第63話『極小の圧縮』
チェンはどっこいしょ、と重い腰を上げるようにして立ち上がった。
そして、値踏みするような鋭い視線を向けながら、ゆうこが着ている純白の白衣を無造作に指差す。
「お前のスキルは?」
唐突な問いかけに、ゆうこは一瞬だけ面食らったものの、すぐに背筋を伸ばして短く答えた。
「圧縮」
その言葉を聞いたチェンは、ふむ、と鼻を鳴らして太い腕を組んだ。
数秒。
沈黙がその場を支配する。チェンは目を閉じ、何かを測るように、あるいは過去の記憶を引っ張り出すように深く考えている。
そして、カッと目を開くと、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「じゃあ試してみろ」
「何を?」
ゆうこは眉を寄せ、チェンの意図を測りかねて問い返す。
「掌に全集中して、お前が作れる、一番小さい圧縮した玉を作ってみろ」
「一番小さい?」
「そうだ。できるだけ小さくだ。限界までやってみろ」
チェンの真剣ともふざけているともつかない態度に、ゆうこは小首を傾げた。
「そんなのでいいの? もっと派手なものを見せなくていいわけ?」
「いいからやれ」
有無を言わせぬその口調は、ゆうこにとってどこか懐かしい響きを含んでいた。
“いいから飲め”
昔言ったような、男たちのあの雑で乱暴な、けれど妙に親しみのある言い回しそのものである。
ゆうこは小さくため息をつくと、観念して右手をすっと前へ突き出した。
すぅ。
ゆうこが意識を集中させた瞬間、周囲の空気が一気に引き寄せられ、彼女の掌の上で小さな渦を巻き始めた。
きゅっ。
きゅうううっ。
目に見えない空気の分子が、ゆうこの魔力によって無理やり一つの点へと押し込められていく。
圧縮。
さらに圧縮。
やがて、強烈な圧力の塊として、手のひらの上に小さな透明の玉が生まれた。
大きさにして、ちょうど子供が遊ぶビー玉くらいだ。
普段の戦闘や作業であれば、この段階で十分に実用レベル、いや、これでいつでも放てる完成形のはずだった。
だが、それを見たチェンは、不満げに首を横に振る。
「でかい」
「え?」
「もっとだ」
「いやいや、これ結構小さわよ? これ以上小さくするなんて普通は──」
「もっと」
チェンの声には一切の妥協がなかった。
「無茶言うわね、本当に……!」
ゆうこは文句を言いつつも、再び意識を右手の中心へと極限まで集中させる。
きゅううううっ。
限界だと思っていたはずの玉が、さらに内側へと縮み始めた。
ビー玉サイズだったものが、瞬く間に角の取れた小石の大きさになり、さらに縮んで豆粒ほどになる。
そこからさらに、目に見えて輪郭が狭まり、今や小さな米粒のサイズにまで追い込まれた。
ゆうこの額に、じわりと熱い汗が滲み始める。
「くっ……」
ただ形を小さくするだけではない。この超高密度に凝縮されたエネルギーを、破裂させずに手のひらの上で維持するだけでも、尋常ではない精神力を摩耗する。
ほんの少しでも気を抜けば、一瞬で暴発して周囲を吹き飛ばしかねない危険な爆弾を弄んでいるようなものだ。
だが、チェンはそんな苦労を知ってか知らずか、まだ満足そうに首を振った。
「まだだ」
「鬼か」
「まだ」
「鬼だわ、間違いないわ」
ゆうこの額から、大粒の汗がぽたぽたと地面へ滲み出る。全身の神経が右手の米粒に集中し、視界がチカチカと明滅しそうだ。
そんなゆうこの必死な様子を見て、傍らにいたサクが楽しそうにケラケラと笑っている。
一方で、クルスはチェンの容赦のないシゴキっぷりに、少し引いた様子で肩をすくめていた。
「師匠タイプになると、あの人急に厳しくなりますね」
「元から変人だったでしょ、あの人」
サクが呆れたように応じる。
二人の暢気な会話を余所に、ゆうこは奥歯をガチガチと音を立てて食いしばる。
さらに圧縮。
さらに、内側へ。
もっと、もっと深くへ──。
やがて。
確かに掌の上にあるはずなのに、もはや肉眼では目を凝らさないと見えないほどの、針の先のような小さな、しかし鋭く輝く光点へと姿を変えた。
「……できた」
ゆうこは酸欠寸前の掠れた声で、ぽつりと呟いた。
それを見たチェンが、ここで初めて、深く満足そうに頷く。
「よし」
「よし? ……合格ってこと?」
「今のお前」
チェンはそこで一拍置き、ニヤリと不敵な笑みを深めた。
「初めて『圧縮』を使ったな」
「は?」
ゆうこは疲労困憊の頭で、その言葉の意味が理解できずに完全に固まった。
「いやいやいや、ちょっと待ちなさいよ。毎日使ってるわよ? これまで何度も、そのスキルで危機を切り抜けてきた」
「違う」
チェンは遮るように即答した。
そして、ゆうこの手の上で今なお健気に輝く、米粒よりもさらに小さな、極小の圧縮玉を指差した。
「今までのお前は」
「うん」
「ただ力任せに、外側から質量を潰してただけだ」
「えっ」
「今初めて」
チェンの目が、鋭い鷹のように細くなる。
「お前は、その中身を感じながら圧縮したんだ」
その指摘を受けた瞬間、ゆうこの表情が劇的に変わった。
言われてみれば、確かに今までの感覚とは全く違っていた。
今までの圧縮は、対象を無理やり押し潰すだけの、いわば粗雑な作業だった。
だが、今の極小の光点を作るプロセスにおいては。
空気の繊細な流れ。
押し込められた分子の密度。
歪んでいく空間の形。
そのすべてを、自分の神経の延長のように克明に意識していたのだ。
チェンは彼女の気付きを読み取り、にやりと満足げに笑った。
「やっぱりな」
そして、チェンは背負っていたそうめんの束を、よっこらしょと肩に担ぎ直した。
「修行するぞ」
「え?」
「お前のその圧縮」
チェンはどこまでも不敵な、自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。
「まだ百倍は強くなる」
ゆうこは疲れた顔のまま、怪訝そうに眉をひそめた。
「百倍は流石に盛りすぎじゃない? そんな漫画みたいな話……」
「盛ってねぇ」
チェンは間髪入れずに即答した。
「今のお前はな、包丁を一度も持ったことがない素人の奴が、最高級の魚を丸ごと一匹ドカンと渡されてる状態だ」
「急に例えが分かりやすいわね」
「しかも、その魚がめちゃくちゃ切れる。触るだけで何でも真っ二つにするような、とんでもねぇ名刀の刃だ」
「怖い」
「でも、お前はその正しい使い方を全く知らねぇ」
「怖いってば」
「だから、周りから見たら宝の持ち腐れで、弱く見えるんだよ」
「なるほど……一理あるのが余計に悔しいわね」
チェンはふぅと息を吐き、呆れたように肩をすくめた。
「スキルの性能、つまりお前が持ってるポテンシャルだけなら申し分ねぇ、十分すぎるほどだ」
「へぇ、そこは褒めてくれるんだ」
「問題は、それを使う側の頭と技術だ」
「言い方!」
「事実だろ」
相変わらず容赦がなかった。チェンのあまりにズバズバとした物言いに、後ろで見ていたサクがとうとう耐えきれずにブハッと吹き出す。
クルスもまた、ゆうこに同情しつつも苦笑いを浮かべるしかなかった。
チェンはしばらくの間、腕を組んで黙り込んでいたが、やがてぽりぽりと気まずそうに自分の頬を掻いた。
ほんの少しだけ、バツが悪そうな、言いにくそうな顔になる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……ウナギ一匹、盗んだ詫びだ」
「あ、やっぱり盗んだ自覚あったのね!?」
「ある」
「あるなら今すぐ返しなさいよ!」
「もう食った。腹の中だ」
その場に、重苦しい沈黙が流れた。
後ろで様子を見ていた工場長までが、言葉を失って無言になる。もしここにナミキがいたら、間違いなく般若の形相で愛用の斧を振り上げ、チェンの脳天目がけて叩きつけているところである。
チェンはふん、とわざとらしい咳払いをして話を強引に戻した。
「だから、その代わりに俺が直々に修行をつけてやるって言ってんだよ」
「ちょっと、それ代わりになってる?」
「なってる」
「なってないと思うんだけど!」
「なってる」
「なってない!」
「なってる」
「小学生か、あんたらは!」
あまりにも幼稚な押し問答に、サクがとうとう腹を抱えて大爆笑し始めた。
しかし、チェンはそんな周囲の反応などどこ吹く風で、全く気に留めない。むしろ、それが世界の真理であるとでも言いたげな、当然のような顔で言葉を続けた。
「それに」
チェンはそこで一拍置き、少しだけ真面目な眼差しをゆうこたちに向けた。
「お前らどうせ、この今いる大陸だけで旅を終わらせるつもりねぇんだろ」
その言葉に、ゆうこ達は思わず顔を見合わせた。
誰も否定はできなかった。
芳醇な香りが漂うワインの国。
まだ見ぬ過酷な蒸留酒大陸。
そして、その先に広がる未知の土地。
あのアルケラが言っていた、この世界に存在する三つの広大な大陸。
自分たちの旅は、まだ始まったばかりなのだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
チェンは皆の表情を見て、満足そうにニカッと笑った。
「なら、今のままの甘っちょろい実力じゃ、到底足りねぇよ」
そして、チェンは足元の床に、なぜか一本だけぽつんと落ちていた乾燥そうめんをひょいと拾い上げた。
ひらり。
まるで名のある剣士が短剣を扱うかのように、器用に指先でそうめんを回す。
「明日の朝だ」
「うん」
「港の東外れにある、古い樽倉庫へ来い」
「そこで本格的に修行をするの?」
「そうだ」
「……具体的に、何をするのよ?」
ゆうこが尋ねると、チェンは底意地の悪いニヤリとした笑みを浮かべた。
そして。
手の中で回していたそうめんを一本。
チェンはゆうこへ向かって、軽いスナップで投げつけた。
ひゅっ。
放たれた白い線に対し、ゆうこは反射的に手を伸ばしてそれを受け取る。
手の中に残ったのは、茹でる前の、どこにでもあるパリパリとした乾いたそうめん。ただの一本だ。少しでも力を入れれば、簡単にポキリと折れてしまう繊細な小麦粉の棒。
それを見た瞬間、チェンが冷徹な声で言った。
「まずは、それを」
一拍。
「お前の『圧縮』の力で、折らずに綺麗に丸めてみせろ」
再び、静まり返るような沈黙が場を支配した。
「……は?」
「だから、折るなよ」
「いやいや、無理でしょ! こんな乾燥した乾麺、曲げようとした瞬間に折れるに決まってるじゃない!」
「無理じゃねぇ」
「無理よ!」
「無理じゃねぇ」
「絶対無理!!」
ゆうこが声を大にして抗議するが、チェンはただ不敵に笑うばかりだった。
「とりあえず、やってみろ。話はそれからだ」
そう言い残したチェンの顔は。
かつて凶悪な魔物、フォーム・ハウンドの親玉と命がけで向き合っていた時よりも。
どこか、子供のように楽しそうだった。




