第68話『爆縮』
◇ ◇ ◇
傾いた太陽が室内を茜色に染める、夕方。
ゆうこは限界を超えた身体の震えを止め、静かに樽の水面へと手をかざした。
深く、深い集中。
もはや周囲の雑音は何も聞こえない。ただ、水中のビジョンだけが鮮明に脳裏に浮かび上がる。
見つめるのは、風船の周囲を取り囲む、薄い水の膜だけ。
それを綺麗な球状にイメージする。
どこか一箇所でも歪んではいけない。均等に、均等に。
その水の球体を、外側から内側へと、全方向から一気に押し込む。
圧縮。
さらに、圧縮。
もっと深く、感覚の限界のさらにその奥まで!!
ゆうこの意志に応じるように、風船の周りの水圧が爆発的に高まっていく。風船そのものには、指一本すら触れていない。
だが、極限まで高まった周囲の水の壁が、逃げ場を失った風船を全方向から容赦なく押し潰していく。
きゅううううっ。
水中で、風船が悲鳴をあげるように奇妙な形へと変形していく。内側の空気が潰され、ゴムの限界を超えて縮んでいく。
まだだ。こんなものじゃない。もっと細く、もっと奥へ。力を分散させるな、すべてを一点の限界へと集中させろ!!
ぼんっ!!
鈍い破裂音が樽の底から響き渡り、水中で弾けた風船が、白い激しい泡の塊となって四方に広がった。
ゆうこは信じられないものを見るように、大きく目を見開いた。
「できた……! 本当に、割れた……っ!」
「へぇ、やるじゃない。大したものね」
その様子を後ろで見ていたサクが、心底感心したように、ヒューッと軽快な口笛を吹いて見せた。
同じく様子を見守っていたクルスも、驚きのあまりガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。
「今の……凄いです! 本当に風船には一切触ってませんよね!?」
「ああ」
チェンが短く頷く。そして、空になったお椀を置くと、いつになく真面目で、どこか凄みのある顔つきに変わった。
「今、お前がやった技は、ただの『圧縮』じゃねぇ」
「え……? 圧縮じゃないなら、何なの?」
ゆうこが疲労困憊の頭で首を傾げると、チェンは静まり返った水面を指先で軽く叩いた。
ちゃぷん、と小さな波紋が広がる。
「内側をただ押し潰したんじゃない。お前がやったのは、外側の密度を極限まで高め、その圧力で内側を崩壊させたんだ。
――それを『爆縮』と呼ぶ。
例えば、そうだな……水深一万メートルで、潜水艦の装甲にミリ単位の亀裂が入った瞬間を想像してみろ」
チェンは空になったお椀をトントンと指先で叩きながら、底冷えのするような声で言った。
「一万メートル……?」
ゆうこはゴクリと息を呑んだ。前世の知識として、それがどれほど絶望的な深海であるかは理解できる。
「そうだ。その深さじゃ、親指の爪ほどの面積に一トン以上の水圧が常にかかり続けている。もしも潜水艦の壁にほんの小さなヒビが入れば、水は容赦なくその隙間に牙を剥く。内側へと向かってな」
チェンは叩いていたお椀を、手の平で上からグッと抑えつけた。
「人間が悲鳴をあげる暇もねぇ。コンマ数秒、いや一瞬で、巨大な鉄の塊が内側に向かって文字通り『消滅』する。水圧という名の全方位からの巨大な拳が、中の人間ごと一瞬でミンチ以下の肉塊に押し潰すんだ。
それが『爆縮』の恐ろしさであり、お前がさっき風船に引き起こした現象の正体だ」
「……っ」
ゆうこは自分の手の平を見つめ、思わず身震いした。自分が今しがた成功させたのは、そんな凶悪な破壊の力の片鱗だったのだ。
改めて樽の底に沈む、千切れたゴムの破片を見つめた。
確かにそうだった。風船そのものに干渉したわけではない。周囲の水圧を爆発的に高めることで、その圧倒的な圧力の差に耐え切れなくなった風船が、内側に向かって破裂したのだ。
チェンはいつもの不敵な笑みを浮かべ、ゆうこを見下ろした。
「ただ物を小さく押し潰す『圧縮』しか知らねぇ奴は、どこまでいっても三流だ」
「……じゃあ、一流は何を使うの?」
「一流は、その場にあるすべての『圧力』を支配する」
チェンはそう言うと、お椀の底に残っていた最後のそうめんを一本、唇にくわえたまま、ニヤリと笑った。
「物を潰すアプローチってのは、決して一つじゃねぇんだよ」
ゆうこは自分の両手の平を見つめ、それから静かになった樽の中をもう一度見つめた。
木の実の種。
卵の黄身。
そして、水中の風船。
チェンがこれまで課してきた無茶振りの意味が、点と点でおのずと繋がり、少しずつ分かってきたような気がした。
圧縮の本質とは、ただ力任せに物を押し潰す破壊の力ではない。
世界のどこに、どうやって、どれだけの正確さで力を届けるか。その「圧力のコントロール」という技術そのものなのだと。
ゆうこが深い達成感に浸っていると、チェンは笑みを浮かべて迫ってきた。
「基礎の理屈は分かったようだな」
チェンが残ったそうめんを器用に箸でたぐり寄せながら、どこか上から目線で言った。
ずるずる、ずずず。
静かな倉庫に、気の抜けた咀嚼音だけが響き渡る。
その様子を見ていたゆうこは、背中に冷たいものが走るような、嫌な予感しか浮かんでこなかった。
「……ちょっと、その言い方だと、まさかまだこのおかしな特訓が続くの?」
「続くぞ」
「やっぱり!!」
チェンの返答は、一ミリの迷いもない即答だった。
ゆうこが絶望に顔を青くしたその時、チェンはふっと呆れたように肩をすくめてみせた。
「まぁ、それはそれとして、今はな」
「今は……?」
「ここまででいい。お前の今の限界としては十分だ」
あまりの落差に、ゆうこは完全にその場で固まってしまった。数秒の引きつった沈黙の後、パチパチと瞬きをしながら、思わず間の抜けた声で聞き返した。
「え?」
そんな様子がおかしかったのか、チェンは口元を不敵に歪めて笑った。
「これにて、今回の修行は終了だ」
優しく吹き抜けた風が、心地よく体を通り抜けていく。樽の中の水面も、その風を受けて小さく、穏やかな波紋を描いていた。
ゆうこは未だに現実感が湧かない様子で、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。
終わり。本当に、あの地獄のような特訓が終わったのだ。
あれだけ毎日毎日、理不尽な無茶振りを突きつけられて頭を悩ませていたのに、いざ告げられてみると、なんだか肩透かしを食らったようで拍子抜けだった。
「終わり……? 本当に終わりなの?」
「終わりだ」
「本当に本当に?」
「本当に、本当にだ。今はない」
最後の『今は』という不穏な一言が猛烈に引っかかったが、これ以上突っ込むと藪蛇になりそうだったので、ゆうこは敢えて聞かなかったことにした。
チェンは最後の一本まですすり終えると、空になった器を無造作に足元へ置いた。からん、と陶器の軽い音が地面に響く。
「おい、勘違いするなよ」
それまでのふざけた態度を消し去り、チェンは珍しく低く真面目な声でゆうこを見据えた。
「お前はこの数日で、急激に強くなった訳じゃねぇ」
「え……?」
「単純に、今までお前の中に眠っていた力の『出来ることが増えた』だけだ。引き出しが増えたと思え」
ゆうこは反論の言葉が見つからず、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けた。
チェンは満足げに頷くと、大きな樽、そして足元へと順番に指を指し示した。
「木の実、卵、そして風船。順番に指を向ければ、全部違う課題のように見えるだろう」
「うん。どれも全然別物だったわよ」
「だが、本質としてお前がやってることは全部同じだ」
ゆうこは自分の手の平を見つめ、静かに頷いた。確かに、言われてみればその通りだった。
対象を深く見る。その構造を理解する。狙いを定め、的確に力を届ける。形が変わっても、自分の意識の使い方はずっと同じだったのだ。
そんなゆうこの納得を見て取り、チェンはまたいつもの意地の悪い笑顔に戻った。
「だから、次からは教わろうとせず、自分で考えて応用しろ」
「盛大な丸投げ!?」
「師匠ってのは、弟子をある程度突き放す。そういうもんだ」
「自分が楽をしたいだけで、都合良く解釈してるだけでしょ!」
ゆうこの鋭いツッコミに、後ろで見守っていたサクが、手元の一升瓶をちゃぷちゃぷと揺らしながら優しく笑いかけた。
「なにはともあれ、お疲れ様。よく頑張ったわね、ゆうこ」
隣にいたクルスも、自分のことのように嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「先生、本当に凄かったです。僕、感動しちゃいました」
二人に真っ直ぐ褒められると、ゆうこは少し面食らってしまい、頬をほんのり赤くして視線を泳がせた。前世でも現世でも、面と向かって褒められるのはどうにも苦手だった。
だが、決して悪い気はしない。むしろ胸の奥がじんわりと温かくなる。
すると、しゅわ丸も便乗するように、ぴょこんとゆうこの肩へと飛び乗ってきた。全身をぷるぷると小刻みに震わせているその様子は、多分、彼女を精一杯褒めているのだろう。
ゆうこは愛おしそうにその体を指先で突いた。
◇ ◇ ◇
いつの間にか、傾いた夕陽が港の空を真っ赤に染め上げていた。
ゆうこはふと、赤く燃えるような空を見上げる。
一日目、固い木の実をどうしても砕けずに悔し涙をにじませた。
二日目、力加減を間違えて生卵まみれになり、絶望した。
そして今日、見事な爆縮で水中の風船を弾けさせた。
思い返せば、どれもこれも馬鹿みたいに極端で、理不尽な修行だった。
だが、決して無駄ではなかった。自分の体の中に、以前とは違う、確かな力の感覚と手応えが残っている。
以前の自分では到底届かなかった、遥か高い場所へ。今の自分なら、手を伸ばせば届くような気がした。
チェンが大きな欠伸をしながら、よっこらしょと重い腰を上げた。
「よし、腹も減ったし帰るぞ」
「そうね、すっかり遅くなっちゃったし」
ゆうこが埃を払いながら同意すると、チェンはお腹をさすりながら不満げに呟いた。
「あー、本格的に腹が減った。そうめんじゃ足りねぇ」
「アンタ、修行の合間もずっとそうめん食べてたでしょ!」
「そうめんは飲み物だから、腹にはたまらん」
「そんなわけないでしょ! れっきとした主食よ!」
◇
賑やかに言い合いをしながら、四人と一匹は静まり返った港を後にした。
彼らの背中を、世界の果てまで続くような赤い夕陽が、優しく、そして力強く照らし出している。
過酷だった圧縮の修行は、これで一区切りがついた。
だが、彼らの果てしない旅は、まだ終わったわけではない。むしろ――。
手に入れた新しい力を携えて進む、ここから先こそが本当の本番なのだ。
胸の中に湧き上がる心地よい緊張感と予感を抱きしめながら、ゆうこは信頼できる仲間たちと共に、新しい一歩を踏み出したのだった。




