第55話『そうめん泥棒チェン』
――ドタドタドタドタドタドタッ!!
突然。
活気あふれる港の通りの向こう側から、周囲の静寂を力任せに切り裂くような、ものすごい勢いの足音が響いてきた。地響きさえ感じるほどの猛烈な突進である。
「どけぇぇぇぇぇ!! そこをどきやがれぇぇ!!」
「待てコラァ! 誰かそいつを捕まえろォォ!!」
「またあいつだ! またあいつがやりやがったぞ!!」
地平線の彼方から響くような怒号。買い物客たちの悲鳴。そして、激しく石畳を叩く狂ったような足音。
尋常ではない騒ぎに、ゆうこたち三人は反射的にウナギから目を離し、声のする方へと振り向いた。
そこにいたのは――。
一人のひょろりとした細身の男だった。
彼は息を荒くしながら、あろうことか両腕の中に、ギチギチに詰まった大量の「そうめんの束」を、まるで生まれたての赤ん坊でも育てるかのように大切に抱え、全力疾走でこちらへと向かってきていた。
「……なんで、そうめん持ってるの!?」
クルスがそのあまりにもシュールな光景に、開いた口が塞がらないまま思わず大声で叫んだ。
すると、走っていた細身の男は、追っ手を警戒して必死に後ろを振り返りながら、肺を裏返すような声で絶叫し返した。
「生きるためだァァァァァ!!」
「絶対違うだろ!! 生きるためにそうめんをそんなに大量に一気にかっさらう必要性がないわ!!」
男の後ろからは、エプロン姿のまま顔を真っ赤にして怒り狂った、近くの屋台の店主たちが必死の形相で追いかけてきている。
「返せぇぇぇ!! おい泥棒!!」
「おい! それはうちの今日の、夜の分の仕込みそうめんだぞ!!」
「出たぞ! そうめん泥棒だァァァ!!」
「「「そうめん泥棒!?」」」
人生で一度も聞いたことのないその奇妙極まりない単語に、ゆうこ、サク、クルスの三人の声が、完璧なハモりを見せて同時にハモった。
だが。
次の瞬間、悲劇が起きた。
あまりの猛スピードに、そうめんを抱えた男の足が、石畳の僅かな段差に引っかかって派手にもつれたのだ。
「あっ」
男の体が、慣性の法則に従って前方へと激しく傾く。そして、その倒れ込むような進行方向の先には――。
まさに今、クルスの目の前に置かれていた。
これから焼かれるはずだった、極上の酒うなぎの切り身が乗った皿があった。
「待っ――」
どんっ!!!
これ以上ないほど見事な角度と勢いで、男の体がテーブルの端へ激突した。凄まじい衝撃音が響き渡る。
その瞬間、世界がスローモーションになった。
白い陶器の皿が綺麗に宙を舞う。
その上で輝いていた酒うなぎの切り身も、美しく弧を描いて舞う。
秘伝のタレの滴が、キラキラと太陽の光を浴びて舞う。
そして、なぜか衝撃の余波を受けたクルスまでもが、椅子ごと後ろへと舞う。
「うわぁぁぁぁぁ、なんで俺までぇぇぇ!?」
べちゃっ!!
そして、重力の法則に従って落ちてきた生のウナギの切り身が、見事な精度でクルスの顔面の真ん中へと張り付いた。ヌルリとした感触が彼の肌を襲う。
「熱っついいいいい!! 熱いです先生!!」
「落ち着きなさい、それまだ焼いてないわよ! 完全な生よ!」
「気分です!! 精神的な熱さです!!」
顔面にウナギを張り付かせたクルスがのたうち回る中、そうめん泥棒の男は、地面を派手に転がりながらも、驚異的な執念と動体視力で、宙に浮いていた皿の上の切り身の一枚を、反射的に空中でガシッと掴み取っていた。
ぱしっ。
確かな手応え。そして男は、あれだけ激しく転倒したにもかかわらず、何事もなかったかのようにバネのような動きで素早く立ち上がった。その目は爛々と輝いている。
「いただきます!!」
「待てぇぇぇぇぇ、コラァァァァァ!?」
ナミキが、これまでにない地鳴りのような怒号を響かせた。
しかし、そうめん泥棒は止まらない。
彼は、両腕に抱えたそうめん。
今しがた強奪した酒うなぎ。
そして――どういうわけか、ナミキのテーブルからどさくさに紛れてひったくった「炭火用の焼き網」までしっかりと脇に抱えていた。
男は再び、狂ったような速度で全力疾走を始めた。
「増えてる!!」
「ちょっと、盗品が明らかにさっきより増えてるわよ!!」
「手癖が最悪だ! あいつ、火事場泥棒の天才か!?」
あまりの事態に、周囲で呑気に酒を飲んでいた常連客たちも、一斉にジョッキを置いて立ち上がった。
「おい、出たぞ!!」
「間違いない、あのすばしっこい走り方、そうめん泥棒のチェンだ!!」
「またこの港に来やがったか、あのクソガキ!!」
どうやら、この界隈ではかなり有名な常習犯らしい。
その時だった。
ドクン、と不穏な空気が張り詰める。ナミキの額に、ドス黒い青筋がピキピキと何本も浮かび上がっていた。
「……あの、クソ野郎が」
それは、地底から響くような、低く冷徹な声だった。
さっきまで「職人の十五秒だガはは!」などと陽気に笑っていた、あの気のいい店主の面影はそこにはない。
目の前にいるのは、己の誇りを汚された、一人の獰猛な「酒うなぎ職人」の顔そのものだった。
「人のそうめんなら、まだ百歩譲って見逃してやる。だがな……」
ナミキは静かに、しかし重々しい足取りで一歩前へ出た。その全身から、目に見えないほどの威圧感が放たれている。
「俺が魂込めて育てた、大切な酒うなぎに手ぇ出しやがったな……。あのガキ、タダで死ねると思うなよ」
その瞬間だった。ナミキの背後にある焼き台の炭火が、彼の怒りに呼応するかのように「ぼっ」と、信じられないほど大きく、赤黒く燃え上がった気がした。
だが。
職人の怒りが爆発するよりも、それよりも遥かに早く。
ガタンッ!!!
凄まじい音を立てて、木製の椅子が後ろへと吹き飛んだ。
「待ちなさい」
声を上げたのは、ゆうこだった。
その顔は、一切笑っていなかった。口元は引き結ばれ、何より目が完全に据わっている。瞳の奥には、漆黒の炎がメラメラと燃え盛っていた。彼女は今、完全に「キレて」いた。
その尋常ではない殺気に、隣にいたサクが一歩、引きつった笑いを浮かべながら後ずさりした。
「うわ……。これはアカンやつだ」
クルスもまた、顔からウナギを引き剥がしながら、恐怖に身を震わせてさらに一歩引いた。
「先生の……一番触れちゃいけないスイッチが入った。本気モードだ……」
ゆうこは無言のまま、静かに歩き出した。
しかし、その歩行速度は、一歩進むごとに指数関数的に上がっていく。彼女の周囲の空気が、キリキリと音を立てて凍りついていくようだった。
「せっかく……」
一歩。
「私が、あんなに楽しみにしていた、美味しそうなウナギを……」
二歩。
「今まさに、最高のタイミングで食べようとしてたのに……」
三歩。
「私の……」
四歩。
「ウナギを……」
五歩。
「よくもまぁ、目の前で堂々と盗んでくれたわねぇ!?」
最後の一歩を踏み出した瞬間だった。
ダンッ!!!
細い体のどこにそんな筋力があるのか、石畳が物理的に激しい音を立てて鳴り響いた。
「ひっ……!」
近くで呑気に酌み交わしていた無関係の酔っ払いたちが、その殺気に当てられてリアルに短い悲鳴を上げ、ガタガタと震え出した。
サクはその光景を見送りながら、あちゃーと額に手を当てて苦笑した。
「完全にターゲットを『獲物』として認定したわね、彼女。もう誰にも止められないよ」
「終わったな、チェンさん……。どうか来世では、怒らせちゃいけない人を学んでください……」
クルスは静かに胸の前で手を合わせ、遥か先へ逃げていく泥棒のために哀悼の意を込めて合掌した。
その頃。
そうめん泥棒のチェンは、複雑に入り組んだ港町の路地裏を、風を切って全力疾走していた。
「ふはははは!! ざまぁみろ、間抜けどもめ!!」
腕の中には、大量のそうめん束。
そして、奪い取った最高級の酒うなぎ。
さらに、なぜかドタバタの中で手に入ってしまった頑丈な焼き網。
「これだけ揃えば、今日の晩飯は超豪華なウナギそうめんパーティーだぜぇぇぇ!! 最高だっ!!」
チェンは己の「戦果」に酔いしれ、まさに絶好調の絶頂にいた。
だが。
そんな彼の背後から、鼓膜を突き破らんばかりの、地獄の底から響くような咆哮が迫り来る。
「チェェェェェェェェェン!!!!!」
それは、およそこの世のものとは思えない、聞いてはいけないタイプの恐るべき怒声だった。
「ひぇっ!?」
チェンが驚いて反射的に後ろを振り返る。そして、その視線の先に映った光景に、彼の全身の血の気が一気に引いた。
「うわっ、なんだあいつ!?」
そこには、ゆうこがいた。
彼女は文字通り、地面を蹴り飛ばすような猛烈なフォームで、風を切り裂きながら全力で追いかけてきていた。
その身にまとった純白の白衣を、まるで死神の羽のように激しく翻しながら。
その表情は、文字通りの「鬼の形相」そのものであった。
「返しなさぁぁぁぁぁい、私のウナギぃぃ!!」
「な、なんでウナギたったの一枚で、そこまで本気で怒るんだよ!? 執念深すぎるだろ!」
「一枚じゃないわよ!!」
ゆうこは走る速度を一切落とさず、喉が張り裂けんばかりの声で叫び返した。
「あなたはウナギと一緒に、私の『今日の生き甲斐と期待』まで盗んだのよ!! その罪は万死に値するわ!!」
「重い重い重い!! ウナギ一枚にかける感情の量が重すぎるんだよ!!」
チェンは恐怖に顔を引きつらせ、さらに足に力を込めて加速した。
だが、チェンもさるもの。港町で生まれ育ち、泥棒稼業で鍛え上げられた彼の足は、常人のそれを遥かに凌駕するほどに速い。
そして一方のゆうこは、過酷な医療現場を生き抜いてきた元看護師である。夜勤で鍛えられた体力と根性はそこそこあるが、純粋なスプリンターとしての爆発力があるわけではない。
結果として。
互いに全力で走っているものの、両者の距離は絶妙に縮まらず、平行線をたどっていた。
「はぁっ……はぁっ……! 待て……待ちなさい、泥棒……!」
ゆうこは激しく息を切らしながらも、執念だけで走り続ける。白衣の裾が、バタバタと夜風で激しく暴れている。
その遥か後方から、ようやく二人の影が追いついてきた。
「先生ぇぇぇ!!」
「待ちなさいよぉぉぉ、二人とも速すぎるってば!!」
サクとクルスが、かなりの時間差を経てようやく追いついてきた。特に運動不足のクルスは、すでに限界を迎えているようで、肩を激しく上下させて死にそうな顔をしていた。
「はぁ、はぁ……なんで、なんでそんなスピードで追いつけるんですか、先生!? 元看護師の身体能力を超えてますよ!?」
「ウナギへの……執念だからよ!!」
「万能すぎるでしょ、その理由!! ウナギの力って人間の限界突破させられるんですか!?」
サクはそんな二人のやり取りを面白がりながら、軽快な足取りでゆうこの隣へと並んだ。
「で? 先生、奴の姿は見えた?」
「見えたわ……! あそこよ!」
ゆうこは、汗を拭うこともせず、真っ直ぐ前方をビシッと指差した。
路地の遥か先。夕闇が迫る街灯の影に、そうめんを必死に抱えて逃げるチェンの小さな背中が、ハッキリと捉えられていた。
「いたぞ!!」
クルスが最後の力を振り絞って叫ぶ。
「チェェェェェン!! 観念しろ!!」
「うわぁぁぁ、まだ追ってくんのかよ、ストーカーども!?」
チェンもまた、背後からの怒声に気がつき、恐怖で悲鳴を上げた。
そして、彼はさらにギアを上げた。これまでに培った逃走技術のすべてを注ぎ込み、速度を極限まで上昇させる。
港町特有の、迷路のように複雑に入り組んだ細い路地を、チェンは縦横無尽に駆け抜けていく。
右へ。
すぐさま左へ。
そして視界の悪い細い角を、また右へ。
頭上に干された住民たちの洗濯物の下を、身を屈めて鮮やかに潜り抜け。
路端に山積みにされた木製の樽を、まるでパルクールのように軽々と飛び越え。
生臭い匂いが立ち込める魚市場の脇の、狭い隙間を滑り込むようにしてすり抜けていく。
チェンは地元民ならではの、圧倒的な地理の知識をフルに活用していた。
「くっ……! あいつ……!」
ゆうこは走りながら、悔しそうに美形な眉をこれでもかとひそめた。
「地元民の強みを活かしてくるわね……! 障害物が多いわ!」
「あのアクロバティックな逃げ方、絶対に常習犯ですよあれ! 捕まえたら余罪が山ほど出てきますよ!」
クルスが息も絶え絶えに叫んだ、まさにその時だった。
前方を走るチェンが、一際大きなレンガ造りの建物の角を、滑り込むような急ターンで曲がっていった。
「逃がすかぁぁぁぁぁ!!」
ゆうこを先頭に、三人もその後に続く。
勢いよく角を曲がる。
路地を飛び出す。
そして――。
三人は、不自然なほどピタリと、その場に足を止めた。
「……あれ?」
誰も、いない。
彼らが飛び出した先は、四方を古い建物に囲まれた、小さな、行き止まりの広場だった。
周囲を見渡せば、いくつかの古い空樽。
放置された荷車。
壁に干された漁業用の巨大な網。
そして、鍵の閉まった古い倉庫の扉。
だが、肝心のチェンの姿が、どこにも見当たらないのだ。
「え……?」
クルスが、狐につままれたような顔で周囲を何度も見回す。
「消えた……? どこに行ったんだ?」
サクもまた、いつもの軽いノリを潜め、不思議そうに首を傾げた。
「いや、そんな馬鹿な話はないだろ。つい数秒前まで、確実に俺たちの目の前を走っていたはずだぜ」
ゆうこは鋭い視線を周囲に走らせ、眉を深くひそめた。
地面を見ても、急に立ち止まったような足跡や擦れた痕跡はない。周囲の樽が動いたような物音一つしない。
さっきまで、確かにそこにいたはずの
「そうめん泥棒」。
それが、まるで手品か煙みたいに、一瞬にしてこの空間から完全に消え去っていた。
静まり返る広場に、ただ三人の荒い呼吸の音だけが、虚しく響き渡っていた。




