第64話『圧縮の本質』
翌朝。
約束通り、ゆうこたちは港の東外れへと向かった。
そこには、かつて流通の拠点として使われていたものの、今ではすっかり放棄された古い樽倉庫が佇んでいた。
ひび割れた木壁は潮風に晒されて黒ずみ、周囲には役目を終えた空樽が無造作に積み上がっている。波の音だけが虚しく響く、うらぶれた場所だ。
そして。
その倉庫の広い中央スペースには。
すでに仁王立ちで腕を組んだチェンが、待ち構えるように立っていた。
「遅ぇ」
ゆうこの姿を見るなり、開口一番にそれだ。
「まだ約束の十分前よ!?」
「師匠ってのはな、弟子を三時間前から待つもんなんだよ」
「どこの世界の、なんていう知らない文化よ、それ……」
ゆうこが呆れて肩を落とす中、チェンは彼女の抗議を綺麗に無視して、足元の地面へ何かをころりと置いた。
ころん。
それは、その辺の森にでも落ちていそうな、小さく硬い木の実だった。
普通の茶色い木の実。それだけだ。
ゆうこは地面を見つめたまま、怪訝そうに首を傾げる。
「これ何?」
「第一段階だ」
「……第一段階?」
「『圧縮玉の精度』を極めてもらう」
チェンは足元の木の実を無造作に指差した。
「それを、お前の力で圧縮しろ」
「え? これを?」
「おう。ただし、絶対に爆発させるなよ」
「いや、私の圧縮って、限界まで縮めて圧力を高めて、一気に爆発させるものでしょ。爆発させないなんて──」
チェンはチッチッチ、と大げさに人差し指を振って首を横に振った。
「違う。全然分かってねぇな」
そう言って、チェンはまたしても自分の足元に落ちていた(なぜか大量にある)そうめんを一本、器用に拾い上げる。
そして。
そのそうめんの端を、指先で軽く挟むようにして握った。
すると、どうだろう。
パキリとも音を立てず、そのそうめんの一部分だけが。
きゅっ。
と、吸い込まれるように細くなった。
折れていない。当然、木っ端微塵に砕けてもいない。
ただ、チェンが触れたその一点だけ、物質の密度が異常なまでに凝縮され、圧力が集中していた。
それを見たゆうこの目が、驚愕で見開かれる。
「今の……どうやったの……!?」
「力ってのはな、ただ強けりゃいいって訳じゃねぇんだよ」
チェンは細くなったそうめんを、用済みとばかりにポイと投げ捨てた。
「いいか、お前の圧縮は致命的に雑なんだ」
「まだ言うのね」
「だって事実、雑だからな。認めろ」
どこまでも容赦がない。チェンは再び地面の木の実を指差した。
「お前のその自慢の圧縮玉」
「うん」
「今まで、一体何に使ってきた?」
問いかけられ、ゆうこはこの異世界に来てから、自分がどのように圧縮スキルを使って戦い、生き延びてきたか、その記憶を一つずつ思い浮かべてみた。
「仕留めた獲物の肉を、持ち運びやすいように小さくした」
「うん」
「襲ってきた複数のスライムを、一箇所にまとめて小さく圧着した」
「うん」
「……あと、敵に向かって投げた」
「うん」
チェンは、ふむと大きく頷いた。
「全部雑だ」
「ひどい言い草ね!」
「だから、今日はその雑なやり方を矯正する」
チェンは地面からその木の実をひょいと持ち上げた。
「これを潰せ」
「そんなの簡単じゃない。力を込めれば一瞬よ」
「──ただし、この木の実の『中の種だけ』をだ」
またしても、倉庫の中に不穏な沈黙が流れた。
「……は?」
「聞こえなかったか? 外側の硬い『殻』は一切傷つけるな。無傷のまま、中の種だけをピンポイントで圧縮して潰せ」
「無理でしょ、そんなの! 外側を触らずに中身だけ潰すなんて物理法則が仕事してないじゃない!」
「無理じゃねぇ」
「無理よ!」
「無理じゃねぇ」
「無理だって言ってるでしょ!」
昨日と全く同じ、不毛な押し問答がまた始まった。
後ろでは、サクが引きつった笑顔でぷるぷると肩を震わせ、笑いを必死に堪えている。
一方で、クルスは冗談抜きで難易度が高すぎるその課題に、完全に真顔になっていた。
「先生……頑張ってください。陰ながら応援してます」
「完全に他人事ね、クルス……!」
ゆうこはチェンから、課題である木の実を引ったくるようにして受け取った。
そっと手のひらに乗せてみる。
当然だが、ひどく軽い。外側をコンコンと指先で叩いてみても、硬い殻に阻まれて、どこにどんな風に種が入っているのか、触覚だけでは全く分からない。
だが、ここで引き下がっては女がすたる。やるしかないのだ。
「ふぅ……」
すぅ、と深く息を吸い込み、ゆうこは右手の中心に、小さな圧縮玉を作り出した。
昨日、血の滲むような思いで到達した、あの極小の米粒サイズ。
さらに。
意識の針の先を研ぎ澄ますように、さらに集中する。
圧縮。
圧縮。
脳が焼け付くような感覚を覚えながら、スキルの密度を極限まで高めていく。
そして、その微小な圧力の焦点を、手のひらの上の木の実へとそっと当てた。
ぱきっ。
乾いた不快な音が響き、木の実の外側の殻が、無残にも粉々に砕け散った。
「失敗だ」
チェンの容赦のない即答が飛んでくる。
「ちょっと! 今始めたばっかりよ!? 最初からできるわけないじゃない!」
するとチェンは、持っていた大きな袋を逆さにし、地面に向けて大量の木の実を勢いよくぶちまけた。
ごろごろごろごろごろろ!
乾いた音を立てて、床一面に木の実の山が出現する。
「文句言う暇があるなら、全部やれ」
「えっ……」
「ここにあるやつ、全部だ」
「……ちなみに、これ何個あるの?」
「数えてねぇ」
「そこは数えなさいよ!」
ゆうこのツッコミに対し、チェンはにやりと、どこまでも楽しそうに笑った。
一拍。
チェンは再び、お気に入りのそうめんを肩に担ぎ直す。
そして、どこか遠くを見つめるような、かつてないほど真剣な眼差しでゆうこを見つめた。
「いいか、よく覚えとけ。お前の持つ『圧縮』の本質は、ただの破壊じゃねぇんだよ」
初めて、チェンの口から漏れた、少しだけ真面目で、重みのある声だった。
「圧縮の本質は──『選別』だ」
「選別……?」
ゆうこはその言葉を、自分自身の心に染み込ませるようにして繰り返す。
「そうだ。世界の中に存在する、残すべきものと」
「うん」
「徹底的に潰すべきものを、己の意志で完璧に選ぶ力だ。それがお前のスキルの正体だ」
ゆうこは、自分の手元にある、新しく拾い上げた二個目の木の実をじっと見つめた。
外側の殻を残し。
中の種だけを、ピンポイントで狙い澄まして潰す。
確かに、これまでの自分がやってきた「広範囲をまとめて力任せに押し潰す」という、大雑把な破壊衝動とは、全く真逆の精密なアプローチだった。
これまでの自分がいかに強大な力を無駄遣いしていたか、チェンの言葉によって、ようやく霧が晴れるように理解できた気がした。
チェンはゆうこの目の色が変わったのを見て取り、満足げに笑う。
「おいおい、そんな神妙な顔すんなって。まずは、小難しく考えずに百回失敗しろ」
「百回!? 多くない!?」
「へっ、これだけの量だ。百回じゃ全然足りねぇかもな」
そう言って、チェンは倉庫の隅へと歩いていき、木箱に腰掛けた。
こうして、ゆうこにとっての第一段階──。
《圧縮玉の精度》を巡る。
地味で、過酷で、そして果てしない修行の幕が、静かに切って落とされたのだった。




