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第56話『工場長と伝説のビール』

 「……どこ行ったのよ」


 ゆうこははぁと深い溜息をつきながら、自身の額をそっと押さえた。


 容赦なく照りつける太陽のせいで、ただでさえ疲労が溜まっているというのに、追いかけるべき影はどこにも見当たらない。


 「完全に見失いましたね」


 クルスも足を止め、油断なく周囲の路地や建物の隙間を鋭い視線で見回した。だが、そこにはただ静かな港の景色が広がっているだけだった。


 「港の地理を知り尽くしてるタイプね」


 サクがやれやれといった風に両肩をすくめる。完全に相手のホームグラウンドに誘い込まれてしまった形だ。


 その時だった。

 ぽこんっ、と奇妙な小気味いい音が、静まり返った空間に響く。


 ゆうこが着ている白衣のポケットが不自然に大きく揺れた。


 「ん?」


 ゆうこが視線を落とした、次の瞬間。

 ポケットの中から勢いよく、青く透き通った身体のしゅわ丸が飛び出した。


 「しゅわぁっ!!」


 ぷるんっ!!

 音を立てて、しゅわ丸は弾むように地面へ着地する。その瑞々しい身体は、まるで生きている宝石のようにも見えた。


 そして。しゅわ丸は何かをその鋭い野生の勘で感じ取ったように、ぴたり、とそれまでの落ち着きのない動きを止めた。


 「しゅわ……」


 くりくりとした大きな瞳が、一点をじっと見つめる。

 その視線の先には、港の最奥に厳かにそびえ立つ巨大な建造物があった。


 夜の帳が下りているというのに、その場所だけは煌々と灯りが消えていない。


 天高く突き抜ける何本もの煙突。

 敷地内にうず高く積み上げられた巨大な木樽。


 複雑に入り組んだ何本もの配管。

 そして、風に乗って漂ってくる、麦芽をじっくりと煮たような、どこか甘く香ばしい独特の香り。


 「ビール工場?」


 サクが鼻をひくつかせながら、確信を持ったように呟く。

 その言葉に反応したのか、しゅわ丸は、

 「しゅわぁぁぁっ!!」


 歓喜の声を上げながら、突然全力疾走を始めた。スライムとは思えないほどの凄まじい瞬発力である。


 「えっ!?」

 「待ちなさい!」


 突如として始まった大暴走に、ゆうこ達も大慌てでその後ろ姿を追いかける。


 しかし、しゅわ丸の足取りは一直線で、そこには微塵の迷いもない。


 その姿は、まるで抗えない何かに強く強く呼ばれているみたいだった。

 やがて、頑丈な鉄でできた工場の正門へ到着する。


 だが、当然ながらそこには関係者以外の侵入を阻むべく、屈強な体つきの門番らしき男達が鋭い目を光らせて立っていた。


 「関係者以外立ち入り――」


 門番が厳めしい声を張り上げ、そこまで言った時だった。


 ぷるんっ!!

 しゅわ丸は物理法則を無視するかのように、閉ざされた鉄門のわずかな隙間を驚異的な柔らかさですり抜けた。


 「あっ」

 「入った!?」


 予想外の珍入者を前に、門番の男達は完全に思考を停止させて固まる。


 「しゅわーーーっ!!」


 そんなことにはお構いなしに、しゅわ丸は工場の敷地内をまさに爆走した。


 見上げるほどに巨大な発酵タンクの間を猛スピードで駆け抜け、綺麗に積み上がった樽の山を軽々と飛び越え、忙しなく動き回る作業員達の足元を、すれすれのスリルで次々とすり抜けていく。


 一歩足を踏み入れた工場の中は、想像以上に騒がしく、そして熱気に満ちていた。

 あちこちの配管から真っ白な蒸気がプシューッと激しく吹き上がる。


 重厚な歯車がガチガチと音を立てて回る。

 ゴロゴロと大きな樽が床を転がる。



 そして――


 「温度が0.3度高いぞォォォォ!!」


 鼓膜を震わせるほどの凄まじい怒号。

 それは工場全体、いや、この敷地すべてに響き渡るほどの圧倒的な大声だった。


 ゆうこ達はあまりの音量に思わず耳を塞ぎそうになりながら振り返る。

 そこには、一際巨大な発酵タンクの前で、これ以上ないほど堂々と仁王立ちする一人の男がいた。


 まるで熟した麦のような鮮やかな麦色の髪。

 ビール樽がそのまま収まっているかのような厚みのある胸板。

 丸太のように太く鍛え上げられた両腕。


 そして背中には、職人のプライドの象徴か、巨大なビールジョッキの刺繍が黄金の糸で施されている。


 何より、その男の全身から放たれる尋常じゃない威圧感は、周囲の空気をピリピリと震わせていた。


 「工場長……」


 作業員の一人が、あまりの恐怖に顔を青ざめさせながらガタガタと震える。

 工場長は血走った目でタンクに取り付けられた精密な温度計を力強く指差した。


 「0.3度だぞ!?」


 「も、申し訳ありません!」

 作業員が頭を下げて謝罪する。


 「謝るなァァァ!!」

 さらなる雷が落ちる。


 「はいっ!!」


 「謝る暇があるなら冷やせェェェ!!」


 工場長の怒声に、

 「はいっ!!」


 作業員は脱兎のごとく、冷やすための機材へと飛んでいく。

 その一連の過酷なやり取りを遠巻きに見ていたゆうこが、声を潜めてぽつりと呟いた。


 「怖い」


 「怖いですね」

 クルスも真剣な面持ちで同意する。


 「怖いわね」

 サクも小さく身震いした。


 ここで三人の意見は完全に、完璧に一致した。

 だが、工場長のパッションはまだ止まらない。


 「発酵は生き物だァァァ!!」


 どんっ、と大きな音を立てて、彼は素手で発酵タンクを熱く叩く。


 「お前らは樽の声を聞いたのかァァァ!!」


 その問いかけに、周囲の作業員達は直立不動で、


 「聞いてません!!」


 「聞けェェェ!!」

 「はいェェェ!!」


 「耳だけじゃない!!心で聞けェェェ!!」

 「はいェェェ!!」


 一糸乱れぬコールアンドレスポンスが工場内に響き渡る。

 ゆうこはあまりの狂気的な光景に頭を抱えた。


 「職人系だわ」

 「重症ですね」

 クルスが呆れたように深く頷く。


 その時、さらに別の作業員が慌てた様子で工場長へと駆け寄った。


 「工場長!七号樽の泡が少し多いです!」


 その報告を聞いた瞬間、工場長の顔色が劇的に変わる。


 「なんだとォォォォ!!」


 すぐさま猛ダッシュを開始する工場長。

 どすどすと地面が物理的に揺れる。ゆうこ達の横を、まるで大型トラックか突風のような速度と風圧で通り過ぎていった。


 「速っ!?」


 あまりの俊足に一同が驚愕する中、七号樽の前へと瞬時に到着した工場長は、樽の表面に浮かぶ泡をギロリと凝視した。


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 静寂が支配する。誰も一言も喋らない。緊張のあまり生唾を飲み込む音さえ聞こえそうだ。


 やがて、工場長が非常に深刻そうな面持ちでぽつりと呟く。


 「……確かに多い」


 その言葉に、周囲の作業員達の緊張は最高潮に達する。処刑の宣告を待つ罪人のようだ。

 そして、工場長は天に向けて固く拳を握り締めた。


 「だが良い泡だァァァァァ!!」


 「良いんですか!?」


 作業員が思わずズッコケそうになりながらツッコミを入れる。


 「元気な証拠だァァァ!!」


 工場長が満面の笑みでそう叫んだ瞬間、作業員達から一斉に地鳴りのような歓声が上がった。


 『おおおおおおっ!!』

 『さすが工場長!!』


 『泡を見ただけで分かる!!』


 宗教的な熱狂を前に、ゆうこは再び額を押さえた。


 「何なのこの国」


 対照的に、サクは肩を揺らして笑いを堪えている。


 「好きかもしれない」

 「やめなさい」

 ゆうこが即座にピシャリと嗜める。


 その時だった。

 工場長の割れんばかりの怒号が再び工場に響く。


 「貴様らァァァ!!」

 その声に、喜び合っていた全員がビクッと身体を強張らせた。


 工場長は鷹のような鋭い眼光で工場全体をぐるりと見渡した。

 そして、胸いっぱいに熱い空気を吸い込む。


 「ビールはぁぁぁぁぁ!!」

 その呼びかけに、作業員達が条件反射のように拳を突き上げて叫ぶ。


 『生き物だァァァァァ!!』


 「発酵はぁぁぁぁぁ!!」

 『愛だァァァァァ!!』


 「樽はぁぁぁぁぁ!!」

 『家族だァァァァァ!!』


 その異様な一体感を前に、ゆうこ達は完全に言葉を失って黙り込んだ。

 気まずい数秒の沈黙の後、ゆうこが死んだ魚のような目で静かに言う。


 「……帰る?」

 「まだ着いたばっかりですよ」


 クルスがすぐさま、鋭いキレのあるツッコミを投げ返した。

 その時だった。

 ぴょこん、と可愛い音がして、足元で気配が動く。


 「しゅわ?」

 しゅわ丸はきょろきょろと、その大きな目を動かして工場の中を見回していた。


 そして、何かに急激に気付いたように、ぴくっ、と青い身体全体を小刻みに震わせた。


 「ん?」

 ゆうこが不審に思って首を傾げる。


 しゅわ丸の視線は、工場の二階にあるガラス張りの小さな部屋へと注がれていた。

 その佇まいからして、どうやらあの工場長の執務室らしい。


 「しゅわぁっ!!」

 次の瞬間、しゅわ丸の身体が再び弾丸のように飛び出した。


 びょいんっ!!

 と凄まじい跳躍力を見せる。


 「えっ」

 「しゅわ丸!?」


 しゅわ丸は当然、階段などというまどろっこしいものは使わない。

 壁を跳ね、樽を跳ね、発酵タンクの側面を器用に跳ねていく。


 その姿は、縦横無尽に飛び回る高性能な青いゴムボールそのものだった。


 「速っ!!」

 クルスが驚愕の声を上げる。


 しゅわ丸は最短ルートを一直線に進み、瞬く間に二階へと到達した。

 そして、工場長の部屋の扉のわずかな隙間を見つけると、にゅるん。

 という奇妙な擬音と共に、流れるように内部へと侵入してしまった。


 「入った!?」

 「勝手に!?」

 「まずいんじゃない!?」


 三人は顔を見合わせ、大慌てで階段へと足を向ける。


 だが、数秒後。

 閉ざされた部屋の中から、

 「しゅわぁぁぁぁぁっ♡」

 という、これまで彼らが一度も聞いたことがないくらい、とろけるように上機嫌な鳴き声が響き渡ってきた。


 再び訪れる重苦しい沈黙。


 「……嫌な予感しかしない」

 ゆうこが顔を引きつらせながら呟く。


 一同は急いで階段をダッシュで駆け上がった。

 サク、クルス、そしてゆうこの三人揃って、勢いよく執務室のドアを開けて飛び込んだ。


 そして、その場に釘付けになったように固まった。

 部屋の中央には、一際目を引く美しいガラスケースが鎮座している。


 丁寧な彫刻が施された豪華な木製台座。

 素人目にも厳重だと分かる複雑な鍵の数々。


 そして、その神聖な中心に、たった一本だけ大切に置かれているものがあった。

 それは、深い琥珀色の輝きを放つ瓶ビール。


 いや、それは普通のビールなどでは断じてない。

 分厚いガラス瓶の中では、信じられないことに、金色の泡がゆっくりと、まるで夜空の星みたいにキラキラと美しく舞っていたのだ。


 見るだけでプロでなくとも分かる。

 そこから漏れ出す異常なまでの酒気。

 部屋全体を支配するような異常な存在感。


 この工場のどの樽にある酒よりも濃く、世界中のどの酒よりも強い、究極の逸品。


 そして、最悪なことに、しゅわ丸はそのガラスケースのわずかな隙間からちゃっかり中に入り込み、その貴重な瓶ビールに文字通りべったりと張り付いていた。


 ぺたぁ。


 「しゅわぁぁぁ♡」

 ハートマークが見えるかのような恍惚の表情。完全にそのビールを我が物として欲しがっている。


 「ダメ」

 ゆうこが現実を突きつけるように即答した。


 「しゅわぁ!?」

 心底ショックそうな声を上げるしゅわ丸に、

 「その反応で余計ダメなのよ」

 ゆうこは冷徹に言い放つ。


 サクが面白そうにそのガラスケースを興味深げに覗き込む。


 「これ何かしら」


 その時だった。

 彼女たちの真後ろから、地鳴りのような低い地獄の声が響いた。


 「……お前ら」

 全員の背筋に冷たいものが走り、恐る恐る振り向く。


 そこに仁王立ちで立っていたのは、いつの間にか戻ってきた工場長だった。


 逞しい両腕をがっしりと組み、額にはこれでもかと巨大な青筋を何本も浮かべている。

 部屋の中の空気が一瞬で十倍ほど重くなった気がした。


 一階の作業員達も、遠くからハラハラした様子でこちらの様子を窺っているが、誰一人としてこの部屋に近付こうとはしない。


 その工場長の表情は、完全に、怒りが頂点に達する五秒前の顔そのものだった。


 「……何をしている」


 地を這うような低い問いかけに、ゆうこが冷や汗を流しながらも即座に答える。


 「止めてる」

 「しゅわぁぁ♡」

 タイミング悪く、しゅわ丸がさらに甘ったるい声を上げた。


 「ほら見なさい。全然止まってない」


 ゆうこがツッコミを入れるが、しゅわ丸は瓶に張り付いたまま離れる気配がない。


 ぺたぁ。

 しかも、よく観察してみると、瓶の中で美しく舞っていた金色の泡が、なんと、しゅわ丸が張り付いている側へと磁石のようにじわじわと吸い寄せられているではないか。


 「しゅわ?」


 当の本人は全くの無自覚であるらしく、小首を傾げている。


 その光景を見た工場長の極太の眉が、ぴくり、と危険に動いた。


 「離せ」


 短い一言。だがそれはあまりにも低く、怖く、言葉にできないほど恐ろしい圧を放っていた。


 「しゅわぁ……」


 さすがのしゅわ丸も本能的な恐怖を感じたのか、その青い身体を少しだけ小さく震わせる。


 だが、それでもビールへの執着が勝ったのか、頑なに離れようとはしない。


 むしろ、ぎゅっ、と短い手足のような部分で、愛おしそうに瓶を強く抱きしめた。


 「しゅわぁぁ♡」

 「悪化したわね」

 ゆうこは完全に絶望し、両手で頭を抱える。


 工場長のこめかみには、今にも弾けそうなほど激しく血管が浮き上がっていた。


 「おい」

 「はい」


 ゆうこは直立不動で応答する。


 「そのスライム」


 一拍の、心臓が止まりそうなほど重い静寂。


 「何だ」


 「私も知りたい」

 ゆうこの回答は、一切の迷いがない即答だった。


 あまりのテンポの良さに、横で聞いていたサクがぷっと吹き出しそうになり、クルスは必死に笑いを堪えるように顔をぷいっと逸らした。


 工場長は鋭い目で瓶を見る。

 次に、必死に瓶にしがみつくしゅわ丸を見る。


 もう一度、その琥珀色の瓶を見る。

 そして、彼はドスドスと重い足音を響かせながら、ゆっくりと彼らに向かって近付いてきた。 



挿絵(By みてみん)

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