第61話『千条乾麺流奥義・千麺封酒陣(センメンフウシュジン)』
ぶくり。
静まり返った醸造工場の奥底から、不気味な破裂音が響いた。
ぶくり。
それは群れの奥深く、暗がりに潜む巨大な影から発せられていた。
周囲を取り囲む通常のフォーム・ハウンドたちと比較しても、その体躯は優に二倍、いや三倍はある。明らかに異質な、圧倒的な質量を持った巨大な影がそこにあった。
その輪郭を目撃した瞬間、工場長の顔色がいっぺんに変わる。額から冷や汗を流し、その場に縫い付けられたように硬直していた。
「まずい」
「何?」
「親玉だ」
工場長の震える呟きに応じたゆうこの声も、緊張に強張っている。その場にいる全員が息を呑んだ瞬間、工場の空気が物理的な質量を持ったかのように、ずっしりと重くなった。
そして、その巨大な泡の塊の中心で。蠢く粘液の奥底で、ゆっくりと、何かが胎動を始める。
二つの赤い瞳が開いた。
それは獲物を冷酷に見据える、血のような真紅の輝きだった。
ぶくり。
ぶくり。
主の目覚めに呼応するように、巨大な泡が不気味にドクドクと脈打つ。
あるいはそれは、巨大な心臓の鼓動そのもののようでもあった。
そして。
粘着質な音を立てながら、怪物がゆっくりと姿を現した。
それは通常のフォーム・ハウンドの三倍はあろうかという巨体であり、見る者を圧倒する。
全身を覆う泡は、通常の個体のような白さではなく、酷く濁った黄金色に変色していた。
その半透明な身体の内側では、圧縮された大量の酒気が、まるで荒れ狂う嵐のように渦を巻いている。
その禍々しい姿は、生き物というよりも、それ自体が自律して動き出した巨大な発酵タンクそのものだった。
圧倒的なプレッシャーを前にして、工場長が完全に顔を引きつらせる。その唇から、絶望的な名前が漏れ出た。
「……フォーム・アルファ」
「名前あるの!?」
クルスが裏返った声で叫ぶ。その驚愕が引き金となったかのように、次の瞬間、動きがあった。
不気味に蠢くアルファが、その巨大な口を大きく開いた。
しゅうううううううううっ!!!
鼓膜を刺すような重低音とともに、口内から凄まじい勢いで酒気の嵐が噴出される。
それは瞬く間に広がり、工場中の視界を真っ白な霧で包み込んでいった。濃密なアルコールの臭気が鼻腔を突き刺す。
「まずい!」
ゆうこが危機感を露わにして叫ぶ。
その声を合図に、サクが瞬時に動いた。彼女は自身の能力を完全に解放し、目の前にガラスバリケードを展開する。
ぱきん、と硬質な音を立てて出現した透明な壁。それは物理的な衝撃を防ぐための強固な盾であった。
だが容赦なく押し寄せる酒気は、微細な隙間から、まるで生き物のように滑り込んでくる。
くらり。
あまりにも濃密なアルコール成分を含んだ霧を吸い込み、クルスの視界が大きく揺れた。平衡感覚が急速に失われていく。
隣に立つ工場長の足元も、がくがくと目に見えてふらつき始めていた。周囲を取り囲むフォーム・ハウンド達が、人間のその様子を見て勝ち誇ったように、あるいは嘲笑うように低く唸り声を上げる。
標的を酔わせて。
まともな認識能力を奪う。
それこそが、この怪物たちの狡猾にして確実な狩り方だった。戦う意志そのものを奪い去る、最悪のハメ技。
その絶望的な濃霧の中で。
ただ一人だけ。
激しくふらつきながらも、不敵に笑っている男がいた。
乾麺を愛し、乾麺に生きる男、チェンだ。
「はは」
ふらっ。
ふらっ。
千鳥足というにはあまりにも危なっかしい、まるで今にもそのまま床へ転びそうな足取りで、彼は霧の中をふらついている。
その尋常ではない様子を見て、クルスが顔を青ざめさせた。
「酔ってる!?」
そんな仲間の心配をよそに、チェンは愉快そうに笑った。その瞳は据わっているようでいて、奥底には冷徹な光が宿っている。
「当たり前だろ」
ぐるり。
彼は独楽のように、妙なしなやかさで身体をその場で回転させた。遠心力を利用して、千鳥足の軌道を無理やり攻撃の予備動作へと変換していく。
「千条乾麺流だからな」
その不敵な宣言の次の瞬間、フォーム・アルファが獰猛に飛びかかった。
どばぁっ!!
凄まじい風圧とともに、濁った黄金色の巨大な泡の塊がチェン目掛けて迫る。その質量に押し潰されれば、ただでは済まない。
しかし。
激しい衝撃音が響いたその場所に、チェンの姿はすでになかった。
「え?」
あまりの展開の早さに、クルスが驚愕のあまり目を見開く。
いた。
それは、飛びかかったアルファの真横の死角だった。
残像すら残さない速度。いつその場所へ移動したのか、その場にいる誰の目にも見えなかった。
完全に敵の意識の外に回り込んだチェンは、流れるような動作で懐からそうめん束を抜き出す。
ぱしっ。
一本。
また一本。
さらに一本。
彼は洗練された手つきで、乾燥したそうめんを素早く指の間に挟み込んでいく。
それはまるで、暗殺者がクナイを構えるかのような、あるいは熟練の武芸者が武器を誇示するかのような様式美があった。
「千条乾麺流」
ふらり。
またしても身体が不自然に大きく揺れる。軸がブレているようでいて、その実、全ての力が指先に集中していく。
次の瞬間、彼の腕の残像すら消えた。
「白糸一閃!!」
――バシィィィィン!!
鋭い破裂音と共に、白いそうめんが空中を一直線に走る。
それは、あらゆるものを貫く鋭利な槍そのものだった。
超高速で放たれたそうめん束が、アルファの黄金色の泡へ容赦なく突き刺さる。
じゅうううっ!!
触れた瞬間、激しい熱を帯びたような音が響き、アルファの身体を満たしていた濃密な酒気が、凄まじい勢いでそうめんに吸い取られていく。
内部のエネルギーを奪われ、アルファが苦しそうにその巨体を激しく震わせた。
「効いてる!」
その確かな手応えを見て、サクが歓喜の声を上げる。
だが。
敵であるアルファのサイズはあまりにも巨大だった。
削られたそばから、ドロドロとした泡が急速に再生していく。
突き刺さったそうめんを体外へと強引に押し出しながら、黄金色の質量が再び何倍にも膨れ上がっていく。その圧倒的な復元力を前に、チェンはチッと忌々しそうに舌打ちした。
「デカすぎるか」
攻撃の手応えに対して絶対的な体積が足りない。そう判断したチェンが見守る中、アルファが怒り狂ったように吠えた。
しゅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
その咆哮に応じるように、周囲に控えていた通常のフォーム・ハウンド達が一斉に動き出す。彼らは主への忠誠を示すように、自ら進んでその身体に融け込んでいく。
泡。
泡。
泡。
無数の泡の個体すべてが、磁石に引き寄せられる鉄屑のように、中央の親玉へと流れ込んでいく。
個体を取り込むたびに、アルファの身体がさらに膨れ上がり、凶悪に巨大化していく。その絶望的な光景に、クルスが頭を抱えて叫んだ。
「合体したァァァ!?」
「最悪ね!」
ゆうこも激しい嫌悪感を露わにして顔をしかめる。もはや一介の怪物という規模を超え、小山のような質量と化した敵を前に、誰もが絶望しかけた。
その時だった。
背中を向けていたチェンが、不敵に笑った。
にやり。
その口元が、吊り上がる。
「そうか」
「何が?」
「集まるのか」
チェンは手元に残ったそうめん束を、まるでこれから大仕事に向かう職人のように、ひょいと軽がると肩へ担いだ。
そして。
相変わらず酔ったように左右へふらつきながらも、その足元は確かに、巨大化したアルファへ向かって歩き始めていた。
一歩。
二歩。
三歩。
その歩調は奇妙なリズムを刻んでおり、まるで死線の上で踊る踊り子のようでもあった。
目の前に近づく獲物を仕留めるべく、フォーム・アルファが狂暴に飛びかかる。
迫る、巨大な牙。
視界を埋め尽くす、圧倒的な黄金の泡。
その圧倒的な破壊力を前に、背後で見守る誰もが、チェンが完全に飲み込まれて潰されると思った。
だが。
チェンは回避行動を一切取らなかった。
自ら、その巨大な質量の中へと飛び込んだのだ。
「なっ!?」
どばぁぁぁん!!
鈍い衝撃音と共に、チェンの姿が黄金の泡の中へ完全に消え去る。
あまりにも無謀なその特攻に、クルスが悲痛な叫び声をあげた。
「食われたァァァ!!」
現場を支配するのは、張り詰めた沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
時間は永遠のようにも思えた。
そして。
完全に静止したかに見えた泡の内部、その中心点で。
何かが、目も眩むような鋭い光を放った。
次の瞬間。
爆発的な勢いで、内部から無数の白いそうめんが飛び出した。
ざざざざざざざざざざっ!!!
「!?」
誰もが言葉を失う。
アルファの巨大な身体のあちこちを突き破り、まるで意思を持つ無数の槍となったそうめんが、その縦横無尽に肉体を縫い取っていく。
縛る。
貫く。
絡め取る。
それは一本一本が緻密に計算された配置であり、まるで巨獣を捕らえるための、巨大な白い網のようだった。
そして、籠ったチェンの声が、内側から響き渡る。
「奥義――」
その威厳ある声に震えるように、アルファの全身の泡が激しく波打つ。
「千麺封酒陣!!」




