第69話『夜を揺らす巨影』
厳しい修行場をようやく後にしたゆうこ達は、家路へと続く夕暮れの街道をゆっくりと歩いていた。
木々の隙間から差し込む、まるで燃えるような赤い斜光が、長時間の鍛錬で火照った体を優しく包み込んでいく。
心地良い疲労感がじわじわと四肢に広がり、それと同時に、ようやく過酷な試練が終わったのだという確かな解放感が一同の心を占めていた。
誰もが張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、お互いの健闘を称え合うような、穏やかな空気が流れていた。
その時、それまで軽快に歩いていたサクの足が、何かに吸い寄せられるようにぴたりと止まった。
「どうしたの?」
ゆうこが不思議に思って声をかけると、サクは言葉を返す代わりに、無言のまま真剣な眼差しで前方を指差した。
その指の先、鬱蒼とした森の街道沿いに、ぽつんと灯りを灯した小さな建物が建っていた。
それはどう見ても、この世界の冒険者たちが集う、年季の入った佇まいの居酒屋だった。
古びた木製の看板には、力強い文字で大きく
《酔いどれビール亭》と書かれている。
周囲ににわかな沈黙が流れる中、サクの目がまるで宝物を見つけた子供のように爛々と輝き出した。それを見たゆうこは、これまでの付き合いから嫌な予感しか湧いてこなかった。
「まさか……」
「打ち上げしましょう!」
「やっぱり!」
ゆうこの予想通りの叫び声が、夕暮れの森に木霊した。
それから三十分後。
《酔いどれビール亭》の一角にある木製のテーブル席に、ゆうこ達の姿はあった。
テーブルの上には、これでもかとばかりに美味そうな料理が所狭しと並べられている。
並々と注がれた黄金色のビール、香ばしい匂いを漂わせる豪快な肉料理、濃厚なチーズ、そしてみずみずしい果実。
ここまでは至って普通の、ありふれた居酒屋の光景だった。
しかし、その中央に、どう考えてもこの場の雰囲気にそぐわない異質な一品が鎮座していた。白く細い麺が氷水に浸かった、涼しげなそうめんだ。
「なんで居酒屋にそうめんがあるのよ」
ゆうこがこめかみをパチパチとさせながら問い詰めると、対面に座る男が平然とした顔で答えた。
「俺が持ち込んだ」
腕を組んで堂々と胸を張るその男は、チェンだった。
「人の店に勝手に持ち込むな!」
ゆうこの当然すぎるツッコミが、店内の喧騒へと溶けていく。
店内の雰囲気は非常に賑やかだった。過酷な依頼を終えたであろう冒険者達の豪快な笑い声、威勢の良い店員の呼び込みの声、そして何度も交わされるジョッキとジョッキがぶつかり合う鈍い音。
そんな活気あふれる空間の中、ゆうこは背もたれに深く体重を預けながら、体内の全ての空気を吐き出すように大きく息を吐いた。
「疲れた……」
口から出たのは、本心からの言葉だった。本当に、心底疲れ果てていたのだ。
ここ数日で叩き込まれたあの奇妙な修行の数々――木の実、卵、風船。それらを使った理不尽な鍛錬の記憶を思い出すだけで、今でも両肩がズシリと重くなるような錯覚に陥る。
そんなゆうこの様子を見て、サクがニカッと笑いながらビールの入ったジョッキを軽く揺らした。
「お疲れ様、ゆうこ」
「……ありがとう」
差し出されたジョッキに自分のものを軽く合わせ、ゆうこは冷たい琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
隣ではクルスも、尊敬の念を隠しきれないといった風な純粋な笑顔を浮かべている。
「先生、今日の修行、本当に凄かったです。見ていて圧倒されました」
「ありがとね、クルス」
素直に褒められると、少しだけ照れ臭い。そんな、どこか温かくて気恥ずかしい空気が流れる中、それまで黙々とそうめんをいじっていたチェンが、何気ない様子で低く重い口を開いた。
「疲れたか」
「疲れた」
チェンの問いかけに対し、ゆうこは考えるよりも早く即答していた。
チェンは深く頷き、ふっと不敵な笑みを浮かべる。
「なら良かった」
「何がよ。こっちは全身ボロボロなんだけど」
ゆうこが少し不満げに眉をひそめると、チェンは箸で器用にそうめんを数本手繰り寄せながら、諭すように言った。
「疲れるってことはな、お前が今日、昨日までやってなかった新しいことをやったっていう動かぬ証拠だ」
ゆうこは言葉を失い、少しだけ黙り込んだ。チェンはそんなゆうこの様子を気にする風でもなく、さらに言葉を続けた。
「逆に、一日が終わっても全く疲れてねぇってんなら、それは昨日と同じことしかしてねぇってことだ。つまり、一歩も成長してねぇってことさ」
チェンの言葉が、居酒屋のガヤガヤとした騒がしい喧騒をすうっと遠ざけていくように、ゆうこの胸に深く染み込んできた。
チェンはずるずると音を立ててそうめんを啜り終えると、空になった器をテーブルに置いた。からん、と陶器の軽い音が響き、それがどこか厳かな合図のようにも聞こえた。
「人間ってのはな」
チェンはいつもふざけた態度を崩さない男だが、その時ばかりは、驚くほど真面目で静かな声だった。
「基本的に、自分が出来ることばっか選んでやる生き物だ」
「まぁ……そうね」
「その方が圧倒的に楽だからな」
「うん」
「出来ることだけやってりゃ、失敗もしねぇし」
「うん」
「無様に傷付くこともねぇ」
「うん」
「誰の前で恥をかくこともねぇからな」
ゆうこは思わず自嘲気味に苦笑した。確かに、チェンの言う通りだった。誰だってわざわざ失敗したくはないし、得意なことだけをやってチヤホヤされたい。
できないこと、苦手なことなんて、できることなら一生避けて通りたいのが人間の本音だ。
「でもな」
チェンはそう言うと、少しだけ視線をきらびやかな店内から、窓の外の夜へと変わりゆく景色へと向けた。そこには、わずかに夕焼けの残光が残る、深い紺色の空が広がっている。
「その安全で楽な場所にずっと引きこもっていると、どうなるか分かるか?」
「……」
ゆうこが応えられずにいると、チェンは窓の外を見つめたまま、静かに告げた。
「出来ることしか、一生出来なくなるんだよ」
その言葉の重みに、サクもいつの間にか酒を飲む手を止め、真剣な表情でチェンを見つめていた。クルスもまた、一言も聞き漏らすまいと静かに耳を傾けている。
チェンはゆっくりと視線をこちらに戻し、悪戯っぽく笑った。
「なぁ、ゆうこ。あの木の実は、お前にとって難しかったか?」
「……めちゃくちゃ難しかったわよ」
「じゃあ、あの生卵は?」
「もっと難しかった。何度も心が折れそうになったわ」
「じゃあ、最後のあの風船は?」
「あれはもう、難易度とかじゃなくて意味が分かんなかった!」
ゆうこが半ばやけくそ気味に振り返ると、チェンは我慢しきれないといった様子で豪快に吹き出した。
「はははっ、だろうな! それでいいんだよ」
チェンはひとしきり笑った後、その男らしい顔付きに、少しだけ兄のような優しい笑みを浮かべた。
「だから、お前は、数日で確実に成長したんだ」
再び、心地良い沈黙がテーブルを包み込んだ。ゆうこは手元のジョッキに溜まる泡を見つめながら、自分のこれまでの歩みに思いを馳せていた。
元の世界で、必死に働いていた看護師だった頃。
訳も分からず、この見知らぬ異世界へ突然放り出された時。
そして、生きるために必死で『ぽしゃけ医』という怪しげな仕事を始めた時。
振り返ってみれば、全部そうだった。最初は何もかもが分からないことだらけで、出来ないことばかりだった。
何度も失敗して、恥をかいて、涙を流した。それでも、泥臭くあがいて、出来ないことの壁を乗り越えてきたからこそ、今の自分という存在がここにあるのだ。
チェンは、残ったそうめんを箸で最後の一本まで丁寧に持ち上げた。
「いいか、ゆうこ。これだけは頭の片隅にでも覚えとけ」
「何をよ?」
「新しい景色ってのはな」
チェンの箸の先で、一本のそうめんが情けなくぶら下がっている。居酒屋の灯りに照らされたその姿は、お世辞にも格好良いとは言えなかった。
なのに、なぜかその男の口から紡がれる言葉だけは、驚くほど真っ直ぐで、重みを持って響いた。
「自分の出来ねぇことの、その向こう側にしかねぇんだよ」
店内の賑やかな喧騒が、一瞬だけ本当に静まり返ったような錯覚を覚えた。ゆうこはチェンがくれたその言葉を、大切に胸の中で何度も転がし、反芻した。
出来ないこと。苦手なこと。できれば避けたいこと。
でも、その高い壁を乗り越えた向こう側。そこにしか見えない、まだ見ぬ美しい景色がきっとある。
ゆうこが少し感動に目を潤ませかけた、その時だった。チェンは急にいつもの悪い顔になり、ニヤリと下品に笑った。
「ちなみに、今の俺はもう完成されてるから、めんどくせぇし出来ないことは一切やらん!」
「せっかくの感動を台無しにすんじゃないわよ!!」
ゆうこは椅子から立ち上がりかけんばかりの勢いで、即座に全力のツッコミを炸裂させた。
それを見たサクが耐えかねたように盛大に吹き出し、クルスもお腹を抱えて笑い声を上げる。
一瞬にして店内の空気はいつもの緩いものへと戻っていった。結局のところ、チェンはどこまでいってもチェンという、どうしようもない男のままだった。
だが、彼がこの日に語ったあの言葉だけは、ゆうこの心の奥底に静かに灯り続け、消えることはなかった。それはまるで、まだ見ぬ世界の果てに広がる、輝かしい景色のように。
◇ ◇ ◇
楽しい打ち上げの宴は、夜が深く更けるまで賑やかに続いた。
サクはすっかり上機嫌になって浴びるようにお酒をおかわりし、クルスはなぜかチェンに影響されたのか、そうめんをさらに三束も追加して綺麗に平らげた。
当のチェンはといえば、いつの間にか厨房から出てきた頑固そうな店主と意気投合し、熱い『そうめん談義』を繰り広げている。
ゆうこには、彼らが何をそんなに熱弁しているのか一ミリも理解できなかった。
そして、宴もたけなわとなった頃、気付けば窓の外の世界はすっかりと深い闇に包まれていた。
「ふぅ、美味しかった。そろそろ帰るか」
サクが満足そうに息を吐きながら、どっこいしょと立ち上がる。
「そうね、明日もあるし」
ゆうこもそれに同意して席を立った。会計を済ませ、店の重い木製の扉を押し開ける。
一歩外へ出ると、ひんやりとした夜風が火照った頬を優しく撫でた。昼間の暑さが嘘のように、夜の空気は少しだけ冷たい。
振り返れば、酒場の温かいオレンジ色の灯りが、自分たちの背中を優しく照らしてくれている。
夜の街道は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。遠くの草むらから、心地良い虫の声が微かに聞こえてくる。
満天の星空が広がる、とても平和な夜――そのはずだった。
ずしん。
突如として、大気を震わせるような重苦しい衝撃が走り、足元の地面が大きく揺れた。ゆうこは驚いてピタリと足を止める。
「……え? 何今の」
ずしん。
間髪入れずに、もう一度。今度は気のせいなどではなく、靴の裏を通してはっきりと、身体の芯まで響くような振動が伝わってきた。
それ感知した瞬間、サクの酔いが一気に吹き飛んだように表情が鋭く変わる。クルスもまた、緊張した面持ちで街道の暗闇の先をじっと見つめていた。
「今の揺れ、ただの地震じゃありませんね……」
「あぁ、明らかに何かが近付いてきているな」
二人が武器に手をかけようとする中、チェンだけは相変わらず平然とした顔で佇んでいる。
ずしん。ずしん。ずしん。
地響きは、一定の規則的なリズムを刻みながら、確実に大きくなっていく。
その地を這うような不気味な音は、まるで、想像を絶するほど巨大な何かが、こちらに向かって一歩一歩歩いてきているかのようだった。
ゆうこは恐怖と緊張に息を呑みながら、夜の闇の向こうへと目を細める。
街道の先、木々の切れ目から、何かがゆっくりと姿を現しつつあった。
最初は、闇の中にそびえ立つ巨大な岩山か何かだと思った。だが、それは明らかに異なっていた。
なぜなら、その岩山自体が意思を持って動いていたからだ。一歩、また一歩。速度こそ緩慢だが、確実にこちらへ向かってその巨体を近付行けてくる。
そして、街道に設置された街灯の淡い光がその影を捉えた瞬間、その恐るべき全貌が晒された。
それは岩。いや、ただの岩の塊ではない。精巧に形作られた、岩で出来た人型の巨人。全身を硬質な鉱石と未知の魔力を帯びた結晶で覆われた、超巨大なゴーレムだった。
「でっか……嘘でしょ……」
ゆうこは呆然と見上げながら、乾いた声を絞り出すのが精一杯だった。
そのゴーレムの高さは、街道沿いに建つ二階建ての酒場を軽く超えている。奴が足を動かすたびに、凄まじい地響きと共に周囲の木々が激しく揺れていた。
ここに至って、ようやく酒場の中にいた他の客達も外の異変に気付き、ぞろぞろと扉から顔を出し始めていた。
「おいおい……なんだよ、ありゃあ……」
「おい、まさか新種の魔物か!?」
「冗談だろ、あんなデカい奴、どうやって戦えばいいんだよ……」
一瞬にして、街道一帯にパニック寸前のざわめきと恐怖が広がっていく。
緊張が最高潮に達したその時、巨大なゴーレムの岩の腕が、ギチギチと音を立てながらゆっくりと持ち上がった。
敵対行動か、それとも攻撃の予備動作か。一同が身構えた次の瞬間、その大きな手は、街道脇に山積みにされて停められていた、居酒屋の備品である巨大な『ビール樽』に向かって真っ直ぐに伸びた。
がしっ。
ゴーレムの手が、人間でいう小瓶を扱うかのような軽やかさで樽をガッチリと掴んだ。そのまま、何のためらいもなく頭上へと持ち上げる。
そして、あまりにもごく自然な動作で、その岩の口を開けて中身を豪快に流し込み始めた。
――沈黙。
その場にいた全員の思考が停止し、完全に身体が固まった。
ごくごくごくごく、ごくごくごくごく!
大人が何十人もかかって飲むような樽一本分のビールが、滝のような勢いでゴーレムの岩の喉へと吸い込まれ、あっという間に消えていく。
誰もが言葉を失う中、ゆうこが引きつった笑顔のまま、ぽつりと呟いた。
「……ねぇ、あいつ、ビール飲んでる?」
「あぁ、どう見ても美味そうに飲んでるな」
チェンが腕を組んだまま、感心したように深く頷く。
「ゴーレムが?」
「ゴーレムがな」
さらに気まずい沈黙が周囲を支配する。
そして次の瞬間、丸々一本分を飲み干したゴーレムは、いかにも満足したといった様子で、空になった巨大な木樽をその辺へ雑に放り捨てた。
ぶんっ、と凄まじい風切り音が響き――。
どごぉぉぉん!!
投げ捨てられた空樽は、凄まじい放物線を描いて街道脇に停められていた馬車や荷車へと直撃した。
衝撃で木っ端微塵に吹き飛ぶ荷車の破片。それを見た周囲の冒険者達が、今度こそ本気の悲鳴を上げて四方八方へと逃げ惑い始める。
「ちょっと! 全然平和な夜じゃないじゃないのよー!」
理不尽な現実に対するゆうこの全力の叫び声が、静かだったはずの夜空へと虚しく響き渡るのだった。




