第67話『圧縮の新境地』
翌日。
ゆうこの前に用意されていたのは、昨日までの卵とは打って変わって、視界を圧迫するほどに巨大な木製の樽だった。
その中には、並々と水が満たされている。溢れんばかりの水面が、室内の光を反射して静かに揺れていた。
そして、その透明な水中を覗き込むと、底の方にひとつの石が沈んでいるのが見えた。
よく見れば、その石には細く丈夫な一本の糸が結び付けられている。
糸の先へと視線を移すと、そこには掌に収まるほどの小さな風船が繋がれており、浮力によって水の中層でふわり、ふわりと浮いていた。
水中という慣れない環境、そして妙に凝った仕掛けを前にして、ゆうこは嫌な予感しか浮かんでこなかった。顔を引きつらせ、じりじりと樽から距離を取りながら、ゆうこは恐る恐る尋ねた。
「……何これ。今度は水遊びでも始めようってわけ?」
「次の修行だ」
チェンは樽のすぐ横に腰掛け、どこから持ってきたのか、お椀に入ったそうめんを器用に箸ですすりながら淡々と言い放った。
「その水中にある風船を割れ」
「風船を割る? そんなの簡単じゃない。針でも刺せば一発よ」
あまりにも拍子抜けな課題に、ゆうこは肩の力を抜いて鼻で笑った。しかし、チェンがそんな簡単なことを要求するはずがない。
案の定、チェンはそうめんを口に含んだまま、細い指を一本ツンと立てて見せた。
「ただし」
「ただし、何よ?」
「風船には、直接触るな。直接の衝撃も圧迫も一切禁止だ」
室内に、痛いほどの沈黙が流れた。
ゆうこはチェンの言っていることの意図がすぐには理解できず、完全に思考を停止させてしまう。
数秒のフリーズの後、ようやく口から出たのは、気の抜けた一言だった。
「は?」
「言葉通りの意味だ。風船に触れることなく、その周りにある水だけを圧縮しろ」
チェンは何でもないことのように言い、再びズズズとそうめんをすすり始めた。
「水だけを圧縮して風船を割る? ちょっと待って、意味分かんないんだけど! 水は水じゃないの!」
理不尽極まりない難題に、ゆうこは声を荒らげて抗議した。触らずに割れなど、超能力者でもなければ不可能な芸当に思える。
しかし、チェンはそんなゆうこの反論を、冷ややかな視線ひとつであしらった。
「頭を使え。意味が分からないなら、分かるまで考えろ」
やはり、いつもの無茶振りだった。この男には、まともな段階を踏んで教えるという概念が存在しないらしい。
一回目。
文句を言っていても始まらないと腹をくくり、ゆうこは樽の前に身を乗り出した。水中に浮かぶ小さな風船をじっと睨みつけ、昨日覚えた感覚を頼りに、その風船の表面へとピンポイントで圧縮の力をかけていく。
ぎゅっ。
ゆうこの意識に合わせて、水中の風船が目に見えて小さく縮んでいく。ゴムの膜が内側へと押し込まれ、これならいけるかと期待が高まったが――そこまでだった。
風船は限界まで小さく縮んだ状態を維持したまま、それ以上に変化する気配がない。力を緩めると、何事もなかったかのように元の大きさにふわりと戻ってしまった。
「ほら、割れないじゃない!」
ゆうこは思い通りにいかないもどかしさから、樽の縁をバシバシと叩いて悔しがった。
「当然だな。そんなやり方では、日が暮れてもその風船は一つも割れんぞ」
チェンは緊張感の欠片もなく、退屈そうに大きな欠伸を噛み殺した。
「なんでよ! ちゃんと私の力でギュッと圧縮したわよ!?」
「お前、今何をした?」
「だから、圧縮したって言ってるじゃない!」
「だから、何を、だと聞いているんだ」
チェンは箸を置き、呆れたようにため息をついた。
「何をって……風船に決まってるでしょ!」
「だから駄目なんだと言っている」
チェンの言葉の意味が、さっぱり分からない。ゆうこは完全に八方塞がりになり、不機嫌そうに眉をひそめてチェンを睨み返した。
チェンはそんなゆうこの視線を受け流しながら、億劫そうに人差し指で樽の側面をトントンと叩いた。
「おい、その風船の中身は一体何だ?」
「何って……膨らませてあるんだから、空気でしょ」
「じゃあ、空気という物質は、外から力を加えれば潰れるか?」
「そりゃ、気体なんだから潰れるわよ。クッションみたいに縮むわ」
「なら、限界まで潰したらどうなる」
そこまで言われて、ゆうこは雷に打たれたようにハッとした。
縮む。それだけだ。
どれだけ外側から風船を圧縮しても、中の空気がそれに応じて小さく縮んでいくだけ。ゴムの膜にかかる負荷は内側と外側で相殺され、破裂には決して繋がらない。
ゆうこの表情が驚きに変るのを見て、チェンは口元を不敵に歪めてニヤリと笑った。
「やっと構造の矛盾に気付いたか。お前がやっているのは、ただ風船を小さくしているだけで、破壊のエネルギーにはなっていないんだよ」
二回目。
構造を理解したものの、実践は困難を極めた。風船ではなく周囲の水にアプローチしようとしたが、力加減が乱れて激しい水流が起きるだけで、失敗に終わった。
三回目。
今度は優しく力を込めようとしたが、意識が分散してしまい、水中には何も起きなかった。
完全な失敗だ。
十回目。
集中力を研ぎ澄まし、水の壁をイメージする。水中の風船が激しく揺れ動き、一瞬だけ表面が歪んだが、あと一歩が足りずにゴムの弾性に弾かれた。
二十回目。
やはり失敗。何度も何度も目に見えない力を水中に送り込み続けたせいで、ゆうこの額からは大粒の汗がボタボタと畳へ滴り落ちていく。
酷使した両腕は鉛のように重く、頭の芯がジリジリと焼けるように熱い。精神的な集中力も限界まで削り取られていく。
それでも、ゆうこは樽の中から決して目を逸らさなかった。ここで諦めたら、あの意地悪い講師の思うツボだというプライドだけが彼女を支えていた。
ゆうこは親の仇かというほどの鋭い目つきで、再び樽の内部を睨みつける。
ターゲットは風船。……じゃない。
その周りにある、透明な水だ。
風船の周囲を囲む水そのものへ、均等に圧力をかける。だが、言葉で言うほど簡単ではない。
少しでも意識のバランスが崩れれば、ただの水流が巻き起こるだけで、風船をただ弄んで揺らすだけで終わってしまう。どうしても割れてくれない。
息を荒くするゆうこを見かねたのか、チェンが静かに問いかけてきた。
「おい。一昨日の修行で、木の実に何を見た」
「……種。中心にある、硬い種よ」
ゆうこは視線を樽に固定したまま、途切れ途切れの声で答えた。
「じゃあ、昨日の修行で、卵の中に何を見た」
「……黄身。壊れやすくて、柔らかい黄身」
「じゃあ、今は? その水の中で、お前は何を見るべきだ」
ゆうこは、すぐには答えを返せなかった。
風船じゃない。それは分かっている。水だ。でも、ただ漠然と水全体を見るんじゃない。
風船を優しく包み込んでいる、その周囲。
ごくごく狭い、球状の空間。
そこだけ。
そこだけ。
そこだけに、全ての意識を集中させるんだ――。




