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第59話『絶望は、群れでやってくる』

 次の瞬間だった。


 泡狼――フォーム・ハウンドが、まるで爆発するかのように鋭く動いた。


 ――ぶわっ!!


 凄まじい音を立てて、その泡で構成された身体が四方へと激しく弾け飛ぶ。いや、それは違う。周囲にいた誰もが「霧散した」と錯覚した。


 だが、ゆうこ達の目は騙せない。それは散ったのではない。常軌を逸した速度で「加速」したのだ。


 「速っ!?」


 クルスが裏返った声を上げて叫ぶ。しかし、彼がその驚愕を口にした時には、すでに手遅れだった。


 視認した瞬間にはもう、フォーム・ハウンドの不気味な輪郭は、前線に立つ工場長の目の前、まさに鼻先と呼べるゼロ距離まで肉薄していたのである。


 がちんっ!!


 空気を切り裂く重低音が響き、工場長の手元から巨大な斧が鋭く振り下ろされた。長年の経験に裏打ちされた、容赦のない確実な一撃。まともに喰らえばいかなる魔物も両断されるであろう一閃だった。


 だが、その刃が触れるよりも早く、狼の肉体は再びシュワシュワと白い泡になって霧散した。


 ずしゃああっ!!


 手応えのないまま、巨大な斧だけが虚しく工場の頑丈な床を直撃し、激しい火花とともにコンクリートを砕き割る。重い一撃を外した工場長の身体に、わずかな隙が生じた。


 「消えた!?」


 標的を見失ったクルスが周囲をキョロキョロと見回しながら戦慄する。


 「違う!」


 即座に工場長が声を大にして叫び、鋭い視線を頭上へと向けた。


 「来るぞ、上だ!!」


 飛び散ったはずの無数の泡が、意思を持っているかのように猛烈な勢いで空中に再集合していく。


 しゅわぁぁぁ……という、不気味でありながらどこか心地よい炭酸の音が静まり返った工場内に響き渡る。泡は瞬く間に質量を増し、再び獰猛な四足獣――狼の形を完璧に取り戻した。


 そして、今度はその大きく裂けた顎を開く。

 しゅううううううっ!!


 勢いよく吐き出されたのは、視界を白く染め上げる濃密な炭酸霧だった。ただの霧ではない。それはツンと鼻を突く、濃厚な酒気を含んだ最悪の息吹ブレスだった。


 「吸うな!!」


 工場長の地を這うような怒号が飛ぶ。

 その警告に反応し、ゆうこ達は反射的に衣服の袖や手で自身の口元を強く押さえた。


 しかし、ほんの少しだけ、本当に一瞬の油断だった。戦闘に慣れていないクルスが、その白い霧を肺の奥へと吸い込んでしまう。


 「げほっ――」


 激しく咳き込んだクルスの視界が、まるで強い酒を一気に煽ったかのようにぐにゃりと歪み、世界が激しく揺れ動いた。


 その混濁した視界の中で、信じられないことが起こる。目の前にいたはずの狼の輪郭が、急速にぼやけて消えていくのだ。


 「え……?」


 クルスは困惑の声を漏らした。確かにそこにいる。殺気も気配も、そこに存在するはずなのに、どうしても目が焦点を結ばない。


 見えない。頭がそれを敵だと認識できないのだ。酒気による強烈な認識阻害。それがフォーム・ハウンドの真の恐ろしさだった。


 「な、なんだこれ……視界が……身体が動かないっ……!?」


 死の恐怖が脳裏を過り、クルスの背筋が瞬時に凍りつく。


 フォーム・ハウンドという冷酷な捕食者は、獲物が見せたそんな致命的な隙を絶対に見逃さなかった。狂暴な赤い瞳をギラつかせ、今度は明確に床を力強く蹴った。


 狙いは一つ。一直線に、身動きの取れないクルスの無防備な喉元へと牙を突き立てるために跳躍する。


 「クルス!!」


 背後からサクが鋭く叫びながら、電光石火の速さで指をパチンと鳴らした。


 「硝酒鎖ガラスチェイン!!」


 カシャァァン!!


 きらびやかな破砕音とともに、空中を縦横無尽に走る透明なガラスの鎖が出現した。それは目にも留まらぬ速さで突き進み、空中を跳ぶ狼の胴体へと正確に直撃する。これで止まるはず――誰もがそう思った。


 だが。

 ばしゃぁっ!!


 激しい音を立てて、魔物はまたしても実体を失い、ただの泡へと変化した。物理的な攻撃だけでなく、魔力で編まれた鎖さえも、その隙間をすり抜けるようにして虚空を通過していく。


 「厄介すぎるでしょ、こいつ!?」


 渾身の魔術をスカされたサクが、忌々しげにチッと大きく舌打ちした。


 一方で、ゆうこは一歩も引くことなく、冷徹な目でその狼の動向をじっと睨みつけていた。


 彼女の天才的な頭脳が、これまでの攻防のデータを冷徹に観察し、分析していく。


 ――泡。

 ――再生。

 ――酒気。

 ――認識阻害。

 ――そして、再集合。


 バラバラのピースが、ゆうこの頭の中で一つの線へと繋がっていく。


 「……なるほど」


 ゆうこの美しい目が、獲物を捉えたように妖しく細くなった。


 「倒せないんじゃない」


 その呟きを聞きつけ、焦燥に駆られていた工場長が勢いよく振り返る。


 「何? どういうことだ、お嬢ちゃん!」


 「形を維持できなくなればいいのよ。物理的な破壊が効かないなら、その構成を根本から崩せばいい」


 ゆうこが確信に満ちた声をあげたその時だった。彼女たちの足元から、小さな影が勇敢にも飛び出した。


 ぷるんっ!!

 「しゅわぁぁ!!」


 可愛い声を響かせながら突撃したのは、しゅわ丸だった。しゅわ丸は小さな身体を精一杯に弾ませ、獰猛なフォーム・ハウンドの巨躯へと容赦なく体当たりを敢行する。


 ばしゃっ!!

 炭酸の泡と泡が、激しい音を立てて正面から衝突した。


 すると、どうだろうか。これまでどんな攻撃を受けても無傷だった狼の身体が、一瞬だけ、確かにボロボロと崩れ落ちたのだ。


 「しゅわ?」


 当のしゅわ丸自身も予想以上の手応えだったのか、小首を傾げて不思議そうにしている。

 しかし、その一瞬の異変を、ゆうこの鋭い目が逃すはずはなかった。彼女の瞳が勝利を確信してらんらんと輝く。


 「今よ!」


 「ちょっとゆうこ、何が分かったのよ!?」


 サクが尋ねる中、ゆうこは人差し指を突きつけて叫んだ。


 「泡同士なら、お互いの存在に直接干渉できる! 普通の攻撃がすり抜けるのは、私たちが『泡』じゃないからよ!」


 フォーム・ハウンドは危機を察知したのか、崩れた身体を再び高速で元の形へ戻そうと激しく、うごめき始める。


 だが、それを許すしゅわ丸ではなかった。好機と見た小さな身体で、再び狼の傷口へと勢いよく飛びつく。


 ぷるるるるっ!!


 しゅわ丸は信じられないほどの吸引力で、狼を構成している炭酸の泡を凄まじい勢いでダイレクトに吸い込み始めたのだ。


 「しゅわぁぁぁぁ!!」


 これまで無機質だったフォーム・ハウンドが、初めて明確な苦痛、そして悲鳴のような甲高い音を工場内に響かせる。


 その劇的な光景を目撃した瞬間、工場長の頑固そうな顔色がガラリと変わった。


 それは驚きであり、そして――彼が何十年もの間、この暗い工場で追い求め続けてきた、決して届かなかったはずの「希望」の光そのものだった。


 「……効いてる」


 工場長は、自身の震える唇から漏れ出た言葉を噛み締めるように低く呟いた。


 「初めてだ……」


 彼の大きな手の中で、年季の入った斧を握る拳に、かつてないほどの凄まじい力が漲っていく。


 「初めて奴らに、攻撃が効いてるぞ……!」


 しゅわ丸の予想外の猛攻を受け、フォーム・ハウンドは本能的な恐怖を感じたのか、たじろぎながら後退した。


 一歩。

 二歩。


 その不気味な赤い瞳が、自分より遥かに小さな存在であるしゅわ丸を怯えたように見つめている。まるで、生まれて初めて「死」という恐怖を覚えたかのように。


 しかし、戦況が好転したと思ったのも束の間だった。工場のさらに深い闇に包まれた奥の方から、不穏な音が這い寄ってきた。


 しゅわぁぁぁ……


 先ほどの個体とは比較にならないほど重厚で、かつ圧倒的な数の炭酸音が、地鳴りのように響き渡る。


 サクの顔からみるみる血の気が引き、表情を引きつらせた。


 「……ねえ、これって」


 クルスも完全に青ざめ、ガチガチと歯を鳴らしながら呟く。


 「嫌な予感しかしないんですけど……!」


 暗い廊下の奥。光の届かない完全な暗闇の中で、不気味な音が連続する。


 ぶくり。

 ぶくり。

 ぶくり。


 視覚化された絶望のように、無数の泡が次々と浮かび上がってきた。

 工場長が苦渋に満ちた表情で唇を強く噛み締める。


 「まずい……」


 ゆうこが小さく眉をひそめ、冷徹に問いかけた。

 「何がまずいの?」


 工場長は、恐怖でかすれる声を絞り出すようにして答えた。


 「群れだ……フォーム・ハウンドという魔物は……本来、単体ではなく群れで現れる生態を持っている……!」


 彼の言葉を裏付けるように、暗闇の中で赤い瞳が次々と見開かれていく。


 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。


 五つ――いや、それどころではない。


 十、二十と、数え切れないほどの紅蓮の光が、暗闇の中で次々と灯っていく。それはまるで、工場の夜そのものに無数の命と目が生えたかのような、圧倒的でおぞましい光景だった。


 クルスの顔が完全に崩壊し、絶叫に近い声をあげる。


 「無理無理無理無理!! あんな数、勝てるわけないじゃん!!」


 サクもまた、額にじっとりと冷や汗を浮かべながら、必死に魔術の構成を練り直そうとするが、その手は微かに震えていた。


 「ちょっと……さすがに数が多すぎるわね……!」


 工場長が再び決意を固めたように斧を構える。だが、その老練な表情には隠しきれない焦燥と諦念が混じっていた。


 今まで何十年もたった一匹すら倒せなかった天敵なのだ。


 それがこれほどの群れで押し寄せてくれば、いくらしゅわ丸の特効があるとはいえ、数の暴力で圧殺されるのは火を見るより明らかだった。


 さすがに、万事休すかと思われた。


 その時だった。



挿絵(By みてみん)

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