第57話『瓶に眠る想い』
「それはな――」
工場長が静かに、しかし重い口調で語ろうとした、まさにその時だった。
ぴくり。
しゅわ丸の柔らかな身体が、まるで電流が走ったかのように小さく震えた。
「しゅわ?」
いつもとは明らかに違う異変に、ゆうこがいち早く気付いて声を漏らす。
その視線の先で、しゅわ丸は瓶ビールにぴったりと張り付いたまま、彫刻のように凝固していた。まるで、目に見えない何かを敏感に感じ取っているかのように、その場から微動だにしない。
そして、静寂のなかで、ぷくり、と身体の奥底から一つの泡が生まれた。
それは驚くべきことに、神々しいまでの輝きを放つ金色だった。
「……あれ?」
サクが怪訝そうに目を細めて、その光を見つめる。
その泡は、通常の炭酸が持つそれとは明らかに異質で、しゅわ丸の透き通った身体の奥深くで、まるで小さな星のように神秘的な光を放ち続けている。
ぷくり。ぷくり。ぷくり。
静かな連鎖を伴って、次々と金色の泡が生まれては浮上していく。
「しゅわぁ……」
自身の身体に起きている突然の異変に、しゅわ丸自身も困惑したように小さく鳴いた。
すると、それを見ていた工場長の顔色が、一瞬にして驚愕へと変わる。
「まさか……そんなことが……」
工場長が言葉を失った次の瞬間、ぶわっ、としゅわ丸の身体から無数の金色の炭酸が溢れ出した。
それはまるで、閉じ込められていた光が一気に解放されたかのように、眩い輝きを伴って部屋中へ舞い上がっていく。
「うわっ!?」
予期せぬ光の奔流に、クルスが驚いて咄嗟に身を引く。
だが、その泡は一般的な炭酸のように弾けて消えることはなかった。ふわり、ふわりと、重力を忘れたかのように、まるで満天の星空が部屋の中に現れたかのように空中を漂う。
そして、その中の一つの泡が、ゆっくりとゆうこの額へ触れた。
ぱちん、と小さな、しかし鼓膜に心地よく響く音が鳴る。
その瞬間、ゆうこたちの目の前から、執務室の景色が、世界そのものが、音もなく消え去った。
◇ ◇ ◇
――そこは、見渡す限りの麦畑だった。
どこまでも高く澄み切った青空から、心地よい暖かな風が吹き抜けていく。
視界の果てまで続いているのは、太陽の光を浴びて黄金色に輝く見事な麦の波だ。あまりの美しい情景に、ゆうこは思わず大きく目を見開いた。
「……何これ。私たちはどこにいるの?」
混乱しながら隣を見ると、そこには同じように呆然とするサクの姿があった。
さらにクルスも、そして工場長もそこにいる。全員が言葉を失ったまま、目の前に広がる圧倒的な黄金の景色を共有していた。
「記憶だ」
工場長が、絞り出すようにぽつりと呟いた。その声は、過去の感情に揺さぶられるかのように激しく震えている。
彼らの視線の先、前方には一人の若い男が立っていた。
まだ髭も薄く、身体の体躯も今ほどがっしりとは大きくない。だが、その顔立ち、特に何かに向かう強い眼差しは、今そこにいる工場長と全く同じものだった。それは紛れもなく、若い頃の工場長の姿だった。
そして、その若い工場長の隣には、一人の美しい女性が寄り添うように立っていた。
風にそよぐ麦色の長い髪と、周囲をパッと明るくするような優しい笑顔が印象的な女性だ。
彼女の手には並々と注がれたビールジョッキが握られており、若い工場長の肩を親しげにポンポンと叩いては、快活に笑っている。
『あははっ!』
彼女の屈託のない笑顔が弾けた瞬間、現実の工場長が静かに、深く息を呑んだ。
「……マリー」
愛おしさと切なさが混ざり合った声で、工場長は女性の名前を呼んだ。
再び風が強く吹き抜け、黄金の麦がざわざわと揺れる。
記憶の中の若い工場長が、照れくさそうに何かを言っているが、ゆうこたちの耳にその声までは届かない。
だが、声の代わりに、その場に満ちていた強い感情だけが、ダイレクトに心へと伝わってきた。
それは、不器用な男の精一杯の照れ、彼女への深い憧れ、そして言葉にできないほどの「好きだ」という純粋な気持ち。その女性へ向けられた、真っ直ぐな想いのすべてが、暖かな風に乗って胸に流れ込んでくる。
ゆうこは胸の奥が熱くなるのを感じながら、小さく呟いた。
「これって、もしかして……」
その言葉を補うように、サクが神妙な面持ちで頷く。
「しゅわ丸の、記憶なのかな」
いや、それは違う、と現実の工場長が静かに首を横に振った。
「違う。これはスライム自身の記憶ではない」
ゆうこたちが一斉に彼を振り返るなか、工場長は愛する人がいる遠くの景色を見つめたまま、語りかけた。
「年代物の酒にはな、そこに込められた作り手や、共に過ごした人間の強い想いが、まるで呼吸をするように染み込むことがあるんだ」
一拍を置き、彼は愛おしそうに目を細める。
「人の想いが、酒の魂となるように」
麦畑が再び優しく揺れ、記憶の中の若い二人が幸せそうに笑い合う。
そして、そのあまりにも眩しい光景が、無数の炭酸の泡となって静かに空へと溶けていく。
工場長は涙を堪えるような震える声で、最後に呟いた。
「これは……あのガラスケースの中で眠っていた、あの酒自身がずっと覚えていた、俺たちの記憶だ」
新たな泡がパチンと弾けると同時に、目の前の景色が再び歪み、変わり始めた。
一瞬だけ、現在の工場長の執務室が映り込み、ガラスケースに保管された年代物の瓶ビールが見えた。
しかし、それらすべてが今度は白い炭酸の泡に溶けるように、脆く崩れ去っていく。
そして、また別の記憶の断片へと、ゆうこたちの意識は引き込まれていった。




