレム?」
聞き慣れない名前にサクが首を傾げると、近くにいた冒険者が青ざめた顔で腰を抜かしながら叫んだ。
「あいつは酒蔵荒らしだ! ビール樽でもワイン樽でも、見つけたら手当たり次第に飲み尽くしちまうんだ!」
「酒蔵荒らし?」
サクが呆れたように繰り返す間にも、巨体のゴーレムは店内に転がっていた新しい樽を見つけ、太い岩の腕を伸ばした。
がしっ。
大の大人が数人がかりで運ぶような重い樽を、ゴーレムは軽々と持ち上げる。
ごくごくごくごく。
濁流のような音を立てて、ゴーレムは樽の中身を豪快に飲み干していく。それは一度では終わらない。次から次へと樽を掴んでは、貪るように飲む、飲む、飲む。
その時だった。異変が起きたのは、ゴーレムが五つ目の樽を空にした瞬間だった。
ゴーレムの全身を構成する岩の身体が、まるで熱を帯びたように赤く光り始めたのだ。
ぼこっ。ぼこぼこっ。
岩の隙間から、まるで沸騰したての発酵液のような禍々しい泡が噴き出す。凄まじい内圧に押されるようにして、筋肉のように岩がみるみる膨れ上がっていった。
「なにあれ……気味が悪いんだけど」
ゆうこが嫌そうに顔をしかめると、先ほどの冒険者がガタガタと震えながら答えた。
「あいつはな、酒を飲むと強くなるんだ!」
「は?」
「だから厄介なんだよ!」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、スタウトゴーレムが咆哮とともに、膨れ上がった拳を容赦なく振り下ろした。
どごぉぉぉん!!
爆音と共に地面が激しく砕け散り、凄まじい衝撃波が周囲を襲う。その風圧だけで、酒場の頑丈な窓ガラスがバリバリと音を立てて割れ、破片が飛び散った。
「うわっ!」
クルスが咄嗟に身を翻して後ろへと飛び退く。同時に、サクも手近にあった重い酒瓶を武器のように構え、戦闘態勢に入った。
「これは放置できないわね。店がめちゃくちゃになっちゃうわ」
スタウトゴーレムが再び天を仰いで咆哮する。
ごぼごぼごぼごぼっ!!
その口から吐き出された息は、強烈な酒臭さを含んでいた。とにかく酒臭い。逃げ遅れた客がそれだけで目を回すほどの濃度だ。
ゆうこは思わず手で鼻を覆い、深く顔をしかめた。
「なんか、匂いだけで酔いそうなんだけど……」
「酔気だな」
背後から、チェンが腕を組んだまま冷静に、どこか楽しげに呟いた。
「酔気?」
ゆうこが問い返すと、チェンはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「酒を飲みすぎた魔物が吐き出す、酒の瘴気みたいなもんだ。普通の人間なら吸い込んだだけでまともに立っていられなくなるぜ」
その時だった。激しく暴れるゴーレムの胸部、赤く熱を帯びた岩の隙間から、何かが覗いた。
ほんの一瞬、揺らめく酒気の間から、妖しく輝く琥珀色の光が見えたのだ。
きらり。
確かに光る何かがあった。その瞬間、ゆうこの鋭い目がピたりと止まる。
「……あれ」
「ん? どうした、ゆうこ」
「今、何か見えた」
ゆうこは全神経を集中させて、再びゴーレムの巨体を見つめた。
もう一度、激しい動きの合間に光る。岩の奥深く、巨体のちょうど中心。そこには確かに、異質な「何か」が存在していた。
それを見た瞬間、ゆうこの脳裏に、これまでの修行の日々が鮮明に蘇ってきた。
木の実が浮かんだ。
それを包む頑丈な殻。
さらに奥にある小さな種。
あるいは、生命の始まりである卵。
その中心にある黄身。
膨らむ風船。
周囲を満たす水。
そして、これまでにチェンから授かった言葉の数々。
バラバラだったピースが、ゆうこの頭の中で音を立てて一つに繋がっていく。
「そういうことか……!」
すべての仕組みを理解したゆうこがポツリと呟いた。その様子を見ていたチェンが、待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「見えたか?」
「ええ、見えたわ」
スタウトゴーレムは、一見すると隙のない無骨な岩の巨体だ。だが、今のゆうこの目には、もうただの岩の塊には見えなかった。
強固な外殻。それらを繋ぐ内部構造。それは、彼女がこれまでに何度も向き合ってきた、複雑な人体の解剖図――患者を見る時と全く同じだった。
「サク!」
ゆうこが鋭い声で呼ぶ。
「なに?」
「少しだけ時間稼いで!」
その意図を察したサクが、不敵に笑って応じた。
「任せなさい!」
サクの手から放たれた酒瓶が、綺麗な放物線を描いて宙を舞う。スタウトゴーレムはそれに対して再び咆哮をあげた。
だが、どんなに敵が巨大であっても、ゆうこは少しも慌てなかった。深く息を吸い込み、右の掌をゆっくりと前へ突き出す。
狙うのは、目の前にある分厚い岩じゃない。
暴れる頑丈な脚でもない。
ただ一箇所、見定めた「そこ」だけをじっと見つめる。そして、体内のエネルギーを研ぎ澄ませながら、静かに息を吐いた。
「修行の成果……見せてあげるわ」
スタウトゴーレムとの本当の戦いが、今、ここに始まった。
どごぉぉぉん!!
スタウトゴーレムの巨大な拳が、再び無慈悲に地面を砕く。衝撃で頑丈な石畳が何枚も吹き飛び、鋭い破片が周囲に飛び散った。
「危ない!」
クルスが敏捷な動きで横へ跳び、間一髪でその直撃を避ける。間髪入れずに、サクが援護のために次々と酒瓶を投げつけた。
ばしゃぁっ!
激しい音を立てて、濃厚な酒がゴーレムの赤い岩肌へ降りかかる。だが、酒を糧とするその魔物には全く効かない。
それどころか、浴びた酒を吸収するかのように、ゴーレムは構わず前進を続けた。
ずしん。ずしん。ずしん。
一歩進むたびに、街全体が地震のように大きく揺れる。
そんな狂乱の中で、ゆうこだけは一歩も動かなかった。ただじっと、その瞳でゴーレムを観察していた。
ゴーレムを。その内部を。
まるでメスを握る前に、重篤な患者の患部を診るように。冷徹なまでに冷静に。指先の感覚を研ぎ澄ますように丁寧に、敵の構造を観察する。
外殻の厚み。関節の可動域。全身を巡る酒気の流れ。岩と岩のわずかな隙間。
そして、胸部の奥。
「やっぱり、あった」
それは、魔物の命を司る『核』だった。
周囲の酒気がすべてそこに集まり、まるで本物の心臓のようにドクドクと不気味に脈打っている。
どくん。どくん。どくん。
「見つけた」
ゆうこが確信に満ちた声で呟く。
その瞬間、スタウトゴーレムがさらに大きく腕を振り上げた。その凶悪な狙いの先には酒場がある。そこには、腰を抜かしてまだ逃げ遅れている客が残されていた。
「まずい! あいつら、逃げ遅れてる!」
クルスが悲痛な声を叫ぶ。自分の足ではもう間に合わない、誰もがそう思った。
だが、ゆうこは慌てず、その方向に掌を向ける。
狙うのは、まだ深部にある核ではない。その動きを止めるための『関節』だ。
右腕を支える肘。その内部にある、見えない一点。
それはかつて、修行で木の実の固い種だけを狙い撃ちした時と全く同じ感覚だった。
そこだけ。そこだけ。
ただ、そこだけを。
ゆうこが意識を集中させると、空気の密度が変わるような、きゅっ、という小さな音が響いた。
次の瞬間。
ごぎゃっ!!
凄まじい破壊音と共に、ゴーレムの右肘が内側から爆発したように砕け散った。
不自然な方向に腕が曲がり、振り下ろされようとしていた拳の軌道が大きく逸れる。
どごぉぉぉん!!
大質量の拳は酒場を外れ、何もない地面へと虚しく叩き付けられた。それを見た周囲の悲鳴が、一瞬で大歓声へとひっくり返る。
「やった!」
「あの化け物の攻撃を止めたぞ!」
しかし、背後に立つチェンだけは笑わなかった。険しい表情のまま、低い声で警告する。
「いや、まだだ。気を抜くんじゃねぇ」
その言葉通りだった。
ごぼごぼごぼっ。
ゴーレムの体内を流れる不気味な酒気が、一気に傷口へと集中する。砕けたはずの肘の隙間に膨大な泡が集まり、生き物のようにのたうち回る。
そして、ぼこっ、という音と共に、破壊された岩の腕が瞬時に再生してしまった。
それを見たゆうこの顔が、今度こそ大きく引きつる。
「は? 嘘でしょ!?」
「言っただろ。体内の酒気で、壊れた先から修復してやがるんだ」
チェンが忌々しそうに吐き捨てた。
「マジで面倒なやつじゃない! ゾンビじゃあるまいし!」
攻撃を阻止されたスタウトゴーレムが、怒り狂ったように咆哮する。明らかにこれまで以上の敵意がこちらに向けられていた。
興奮に呼応するように、胸部の核が一段と激しく、赤黒く光り輝く。
どくん。どくん。どくん。
凄まじい量の酒気が、そこを起点として濁流のように全身へ流れ出していた。
ゆうこは眩しそうに目を細め、その光の本質を見極めようとした。
あの核。あれがすべての原因であり、修復の源。
だが、直接あそこを狙うには、周囲を囲む岩の層が深すぎる。外側の硬い岩が盾になっていて、こちらの攻撃を阻んでしまうのだ。
今の自分の力なら、圧縮の衝撃を届かせること自体は可能だ。だが、それでは威力が足りない。あの巨大な核を、一撃で完全に壊し切ることはできない。
どうすればいい――その時だった。再び彼女の脳裏に、あのイメージがフラッシュバックした。
風船。外側を満たす水。そして、急激な圧力の低下によって内側へと崩壊する『爆縮』の現象。
そして、チェンが以前に教えてくれた言葉が、耳の奥で再生される。
――直接潰す必要はねぇ。中がダメなら、外側の力を利用すりゃいいんだよ。
その瞬間、ゆうこの目が見開かれた。
「あ……!」
その表情の変化に、いち早くサクが気付いた。
「あの顔……」
クルスもサクの視線を追い、頼もしそうに頷く。
「何か、打開策を思い付きましたね」
チェンだけが、すべてを見越したようにニヤリと満足げに笑った。
「へっ、やっと気付いたか。遅えよ」
ひらめきを得たゆうこは、何を思ったのか、なぜか突然キョロキョロと周囲を見回し始めた。
壊れかけの酒場。転がる看板。まだ残っている酒樽。怯える客達。そして、カウンターの奥で震える店主。
ゆうこは店主の姿を捉えるなり、お腹の底から大声で叫んだ。
「店主!!」
「はいぃ!?」
突然名前を呼ばれた店主が、裏返った声で応じる。
「この店で一番高い、とびきりのビール樽ちょうだい!!」
一瞬、その場の空気が凍りついたように、完全な沈黙が訪れた。
あまりに場違いな要求に、店主がポカンと口を開けて固まる。
すぐ隣のサクも、武器を構えたまま固まる。
クルスも、次の行動に移りかけた姿勢のまま固まる。
それどころか、遠くへ逃げていたはずの酔っ払い達までが、驚きのあまり足を止めて固まっていた。
この空間で唯一、スタウトゴーレムだけが状況を理解せず、凄まじい勢いで突進を続けている。
「え?」
店主が現実を受け止めきれず、アホのように聞き返した。
「今、ですか!?」
「今! 早くして!」
「いや、目の前からゴーレムが来てるぞ!?」
「知ってるわよ!」
「こんな時にビール飲んでる場合か!?」
「飲まないわよ、バカ!」
「じゃあ一体何に使うんだ!?」
「いいから四の五の言わずに早く持ってきて!!」
店主は完全にパニックに陥った。
だが、目の前の相手は、先ほどゴーレムの一撃を鮮やかに止めてみせた、謎の白衣の女である。何か深い考えがあるに違いないと、とりあえずその必死な剣幕に従うことにした。
数秒後、店主が裏の倉庫から決死の覚悟で大きな樽を転がしてきた。
ごろごろごろごろ。
重厚なオーク材で作られたその樽には、『特級黒麦酒』の文字が刻まれている。この店で一番熟成された、最高級の樽。
ゆうこはその樽を鋭い目で見つめた。次に、視線を遠くへと走らせ、街の境界の先に見える港の青い海を捉えた。
そして、流れるような動作で突然、隣にいたクルスをビシッと指差した。
「クルス!」
「はいっ!」
「その樽を持って、あそこに見える港まで全力で走って!」
再び、世界に沈黙が訪れた。
今度はクルスが完全にフリーズして固まる。
周囲の困惑を置き去りにして、スタウトゴーレムだけが怒り狂って暴れ回っている。
どごぉぉぉん!!
容赦ない一撃で、近くにあった空き家が一軒、木端微塵に吹き飛んだ。そんな大惨事の最中であっても、一同はゆうこの意図が分からず固まったままだった。
「……みなと?」
クルスが恐る恐る聞き返す。
「そう、港よ」
「なんで、そんなところへ……?」
「いいから走りなさい!」
「せめて説明をしてください!」
「説明は後よ!」
「理由が分からなすぎて怖いです!」
あまりの破天荒ぶりに、サクが自分の頭を抱えて絶叫した。
「ちょっとゆうこ、こんな状況で一体何考えてるのよ!」
「実験よ、実験」
「戦闘の真っ只中に実験!?!?のんきすぎるでしょ!」
「今しかできないの! 今やらなきゃ意味がないの!」
「私、もう何が何だか全然分からないんだけど!」
サクが混乱するのを横目に、ゆうこは再びゴーレムの巨体へと視線を戻した。
魔物の体内を激しく流れる、おびただしい酒気。そして、この空間を満たすビールの酒気と、街中に漂う濃密な空気。さらに、その向こうの海から吹き付けてくる強い潮風。
港。あそこなら、広い場所であそこなら、自分の仮説が確かに確かめられるはずだ。
これまでの過酷な修行で学んだ知識と技術が、実践の場で本当に通用するかどうかを。
「クルス!」
ゆうこがもう一度、強い声で発破をかける。
「はい!」
「走れる!?」
「全力で走れます!」
「その重い樽、持てる!?」
「気合を入れれば持てます!」
「じゃあ四の五の言わずに走りなさい!」
「だから、理由は!?」
「私を信じなさい!」
「その言葉、チェンさんが使うと別の意味で怖いですけど、先生が使ってもやっぱりめちゃくちゃ怖いです!」
文句を言いつつも、クルスは覚悟を決めて巨大な樽に手をかけた。
よいしょ、というような、一般的な人間の貧弱な動作ではない。
ごんっ!!
鈍い音を立てて、彼は大の大人が数人がかりで運ぶ特大の樽を、信じられない軽さで自身の肩へと担ぎ上げたのだ。あまりにも自然に、普通に担いでみせた。
「いや……あんた、普通に持てるのね!?」
無茶振りを連発していたはずのゆうこが、予想以上の怪力に思わず素で驚きの声をあげた。
「持てます。これくらいなら朝飯前です」
「あ、そう……持てるんだ……すごいわね……」
ゆうこが若干引き気味に感心した次の瞬間、クルスは地面を強く蹴り、凄まじい速度で港へ向かって走り出した。




