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第58話『泡に閉じ込められた約束』

 ◇ ◇ ◇


 そこにいたのは、まだ職人として駆け出しだった、さらに若かりし頃の工場長だ。


 髭も今よりずっと短く、肩幅も今ほど大きくはない。だが、その目だけは、現在の彼と完全に一致していた。


 真っ直ぐで、不器用で、周囲の雑音など一切耳に入らず、ただビールだけを見つめている、執念深い職人の目だった。


 「くそ、また失敗か……」


 若い工場長は、目の前の大きな醸造樽を見つめながら、悔しそうに拳を握りしめていた。


 樽の中身は無情にも酸化しており、目指したはずの洗練された味は完全に崩れてしまっている。


 それを見た周囲のベテラン職人達が、冷ややかな目で肩をすくめた。


 『ハハッ、無理だろ、あんな若造に。国一番のビールを造るなんてな』


 『夢を見すぎなんだよ、現実を見ろ現実を』


 周囲の誰も、彼の挑戦に期待などしていなかった。


 度重なる失敗の連続に、若い工場長自身ですら、心のどこかで「本当に無理なのかもしれない」と、少しだけ諦めかけていた。


 その時だった。


 「お疲れ様!」

 殺伐とした工房の後ろから、ひょこっと楽しそうにマリーが顔を出した。


 それは、張り詰めた部屋の空気を一瞬で和らげるような、とても優しい声だった。


 若い工場長が驚いて振り返る。


 「……マリー、また来たのか。ここは遊び場じゃない、職人の仕事場だぞ」


 「ふふん、来ちゃダメ? そんなに怒ると思って、ほら、差し入れを持ってきたの」


 そう言って、彼女がいたずらっぽく笑いながら差し出したのは、温もりの残る手作りのお弁当だった。


 差し出された包みを見て、若い工場長は言葉を失って固まる。

 マリーは彼の不器用な反応を見透かしたように、さらに笑みを深めた。


 「どうせまた、集中しすぎてお昼ご飯を食べてないんでしょ?」


 あまりにも完璧な図星を突かれ、工場長は決まずそうに視線をふいと逸らした。


 「……忙しいんだ、そんな暇はない」

 「だから、今食べるの!」


 「……」

 「食べるの!」


 「……はい」


 彼女の強い押しに負け、若い工場長は即答した。そのやり取りには、二人の深い信頼関係が滲み出ていた。


 ◇ ◇ ◇


 またしても泡が弾け、記憶の季節が巡り、長い年月が目まぐるしく流れていく。


 映像は、何度も、何度も、果てしない失敗を繰り返す工場長の姿を映し出す。


 ある時は醸造樽が完全に腐り、ある時は発酵のプロセスが暴走して手が付けられなくなり、ある時は自信のあったレシピが根本から崩壊した。


 それに愛想を尽かした仲間たちが次々と彼のもとを去り、資金を提供していた投資家たちも一人、また一人と離れていく。周囲からは「国一番のビールなんて大言壮語だ」と、その夢を激しく笑われた。


 それでも、ボロボロになりながらも立ち上がる彼の傍らには、毎回、必ずあの女性、マリーの姿があった。


 「……今回も、ダメだった。何が間違っているのか分からない」


 頭を抱える工場長に、マリーはいつもと変わらない笑顔で言葉をかける。


 「じゃあ、次ね!」

 「簡単に言うな。俺はもう、何もかも失いかけているんだぞ」


 「だって、あなたの中に、諦める気なんて最初から無いでしょ?」


 マリーの真っ直ぐな言葉に、工場長はハッとしたように顔を上げ、小さく「……ない」と答えた。


 「なら大丈夫!」


 彼女はただ、太陽のように笑う。そこには何の論理的な根拠もなかった。でも、彼女の笑顔を見るだけで、不思議と身体の奥底から力が湧いてくるのを工場長は感じていた。


 励まされるたびに、工場長は少しずつ、しかし確実に前を向き、再びビール造りへと没頭していった。


 ◇ ◇ ◇


 また、ぐるりと景色が変わる。今度は、静まり返った深い夜の工房だった。


 薄暗い工房の隅で、若い工場長が一人、静かに椅子に腰掛けていた。


 その目の前のテーブルには、一本のガラス瓶が厳かに置かれている。


 それは、美しい琥珀色の液体を湛え、月光を浴びて透き通るような輝きを放っていた。


 瓶の内部では完璧な細やかさの泡が揺らめき、蓋を開けずとも極上の香りが漂ってくるかのような、圧倒的な完成度を誇る一本。


 ついに完成したのだ。何十年もの歳月を費やし、泥をすするような思いで追い続けた、国一番を冠するに相応しい至高のビールが。


 遅れて工房に入ってきたマリーが、その瓶を見た瞬間、驚きで目を丸くした。


 「できたの……? 本当に?」


 工場長は言葉を返す代わりに、ただ静かに、深く頷いた。


 「……ああ、ついにやったぞ」


 その声は、達成感と、これまでの苦労が報われた喜びで、激しく震えていた。


 「やったぁ!!」


 マリーはまるで自分のことのように大喜びし、子供のように飛び上がって歓喜した。

 そんな彼女の姿を見て、工場長は少し照れ臭そうに、ふいと顔を背けて笑う。


 「だが、これはまだ市場には売らない」

 「え? どうして? あんなに頑張って造ったのに」


 マリーが不思議そうに首を傾げると、工場長はさらに視線を遠くへと逸らした。よく見ると、彼の耳の裏まで真っ赤に染まっている。


 「……先に、どうしても飲ませたい奴がいるんだ」

 「飲ませたい奴? 誰それ」


 「……もうすぐ、誕生日だろ」

 「……え?」


 「お前の、誕生日だ」


 マリーは驚きのあまり、目を大きく見開いたままフリーズする。


 工場長は恥ずかしさに耐えかねるように、ますます顔を背けながらも、大切な言葉を口にした。


 「その……このビールの、一番最初の一杯は、お前に飲んでほしいんだ。お前がいたから、できたビールだからな」


 心地よい沈黙が、二人の間に流れる。

 やがて、マリーの顔に大きな笑みが広がった。


 その瞳にはうっすらと涙が浮かんでおり、少し泣きそうな、でも人生で一番嬉しそうな笑顔で、彼女は答えた。


 「うん……! 世界一、楽しみにしてるね」


 ◇ ◇ ◇


 そして、幸せな記憶の景色が、不意に不穏な予兆とともに激しく揺れた。


 ゆうこは直感的に気付く。ここから先の空間に漂う空気が、先ほどまでとは一変して、肌に刺さるように重く冷たいことに。


 記憶の中の工場長の表情も、マリーの弾けるような笑顔も、どこか遠く、幻影のように霞んで見える。


 それはまるで、取り返しのつかない大切な何かが起きる、その直前の静けさのようだった。


 金色の炭酸の泡が、静かに、そして悲しく、ひとつ弾けた。


 ◇ ◇ ◇


 ひんやりとした夜風が吹き抜ける街頭。

 マリーは一人、鼻歌を交じりに夜の帰り道を歩いていた。


 彼女の両手には、大切そうに抱えられた紙袋がある。その中には、今日も遅くまで頑張っているであろう工場長への、真心のこもった差し入れが入っていた。


 そして彼女の頭の中は、数日後に迫った自分の誕生日に、二人で飲む予定のビールの話で一杯だった。


 「本当に、楽しみだなぁ……」


 思い出すだけで、思わず笑みがこぼれてしまう。あの不器用な男が、顔を真っ赤にしながら、どんな言葉を添えて自分にグラスを渡してくるのか、その姿が簡単に想像できたからだ。


 その時だった。


 しゅわぁぁぁ……


 静まり返った夜の路地裏で、不気味に炭酸が抜けるような異音が響いた。


 マリーは冷たい予感を覚えて、ハッと背後を振り返る。

 しかし、そこには誰もいない。ただの暗い街路があるだけだ。


 だが、冷たい石畳の上に、異様な白い泡がぶくぶくと浮き上がっていた。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


 泡は急速に質量を増し、寄り集まり、やがて獰猛な狼の形を形成していく。


 その異形の姿を見た瞬間、マリーの顔から血の気が引き、笑みが完全に消え去った。


 「フォーム・ハウンド……! どうしてこんなところに……!」


 ガルルル、と低い不気味な唸り声を上げながら、泡でできた狼達が次々と闇から現れる。


 気付いた時には、完全に囲まれていた。路地は狭く、彼女に逃げ道は残されていない。


 狼達がギチギチと口を開く。


 しゅうううううっ――!


 その口内から、濃密な白い炭酸霧が一斉に噴き出した。


 マリーは咄嗟に袖で口元を押さえたが、衣服の隙間をすり抜ける霧を完全には防げない。


 強力な酒気が一気に肺へと滑り込み、脳を麻痺させていく。視界が激しく揺れ、足元が泥のようにふらついた。


 霧の影響で、目の前にいるはずの狼の姿が、蜃気楼のようにぼやけ始める。


 確かにそこにいる。牙を剥いている。分かっているのに、霧のせいで正確な位置が見えない。敵を認識させないことこそが、フォーム・ハウンドの持つ最も厄介な特性だった。


 「誰か……誰か来て……!」


 必死の思いで叫ぶが、夜の静寂に声は吸い込まれ、悲しいかな返事はない。


 狼達が肉食獣の足取りで、じりじりと近付いてくる。一歩。また一歩。


 そして、狂暴な本能のままに、一斉に彼女へ飛びかかった。


 ばしゃぁっ!!


 激しい音と共に、粘り気のある白い泡がマリーの全身へまとわりつく。


 気管を泡で塞がれ、呼吸をすることすらできない。容赦なく強烈な酒気が体内に流れ込み、彼女の意識は急速に遠のいていく。


 それでもマリーは、折れそうな膝に力を込め、必死の想いで立ち上がった。


 それは、襲撃から逃げるためではない。自分がいつも向かっていた、愛する人のいる工房の方向を、最後に見るためだった。


 遠くの闇の向こう、まだ小さな灯りが見える。


 あの男は、今もきっと、自分の夢を信じて必死に働いている。世界一のビールを追い続けている。


 だから、マリーは迫る死の恐怖のなかで、最後に、少しだけ愛おしそうに笑った。


 「……ビール、完成して、本当によかったね……」


 その消え入りそうな呟きは、誰の耳にも届くことはない。


 容赦なく泡が舞い踊り、彼女の視界を白く染め上げていく。


 そして、世界は完全な静寂に包まれた。


 ◇ ◇ ◇


 「マリーーーーッ!!」


 胸を切り裂くような絶叫と共に、工場長が現場へ駆けつけた時には、すべてが手遅れだった。


 無残に荒らされた冷たい石畳の上には、彼女が大切に抱えていた紙袋だけが、寂しく転がっていた。


 袋から飛び出して泥にまみれたパン。無惨に潰れたチーズ。そして、工場長が何よりも好物だった燻製肉。


 「嫌だ……嘘だろ、マリー……!」


 工場長はその場に激しく膝をつき、まるで我が子の遺骸に触れるかのように、震える手で散らばったそれらを拾い上げる。


 その時、破れた紙袋の隙間から、一枚の小さなメモ用紙がひらひらと落ちた。


 そこには、彼女の温かみのある筆跡で、短くこう書かれていた。


 『誕生日、本当に楽しみにしてるね』


 冷酷な夜風が、彼の髪を激しく吹き抜けていく。


 工場長はそれ以上、叫ぶことも、泣くこともしなかった。ただ、奥歯が砕けんばかりに噛み締め、両の拳を強く握り締めた。


 爪が手のひらに深く食い込み、血が滲み出すほどに、彼の心は深い絶望と怒りに染まっていった。


 ◇ ◇ ◇


 ――パチン。


 最後の記憶の泡が哀しく弾け、ゆうこたちの意識は、現実に引き戻されるように工場長の執務室へと戻ってきた。


 ガラスケースの中には、あの日から時を止めたかのように、あの瓶ビールが静かに置かれている。


 最愛の女性に飲まれるはずだったその液体は、誰にも飲まれないまま、ずっと、ずっと、あの日からケースの奥で孤独に眠り続けていたのだ。


 現実の冷たい空気が、部屋を満たす。

 あまりにも切なく残酷な過去を知り、しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。


 過去を背負う工場長も、真実を知ったサクも、いつもは騒がしいクルスも、そしてゆうこも。ただ静かに立ち尽くし、押し寄せる沈黙に身を委ねるしかなかった。


 そんな重苦しい雰囲気の中、しゅわ丸だけが、いつの間にか元の姿に戻り、ぺちょんと申し訳なさそうに机の上に座っていた。


 「……」


 工場長は微動だにせず、ただじっと瓶を見つめている。その握りしめられた拳は、今なお激しく震えていた。


 その時だった。


 しゅわ。


 静寂を切り裂くように、かすかな異音が室内に響いた。


 ゆうこの獣特有の鋭い耳が、ピクリと敏感に動く。


 「……え? 今の音って……」


 今聞こえた不気味な音は、目の前にいるしゅわ丸が発したものではない。


 部屋の外。冷たい廊下の向こうから聞こえてくる。


 しゅわ。しゅわぁぁ……


 それは、記憶の中でマリーを絶望へと突き落とした、あの忌まわしい「炭酸が抜けるような音」そのものだった。


 その音が鼓膜に届いた瞬間、工場長の顔色が劇的に変わった。全身の血が凍り付いたかのように硬直する。


 まるで、人生において絶対に、二度と聞きたくなかった地獄の底からの羽音を聞いたかのように。


 「……嘘だろ。まさか、奴が……」


 掠れた声で工場長が呟くのを見て、サクが緊張の面持ちで眉をひそめる。


 「工場長、知っている音なの?」


 工場長はその問いに答える余裕すらなかった。ただ、猛烈な殺気を全身から放ちながら、壁に掛けられていた巨大なバトルアックスへと素早く手を伸ばした。


 彼のその緊迫した動きだけで、事態の異常性を察するには十分だった。部屋の空気が、一瞬で張り詰めた戦場へと変貌する。


 そして、不吉な予感を裏付けるように、開いた廊下の向こうの闇から、ぶくり、と不気味な白い泡が浮かび上がってきた。


 ぶくり。また一つ。

 ぶくり。さらに一つ。


 意思を持つかのように蠢く泡が集まり、急速に一つの形を形成していく。


 強靭な四本足。長くしなやかな尾。狂暴な肉食獣の輪郭。


 そして、泡の隙間から、獲物を値踏みするようなギラギラとした、禍々しい赤い瞳が開いた。


 工場長は過去の憎悪を爆発させるように、激しく歯を食いしばり、その怪物の名を吼えた。

 「フォーム・ハウンド……ッ!!! 俺の前に、再び現れたか……!!」



挿絵(By みてみん)

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