第66話『制御』
翌日。
ゆうこの前に用意されていたのは、想像を絶する光景だった。
「……何これ。何の冗談?」
ゆうこは引きつった声をあげ、目の前の光景に一歩後ずさった。
そこに並んでいたのは、尋常ではない数の卵だ。机の上はおろか、床に敷かれた筵の上にまで、文字通り視界を埋め尽くすほどの大量の卵が敷き詰められていた。
「次の修行」
チェンが表情一つ変えずに即答した。
「嫌な予感しかしないんだけど」
ゆうこは額に冷や汗をにじませながら、じりじりと後退する。
「卵を動かせろ」
チェンが言い放った。
予想通りの無茶振りに、ゆうこは思わず両手で頭を抱えて抗議した。
「いや無理でしょ! 何よその『動かせろ』って日本語! 動かせ、でしょ!?」
「昨日も同じこと言ってたな」
「昨日はただの木の実だったじゃない! できたけど、今回は生卵よ!? ちょっとでも力加減を間違えたら、中身がグシャッて大惨事になるの目に見えてるじゃない!」
必死にまくし立てるゆうこを無視して、チェンはひょいと手元の一玉を持ち上げた。そして、それを滑らかな手つきで机の上に置く。
「気を通し、殻を割らずに表面を滑らせる。このように、円を描くようにだ」
チェンが指で机の上に綺麗な真円を描いた。
「無茶言うな!!」
物理法則を無視した言動にゆうこは絶叫する。
そんな修羅場の横で、サクは相変わらずのマイペースさで、昼間から一升瓶を抱えていた。ぐびぐびと美味そうに酒を喉に流し込み、赤い顔でけらけらと笑う。
「いいじゃない、頑張りなさいよ。おつまみに味玉が食べたいわねぇ」
「失敗したら全部卵焼きよ!」とゆうこが睨みつける。
すると今度は、隣からズズズ……と気の抜けた音が響いた。クルスが涼しい顔で、冷やしそうめんをすすっている。
「大丈夫ですよ。先生ならできます。僕、信じてますから」
「アンタ達もう少し心配しなさいよ! 他人事だと思って、片や酒盛り、片や麺類ってどういうこと!?」
ゆうこは声を荒らげて周囲に救いを求めたが、結局のところ、この場にいる誰も彼女を心配してはくれなかった。
一回目。
何も起きなかった。
「動かない!」
「当たり前だ」
三回目。
卵のすぐ横にあった、小さな埃がふわりと飛んだ。
「おっ」
「卵じゃねぇ。埃だ」
五回目。
「動いた!」
「揺れただけだ。……お前、まさかそれで満足してねぇだろうな」
チェンは溜め息をつき、手元にあった空のぐい呑みを机に置いた。
そして、その背後の空気を、人差し指でトントンとリズミカルに叩く。
「お前のはな、一発のデカい風をぶつけてるだけだ。だからその場でぶつかって終わり、最悪ひっくり返って割れる。そうじゃねぇ」
「そうじゃねぇって、じゃあどうすんのよ」
「卵のすぐ後ろの空気を『圧縮』して、弾けさせる。ここまではいい。だが、卵が転がり始めたら、その転がった先の空気をまたすぐに『圧縮』して、次の足場を作るんだ。一発の爆発じゃねぇ。極小の圧縮を、連続で繋げ」
「連続で、圧縮……?」
言うのは簡単だが、イメージが追いつかない。
空気を固めて、破裂させて、それを間髪入れずに次のポイントでも繰り返す?
ゆうこは眉間にシワを寄せ、再び卵の薄い殻を睨みつけた。
一発じゃダメだ。
トン、トン、トン、と、細かく連打するイメージ。
八回目。
卵が数ミリだけ、ころりと転がった。
「おお!」
「偶然だな」
「厳しくない!?」
二十回目。
失敗。
三十回目。
失敗。
四十回目。
失敗。
揺れて、止まる。
揺れて、止まる。
それだけ。
五十回目。
ころり。
卵が、今度は明確に一センチほど転がった。
ゆうこが驚きに目を見開く。
「今の!」
「……今のだ」
ようやく空気を集めて、物を微動させる感覚の尻尾を掴んだ。
だが、ここからが本当の地獄だった。
「動かす」から「制御する」へ。
チェンが要求するハードルが、一段階跳ね上がる。
五十一回目。
――ぱきっ。
動かす出力を少し強めようとした途端、卵が見事に割れた。
卵の至近距離の空気を、強く「圧縮」しすぎて、小さな衝撃波になってしまったのだ。
「違う」
五十五回目。
今度は圧縮する位置が卵から遠すぎた。ただの強い風になってしまった塊が、卵を凄まじい勢いで机から吹き飛ばす。
床を「ごろんごろんごろん!」と派手な音を立てて転がっていく。
「違う」
六十回目。
卵の下の空気を圧縮してしまい、垂直に、ぽーんと跳ねた。
「違う」
六十五回目。
圧縮のバランスが左右にブレて、卵が机の上で、独楽のように猛烈に回転した。
「違う」
ついにゆうこが机をバンと叩いた。
「だから、何が違うのよ!」
チェンは退屈そうに欠伸をした。
「暴れてるだけだ」
「動いてるでしょ!」
「動けばいいなら石でも投げろ。その方が早ぇ」
ぐうの音も出なかった。
チェンは新しい卵を拾い上げ、机の中央へ静かに置く。
目にも留まらぬ手つきで、無骨な指先が木目の机をなぞった。
すぅっ、と。
綺麗な丸い軌跡。
見事な円だった。
「この通りに動かせ」
「は?」
「一周だ」
「無茶言うな!」
六十六回目。
卵が右へ転がる。
だが、次のポイントへの空気圧縮が間に合わず、制御を失って机から真っ逆さまに落ちた。
失敗。
六十七回目。
少しだけカーブを描く。
だが、空気の圧縮を連続させるテンポが途切れ、力尽きたように止まった。
失敗。
六十八回目。
半周まで綺麗にいった。
そこで焦って、次に圧縮した空気の力が強すぎた。
ごろん。
カーブを外れて直進。
失敗。
七十五回目。
失敗。
八十五回目。
失敗。
九十五回目。
失敗。
頭が熱い。スキルの使いすぎで吐き気がしそうだ。
額からじわりと大きな汗が落ちる。
あの、どんぐり(木の実)の時より遥かに難しい。
卵そのものを手で押せば簡単だ。
だが、それでは意味がない。
チェンが求めているのは。
卵という物質を力任せに押し出すことではなく。
その周りにある空気を、適切な強さで、適切な位置で、連続して圧縮し続ける操作だった。
◇
夕方。
ゆうこは、じっと卵を見つめていた。
周囲の喧騒が遠のき、視界が狭まっていく。
違う。
卵を見るんじゃない。
見るのは――空気だ。
卵の右側。その表面に触れるか触れないかの限界の空気を、ほんの少し、優しく圧縮する。
ころり。
生まれた空気の壁に押され、卵が動く。
行き過ぎる前に、今度は進んだ先の前方。その斜め上の空気を、ほんのわずかに圧縮する。
軌道が、吸い込まれるように滑らかに曲がる。
さらに、左側。
そして後方。
卵の移動速度に合わせて、先回りするように次々と、ピンポイントで空気を圧縮していく。
一瞬でも遅れれば破綻する、繊細なスキルの連打。
まるで。
見えない透明な指先で、壊れ物をそっと転がし続けるように。
慎重に。
慎重に。
慎重に。
ころ。
ころ。
ころり。
卵が動く。
右へ、前へ、左へ、後ろへ。
空気の小さな圧縮が、見えない歯車のように噛み合い、卵を導いていく。
ゆっくりと。
どこまでも、ゆっくりと。
そして――。
卵は、最初に置かれた、まったく同じ場所へとピタリ戻った。
机の上に描かれたのは、完璧な円だった。
沈黙。
サクが酒を注ぐ手をピタリと止める。
クルスが、息を呑んで思わず立ち上がる。
「え……」
ゆうこ自身も、自分の両手を見つめたまま目を見開いていた。
卵には一切触れていない。
部屋に風が吹いたわけでもない。
ただ、卵の周囲の空気だけが、超高密度に、かつ緻密にコントロールされ――
卵はまるでそれ自体に意思があるかのように、綺麗な円を描いて歩いたのだ。
チェンが、満足そうにニヤリと笑った。
「ようやく見えてきたな」
「……」
「動かすってのはな」
のびかけたそうめんを一本、器用に口へくわえる。
「吹っ飛ばすことじゃねえ」
そして、静止した卵を指差した。
「思った通りに、そこに置くことだ」
ゆうこは静かに卵を見つめた。
木の実で学んだのは、狙いを定める精度。
そして今、卵で学んだのは――力を御する制御だった。




