第60話『千条乾麺流・白龍鞭(センジョウカンメンリュウ・ハクリュウベン)』
絶望に染まりかけた工場の静寂を破り、側面の大きな窓ガラスが凄まじい衝撃と共に破壊された。
――ガシャァァァン!!
派手な音を立てて木っ端微塵に砕け散るガラス片。
「!?」
全員が息を呑み、一斉にその方向へと振り向く。
光を反射する硝子の破片が舞い散る中、窓から鮮やかに飛び込んできた一つの影があった。
ひゅるるるるっ!!
鋭い風切り音を立てながら、何か細長い物体が空中を猛烈な速度で回転しながら飛来する。
次の瞬間。
どすっ!!
鈍く重い音が響き、それは先頭にいた一匹のフォーム・ハウンドの脳天へと寸分の狂いもなく突き刺さった。
弾ける泡。急所を貫かれた狼は、まともな声をあげることもできず、そのまま激しく後方へと吹き飛んで消滅した。
「なっ!?」
想定外の乱入者に、あの冷静なゆうこすら驚愕のあまり目を見開く。
驚くべきは、その威力だけではなかった。その倒された狼の頭部に、未だに深く突き刺さっていた「それ」の正体を目にした一同は、完全に思考を停止させた。
突き刺さっていたのは――木箱から取り出したばかりのような、真っ直ぐな、乾燥そうめんだった。
工場内に、奇妙な沈黙が流れる。誰もが目の前の光景を信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……は?」
最初に正気を取り戻したクルスが、間抜けな声を漏らした。
そして、割れた窓枠の上に、月光を背に受けて悠然と立つ人影があった。
細身の体躯。手入れのされていないボサボサの髪。どこか世間を舐め腐ったような、ヒョウヒョウとした締まりのない目つき。
しかし、その背中には、およそ戦場には似つかわしくない大量のそうめんの束が、まるで矢筒のように背負われている。
男は全員の視線を浴びながら、にやりと不敵に笑った。
「よう」
その顔、その声、その特異な装備を見た瞬間、ゆうこのこめかみにピキリと鮮やかな青筋が浮かび上がった。
「チェン……」
そう、そこに現れたのは、かつて彼女たちを大いに大迷惑な騒動に巻き込んだ、あの悪名高き「そうめん泥棒チェン」だった。
チェンはゆうこの殺気を含んだ視線を意に介さず、ひらひらと軽い調子で手を振る。
「また会ったな、お嬢さん方」
「会いたくなかったわよ、死ぬほどね」
ゆうこが地獄の底から響くような声で吐き捨てる。
「ひどいなぁ、せっかく助っ人に来てやったっていうのにさ」
チェンはおどけたように肩をすくめた。
その暢気なやり取りを不快に思ったのか、周囲を取り囲むフォーム・ハウンド達が、低い唸り声をあげて威嚇する。
だが、チェンは全く動じる気配を見せない。むしろ、群れをなす狼達を眺め、興味深そうに片方の眉を上げた。
「おっと、こいつらは……」
「ちょっと、あんたこいつらの正体を知ってるの!?」
サクがすかさず尋ねる。
チェンは当然と言わんばかりに深く頷いた。
「知ってるも何も、語るまでもないさ」
一拍おいて、彼は大真面目な顔で告げた。
「俺の商売敵だ」
「意味が分からない」
即座に、1ミリの慈悲もなくゆうこがその発言を切り捨てた。
チェンは気にすることなく、背中の束からそうめんを器用に一本だけ取り出す。
くるり。
指先で軽快にそれを回しながら、手元で弄ぶ。
「いいか、こいつらな」
彼はそうめんの先端で、威嚇してくるフォーム・ハウンドを指差した。
「発酵倉庫を荒らす」
「うん」
ゆうこが冷たく相槌を打つ。
「そうめん蔵も荒らす」
「うん?……ちょっと待ちなさい」
「だから俺はこいつらが大嫌いなんだよ」
「理由が極限まで小さいわよ、このバカ!」
ゆうこのツッコミが炸裂するが、チェンはどこまでも大真面目な真顔のままだった。
「馬鹿言うな、俺にとっては死活問題だ。そうめんを脅かす奴は全員敵だろ」
その時、チェンの隙を突いて、一匹のフォーム・ハウンドが猛然と飛びかかった。
ぶわっ!!
視界を埋め尽くすほどの濃厚な泡の塊がチェンに迫る。だが、チェンは全く動じない。
すっ、と流れるような動作で腰を深く落とし、戦闘態勢へと移行する。そして、背負っていた大量のそうめんを、その逞しい両手で豪快に握り締めた。
「《千条乾麺流・白龍鞭》!!」
「あ、これまた嫌な予感しかしないタイプの技だわ」
ゆうこが半目になりながら呆れたように呟く。
しかし、次の瞬間、チェンの両腕が残像を残すほどの速度で振るわれた。
――ビシィィィィッ!!
驚くべきことに、本来は硬く脆いはずの乾燥そうめんが、まるで熟練の鞭使いが操る鋼鉄の鞭のようにしなり、空間を激しく叩き割ったのだ。
放たれた無数の打撃が、迫り来るフォーム・ハウンドへと正確無比に直撃する。
ばしゃぁっ!!
激しい音と共に、狼の肉体が粉々に砕け散り、ただの泡へと還る。さらにチェンは攻撃の手を緩めない。
霧散し、再び集まろうとするその泡の群れに向けて、容赦なく無数のそうめんを容赦なく投擲し、突き刺していった。
ざざざざざっ!!
驚くべきことに、そうめんが突き刺さった瞬間、フォーム・ハウンドの最大の強みであった「泡の再集合」のプロセスが、ピタリと完全に停止したのだ。
「え……? 嘘だろ……?」
その光景を目の当たりにした工場長が、本日何度目か分からない驚きで目を見開く。
チェンはニカッと白い歯を見せて得意げに笑った。
「簡単な理屈さ。乾燥麺ってのはな、周囲の水分を限界まで吸い上げる性質があるんだよ」
チェンの言葉通り、狼を構成していた泡が、そして周囲に充満していた有害な酒気が、突き刺さったそうめんへと掃除機のように凄まじい勢いで吸い込まれていく。
水分を吸ったそうめんが、見る見るうちに柔らかく変化していくのが分かった。
フォーム・ハウンドは自らの核となる水分と魔力を奪われ、苦しそうにその身体を激しく震わせている。
「だから、水分と泡の塊であるこいつらには、俺の乾燥麺が絶大な効果を発揮するってわけだ」
その完璧なロジックを目の当たりにし、ゆうこが思わず納得の声を漏らす。
「なるほど……まさか、そんな単純な物理法則が特効になるなんてね……」
横で見ていたサクは、あまりのシュールさと戦闘の鮮やかさに耐えかねたのか、ついにぷっと激しく吹き出した。
「ちょっと何よそれ! あんなに苦戦したのに! これじゃそうめん泥棒じゃなくて、ただの対フォーム・ハウンドの専門家じゃないの!」
チェンは我が意を得たりとばかりに、大袈裟に得意げなポーズで胸を張る。
「おいおい、人聞きが悪いな。俺の正式名称は『そうめん冒険家』だ。覚えておきな!」
「そんな名前、誰も呼んでないし、これからも呼ばないでしょ!」
サクの鋭い正論のツッコミが響き渡る。
しかし、彼らがそんなコミカルなやり取りを交わした、まさにその時だった。
戦況の打破を嘲笑うかのように、工場のさらに深い、本当の最奥から、これまでのものとは次元の違う、巨大な泡の塊がゆっくりと膨れ上がり始めたのだった――。




