第65話『見えていなかったもの』
◇
最初の一時間。
その間に得られた成果は、文字通り「ゼロ」だった。
ぱきっ、と小気味いい音が静かな空間に響く。
続けて、ぱきっ。さらに、ぱきっ。
それは木の実が割れる音であり、頑丈な殻が砕ける音であり、その中身である種までもが、跡形もなく粉々に砕け散る音だった。
要するに、手加減なしに全部がまとめて押し潰されているのだ。
「うがぁぁぁ!!」
あまりの進展のなさに、ゆうこが頭を抱えて絶叫した。髪を激しく掻きむしり、目の前に転がる木の実の無惨な残骸を睨みつける。
「無理よ、こんなの!!」
「まだ十七個目だろ。騒ぐなよ」
チェンは近くに置かれた大きな樽の上で、いかにも気持ちよさそうに昼寝を決め込んでいた。薄目を少しだけ開け、だらしなく欠伸を噛み殺しながらゆうこを見下ろしている。
「数えてるじゃない!」
「修行の成果ってのは、数えるもんだ」
「その、いかにも『分かってます』みたいな師匠面が本当に腹立つ!」
ゆうこが青筋を立てて怒鳴り散らすが、周囲の面々は完全に他人事だった。
サクはすぐ隣の特等席で、昼間から気持ちよさそうに酒を煽っている。
「頑張りなさい、ゆうこ。応援だけはしてあげるから」
「他人事だと思って……手伝いなさいよ、少しは!」
「嫌」
即答だった。サクは杯を傾けたまま、一ミリの躊躇もなく断りを入れる。
視線を少しずらせば、クルスが涼しい木陰に陣取り、冷やしたそうめんを実に美味しそうにすすっていた。
「先生ならできますよ。僕、信じてますから」
「あんた、そうやって応援だけで済ませる気ね?」
「はい」
「その無駄に素直なところも、すっごく腹立つ……!」
ゆうこはぐぬぬと唸りながら、目の前の新たな木の実へと意識を向けた。
だが、結果は変わらない。
ぱきっ、と乾いた音がして、また失敗。
焦りを乗せて力を込めれば、ぱきっ、とさらに派手に弾けて、また失敗。
苛立ちに任せて掌をかざせば、ぱきっ、と木っ端微塵になって、また失敗。
やがて、ゆうこの額からじっとりとした汗がひと筋、ふた筋と落ち始めた。
息が荒くなり、身体の奥が熱を帯びていくのを感じる。
実のところ、純粋な「圧縮」そのものは簡単だった。ただ力を込めて、対象を限界まで押し縮めればいいだけなのだから。
問題は、その先だ。
――“どこに力をかけるか”。
求める結果は極めて精密な制御を必要とした。外側の硬い殻は完全に残し、その内側にある種だけをピンポイントで綺麗に潰す。それがどうしてもできないのだ。
今までのゆうこの圧縮は、いわば大雑把な質量兵器だった。標的のすべてを、外側も内側も関係なく、全部まとめて力任せに押し潰していたからだ。精密なコントロールなど、これまでの実戦では必要とされてこなかった。
その時、樽の上で横になっていたチェンが、ゆっくりと両目を開いた。その瞳には、退屈さの中に鋭い光が混じっている。
「なぁ、ゆうこ。お前の目には、今何が見えてる?」
「……は? 木の実よ、木の実。それ以外に何があるっていうの」
「だからお前の圧縮は雑なんだよ」
「な、またそれ!? 具体的に言いなさいよ!」
チェンは何も答えず、ただ小気味よく指を一つ鳴らした。
「目を閉じろ」
「は? 何言ってるのよ、集中しなきゃいけないのに」
「いいから閉じろって」
ゆうこは不満げに口を尖らせながらも、渋々とその瞼を閉じた。視界が真っ暗になり、代わりに周囲の風の音や、サクが酒を飲む音、クルスがそうめんをすする音が大きく聞こえてくる。
すると、チェンが音もなく近づき、ゆうこの無防備な掌の上に、ぽんとひとつの木の実を乗せた。
「感じろ」
「……何をよ」
「その殻の中身だ」
「分かる訳ないでしょ、目をつぶってるのよ!?」
「いや、分かる」
「分からないわよ!」
「分かる」
「分からない!」
「分かる」
「あーもう、面倒くさいわねアンタ!!」
ゆうこが目を開けて怒鳴ると、チェンはしてやったりと不敵に笑った。しかし、すぐにその笑顔を収め、少しだけ低く、真面目なトーンの声になる。
「お前さ」
「……何よ」
「患者の骨折は、触れば分かるだろ」
その言葉に、ゆうこは言葉を失って黙り込んだ。
チェンは静かに言葉を続ける。
「熱だって、肌に触れれば何度くらいか分かる。違うか?」
「……うん」
「呼吸の乱れも」
「うん」
「顔色を見ただけでも、どこが悪いか見抜けるはずだ」
「……うん」
「じゃあ、なんでお前にはそれが分かるんだ?」
ゆうこは突きつけられた問いに対して、自分の内面へと意識を向け、少しの間考え込んだ。医療の現場で、自分がどうやって患者と向き合ってきたか。
「……経験、とか?」
「違うな」
「え?」
「『見てる』からだ」
チェンはゆうこの手の上から木の実を取り上げると、それを指先で軽く弾いた。
ころり、と地面を転がる。
「お前は患者の身体を見る時、表面だけじゃなく、その奥の命を見てる。だから細かい変化に気づけるんだ。そうだろ?」
「うん……」
「でも、圧縮する時はそれをしてねぇ。標的を『見てねぇ』んだよ」
「……!」
「ただの塊として捉えて、全部まとめて力任せに潰してる。お前が普段やってる医療とは、真逆の雑さだ」
その鋭い指摘に、ゆうこは少しだけ息を呑んだ。
完全に、思い当たる節があった。
確かにその通りだ。自分が「圧縮玉」を作る時、頭の中を占めていたのはいつも『力』の強弱ばかりだった。
どれだけ強く圧縮するか。どれだけ強大な威力を叩き出すか。破壊の規模、それだけしか意識していなかったのだ。対象の内側を観察し、寄り添うような繊細さなど、微塵も持ち合わせていなかった。
チェンは満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「もう一回だ」
足元から新しい木の実を拾い上げ、ゆうこの前の作業台へと置く。
「今度は、その表面の殻を見るな」
「え? 殻を見ないでどうするのよ」
「中を見ろ。殻の奥にある、種そのものに意識を繋げろ」
言葉としての意味は、正直言って掴みきれなかった。
だが、ゆうこは不思議と、今ならできるかもしれないという根拠のない予感に満たされていた。
ゆうこは再び、木の実に向けてそっと掌をかざした。
生み出すのは、米粒よりもさらに小さい、極小の圧縮玉。これまでは威力を求めて大きくしていたが、今はその真逆、極限まで小さく、鋭く、研ぎ澄ます。
さらに、集中。
目の前の木の実へと、自分の全意識を深く沈めていく。
見つめるのは、外側の茶色い殻ではない。
その内側。わずかな空洞の先にある、ひとつの種。
その種の中心点。
そこだけ。
そこだけ。
狙うのは、そこだけ――。
きゅっ。
それは、空気の爆発音ではない。まるで布が擦れ合うような、ほんの小さな、密やかな音だった。
そして。
ころり。
木の実が、力を失ったように作業台の上を転がった。
割れていない。外側の殻には、傷ひとつついていなかった。
「……失敗、よね?」
ゆうこが落胆混じりに呟いたが、チェンは何も言わずにその木の実を拾い上げた。そして、指先に少しの力を込めて割る。
ぱかっ。
乾いた音を立てて二つに割れた殻。その中から現れた種は――。
原型を留めぬほど、文字通り「粉々」に粉砕されていた。
周囲に、痛烈なほどの沈黙が降り立つ。
ゆうこが我が目を疑い、その場で石のように固まった。
それまで酒を飲んでいたサクが、驚愕のあまり大きく目を見開く。
木陰でそうめんを食べていたクルスにいたっては、持っていた箸を落とさんばかりに勢いよく立ち上がった。
「えっ……?」
「ほらな、成功だ」
チェンがニカッと、悪ガキのような笑みを浮かべた。
「一回コツを掴んだだけでこれだ。一回目にしては上出来すぎるくらいだろ」
ゆうこはチェンの手元にある、木の実の殻の残骸をじっと見つめた。
壊れていない。何も傷ついていない。外側は完全な無傷。
それなのに、中身だけが完璧に壊れている。
今まで、どれだけ力を込めてもできなかったこと。力任せの破壊ではなく、意識の浸透による精密な制御。
チェンはクルスの器から、茹で上がったそうめんをひょいと一本、器用に指先でつまみ出した。
ひらり。
重力をも無視するように、その白い糸のような麺を指先でくるくると回してみせる。柔らかいものを傷つけず、しかし確実に制御するその動き。
「それが、本当の『圧縮』だ」
チェンはそうめんを口に放り込み、ゆうこに向けて不敵に、そしてどこか嬉しそうに笑ってみせた。
「おめでとう。ようやく入口だな、ゆうこ」




