第62話『戦い方を知らねぇだけだ』
展開された無数のそうめんが、一斉に、かつてない効率で周囲の酒気を吸い取り始めた。
じゅうううううううううっ!!
体内のエネルギーを根こそぎ奪われ、アルファが天を仰いで悲鳴を上げる。
しゅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!
どれだけ合体しようとも、この乾麺の網からは逃れられない。膨大な酒気、そしてそれを構成していた膨大な泡。
その全てが、飢えた獣のように水分と魔力を貪るそうめんへと、濁流のごとく吸われていく。
中心核を失い、怪物の身体が目に見えて縮む。
縮む。
さらに縮む。
そして、吸い尽くされた限界の限界を迎えた。
パァァァァン!!
限界まで張り詰めた風船が破裂するように、巨大な泡が派手に弾け飛んだ。
まるで激しい雨のように、工場中へ無害な泡の残骸が降り注いでいく。
後に残されたのは、完全な静寂。
そして。
天井の梁に引っかかっていたのか、
ぼとっ。
という情けない音と共に、チェンが上から落ちてきた。
彼はしなやかに猫のように床へ着地する。
ふらっ。
ふらっ。
着地したものの、その足取りは相変わらずの酔っ払いそのものだった。
しかし。
その背姿は、紛れもない勝者のそれであった。
肩へそうめん束を再び担ぎ直しながら、チェンは振り返り、ニヤリと不敵に笑う。
「そうめんはな」
一拍。
たっぷりと思わせぶりなタメを作ってから、彼は言い放った。
「乾燥してるから強いんだ」
「絶対違うだろ」
その台無しなドヤ顔に対して、ゆうこが即座に、容赦のないツッコミを突き刺した。
チェンは特に悪びれる様子もなく、大げさに肩をすくめてみせた。
「細かいことは気にすんな」
「細かくないのよ」
「俺もそう思います」
ゆうこの真っ当な抗議に、呆れ顔のクルスも深く頷いて同意する。
だが。
そんな若者たちのコミカルなやり取りの中で、工場長だけは笑わなかった。
ただ静かに。
畏怖と感謝の入り混じった複雑な眼差しで、チェンの後ろ姿を見つめていた。
首領を失ったフォーム・ハウンドの群れは、すでに戦意を喪失し、ただの泡へと戻り始めて消えていく。
激戦が終わり、静まり返った工場内に残されているのは、
無惨に割れた木樽と。
その周囲に散らばった無数のそうめん。
そして。
肌を刺すような、熱い戦いの余韻だけだった。
工場長はゆっくりと、構えていた大斧を床へと下ろす。
場を支配する、重い沈黙。
やがて彼の硬い喉から、地を這うような低い声が響いた。
「……助かった」
予想外の素直な言葉に、チェンが片方の眉を怪訝そうに上げる。
「ん?」
「工場も」
工場長は、自分の人生そのものである大切な工場内をゆっくりと見回した。
「社員も」
そして。
奥にある頑丈なガラスケースの中、厳重に保管されている一本の瓶ビールへ視線を落とす。
「こいつもな」
向けられた心からの感謝に対して、チェンは調子が狂ったのか、少し困ったような、バツの悪そうな顔をした。
「別に」
「礼を言わせろ」
工場長は毅然とした態度で、その大きな頭を深く下げた。
その光景を見て、ゆうこ達が驚きのあまり目を丸くした。
この一帯で工場長ほどの地位にあり、頑固で通っている男が。
多くの部下たちの目の前で。
こんなにも素直に、他者に対して頭を下げるとは。
彼らにとって、それがどれだけ珍しく、あり得ないことなのかは、周囲の社員たちのどよめきが証明していた。
チェンは居心地の悪さを誤魔化すように、無造作に頭を掻いた。
ぽりぽり。
普段の余裕に満ちた態度が嘘のように、なんだか酷く居心地が悪そうだ。
「やめろよ」
「なぜだ」
「そういうの苦手んだよ」
「そうか」
「あと」
チェンは足元、床に落ちていた乾いたそうめんを一本、指先で拾い上げる。
それを工場長に向けて、ひらひらと軽薄に振ってみせた。
「俺は善人じゃねぇ」
「知ってる」
「そうめんも盗む」
「知ってる」
「ウナギも盗む」
「知ってる」
「だったら感謝される筋合いは――」
これまでの余罪を並べ立てるチェンの言葉を、工場長が強い声で遮った。
「ある」
遮られたチェンが、珍しく言葉を失って黙り込む。
工場長の瞳は、どこまでも真っ直ぐにチェンを射抜いていた。不器用だが、一切の嘘を排除した大人の眼差しだった。
「人が何を盗んだかじゃない」
彼はどっしりとした足取りで、一歩前へ出る。
「今、何を守ったかだ」
その場の空気は静かだった。
だが。
紡がれたその言葉の重みは、妙にずっしりと一同の胸に響いた。
その言葉を受け、チェンの張り付いたような笑みが、ほんの少しだけ硬直する。
ゆうこは、彼のその横顔をじっと見つめていた。
そこに浮かんでいたのは、いつもの軽薄で人を食ったような顔ではない。
どこか。
自分の正しい居場所を見失ってしまった、迷子の子供みたいな、ひどくもろい顔だった。
工場長は、チェンの心の動揺に気づいてか気づかずか、そのまま言葉を続ける。
「だから礼を言う」
そして。
もう一度だけ。
先ほどよりもさらに深く、敬意を込めて頭を下げた。
「ありがとう」
チェンはしばらくの間、何も言わずにただ佇んでいた。
やがて。
観念したように、ふっと鼻で自嘲気味に笑う。
「……変な国だな」
「ビールの国だからな」
工場長が、それが当然であると言わんばかりに真面目な顔で答えた。
「何でもビールで説明するのやめろ」
ゆうこが呆れたように突っ込みを入れる。
その瞬間。
それまで固唾を呑んで見守っていた周囲の社員達が、一斉に吹き出した。
工場内を包んでいた張り詰めた空気が、その笑い声によって一気に緩んでいく。
誰かが笑い。
それに釣られて、また誰かが声を上げて笑う。
頑固一徹だった工場長も。
周囲の笑い声に誘われるように、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
(……マリーも、きっと喜ぶ)
ガラスケースの中の瓶ビールを見つめながら、工場長が愛おしそうに小さく呟く。
その、誰の耳にも留まらないはずだった呟きに。
チェンだけが。
ほんの一瞬だけ、悲しげに目を伏せたのを、誰も気づかなかった。
やがて、社員達の温かい笑い声が少しずつ落ち着いていく。
緊張から解放された工場長も、ようやく肩の力を抜いた。
戦い抜いたサクは、近くにあった頑丈な樽へとよっこらしょと腰掛ける。
一方、クルスはまだ激しい戦闘の肉体的・精神的な疲労が抜けないのか、床へへたり込んだままだ。
そして。
ゆうこは、少し離れた場所にいるチェンへと視線を向けた。
彼は地べたに直接座り込み。
先ほどの激しい戦いで無惨に切れてしまったそうめんの破片を、一本ずつ丁寧に集めていた。
その背中はひどく地味だ。
さっきまで、あの恐るべきフォーム・ハウンドの親玉を圧倒的な技で葬り去った男とは思えないくらい、今の彼はあまりにも地味で、どこか情けなくもあった。
一本。
また一本。
彼は職人のような真面目な顔つきで、散らばった麺を回収している。
「何してるの?」
その奇妙な行動が気になり、ゆうこが尋ねる。
「食う」
「食うの!?」
「もったいねぇだろ」
「そこは普通なのね……」
チェンはそれが世界の真理であるかのように、当然の顔をしてそうめんを束ね直した。
そのどこまでもマイペースな姿を見ながら。
ゆうこは胸の奥から湧き上がった感情を、ぽつりと静かに呟く。
「私さ」
「ん?」
「最近思うんだけど」
「うん」
「患者は助けられるのよ」
チェンの、そうめんを拾う手がピタリと止まる。
彼女の言葉に、静かに耳を傾けるように。ゆうこは自身の内省を打ち明けるように続けた。
「怪我も診られる」
「うん」
「病気も分かる」
「うん」
「でも戦いになると、まだ全然なのよね」
それは、自身の無力さを噛み締めるような、静かで、どこか寂しげな声だった。
その告白を、工場長もまた、何も言わずに黙って厳粛に聞いている。
これまでの過酷な旅の記憶。凶暴なフォーム・ハウンドとの死闘。正体不明のクラゲとの遭遇。
思い返せば。
自分たちはいつも、誰かに助けられる場面が少なくなかった。医療の知識はあっても、この暴力が支配する世界では、それだけでは足りないのではないか。
ゆうこの隣で。
同じように旅の過酷さを味わってきたクルスも、身につまされるように深く頷いた。
「まあ先生は後衛ですし」
「それにしてもよ」
ゆうこは自嘲気味に苦笑した。
「今回のフォーム・ハウンド戦も」
「うん」
「チェンが来なかったら危なかった」
いつもは辛口なサクも、今回ばかりは珍しく彼女の言葉を否定しなかった。
「それは事実ね」
自分たちの力不足を突きつけられ、場に少しだけ重い空気が流れかける。
だが。
そんな沈みかけた空気を切り裂くように、チェンは。
ふっ、と可笑しそうに笑った。
「違うな」
「え?」
予想外の否定をされ、ゆうこが驚いて顔を上げる。
チェンは拾い集めて綺麗に束ねたそうめんを、再び愛用の武器のように肩へ担いだ。
「お前は弱いんじゃねえ」
「?」
「戦い方を知らねぇだけだ」
その言葉の真意が掴めず、ゆうこは不思議そうに首を傾げる。
「違うの?」
「全然違う」
チェンは迷うことなく即答した。
その真っ直ぐな目には、一切の迷いも曇りもなかった。
まるで。
最初から彼女たちが進むべき未来の答えが、彼にだけははっきりと見えているみたいに。




