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第54話『15秒。15秒。』

 周囲の客が一斉に地を揺らすような歓声を上げた。


 「おおおおおっ!!」


 「相変わらず、大将の手付きは見えねぇな!」


 「さすがだ! さすがナミキの親父だ!!」


 無数の賞賛を浴びながら、ナミキはふんと鼻を鳴らした。その表情には職人としての絶対的なプライドが滲み出ている。


 「酒うなぎはな、酔ってる時が一番美味いんだよ」


 「なんかどこかで聞いたことのあるような台詞ね……。既視感がすごいんだけど」


 ゆうこは眉間にシワを寄せ、露骨に嫌な顔をしてみせた。どこぞの漫画や映画で聞いたような大層な蘊蓄に、早くも胃がもたれそうな気分だったのだ。


 だが、ナミキはそんな彼女の冷ややかな視線などどこ吹く風で、豪快に白い歯を見せて笑った。


 「理屈だよ、理屈! 酒気が全身へ回るからこそ、身が極限まで柔らかくなるんだ。余計な水分が抜けて、旨味だけが凝縮されるのさ」


 「はいはい、御託はいいから、じゃあさっさと焼いて頂戴」


 ゆうこはこれ以上の釈迦に説法を遮るように、パシッと手を叩いて即答した。目の前で繰り広げられる職人技とやらに感心するよりも、今は空腹を満たすことの方が最優先だった。


 しかし、ナミキはフッと不敵な笑みを浮かべると、頑なに首を横に振った。


「ダメだ」


「なんでよ。お店でしょ、ここ?」


「美味いものを食わせる店だがな、うちの酒うなぎは『セルフサービス』が鉄則だからだ」


 切り身にした瑞々しいウナギを、年季の入った平皿にズラリと並べた瞬間だった。ナミキのテンションは、それまでとは比べものにならないほど一気に跳ね上がった。


 その目はまるで、これから戦場に赴く将軍のようであり、あるいはいたずらを企む子供のようでもあった。



 「いいか?!てめえのウナギは、てめぇで管理運営な!人のウナギに茶々入れない。

まずはこの切り身は皮から焼くんだ。身からやっちまうと身が丸くなっちまうからな!

この切り身を皮から焼いて15秒。

15秒やったら裏返して15秒、15秒。

15秒焼いた状態が白焼きって状態だ。

それでもう一回裏返して15秒。

で、一回タレをたっぷりつけて皮から焼いて15秒、15秒。

薄いなと思ったらもうちょっと濃くつければいいし、これでいいなと思ったら、これで食ってくれ!

あと頭も最高にうまいぞ!頭は焼いたら食べてもいいし、食べなくてもいい!お前の好きなように焼いて好きなように食え!」


 怒涛の勢いでまくしたてながら、ナミキは自らトングを握り、何枚かの切り身を炭火の上へと並べて見本を見せてくれた。


 その気前の良さと親切さ自体は、初めてこの店を訪れたゆうこたちにとって非常に有り難いことだった。


 有り難い、のだが。

 

 「……ねぇ」

 ゆうこは耐えかねて、半眼のまま声をかけた。


 「おう? なんだ?」


 「今ので、何秒経ったかしら?」


 「十五秒だ」


 それはもう、一ミリの迷いもない見事な即答だった。ナミキは胸を張り、ドヤ顔で言い放った。


 ゆうこはあからさまに呆れた様子で、パチパチと火花を散らす炭火をビシッと指差した。


 「どう見ても、もう三十秒以上は確実に経ってるわよね? 私の体内時計が壊れてなければ、倍以上の時間が経過しているんだけど」


 「ガハハ! 細けぇことは気にするな!」


 「気にするわよ! さっきあんなに秒数に拘った熱いレクチャーをしておいて、それはないでしょ!」


 詰め寄るゆうこに対し、ナミキは人差し指をチッチッチと横に振り、さらに自信満々に胸を叩いた。


 「これが『職人の十五秒』ってやつだ」


 「何それ。新しい物理法則か何か?」


 「気持ちだ」


 「時間ですらないじゃない!!」


 ゆうこの鋭いツッコミが炸裂した瞬間、それまで静かに様子を窺っていたサクが、ついに耐えきれずに大爆笑しながら椅子を叩いた。


 「はははっ! 傑作だわ! 好きだわ、この適当な親父!」


 サクが涙を浮かべて喜ぶ一方で、もう一人の連れであるクルスは、完全に引いたような真顔で網の上のウナギを見つめていた。


 「……俺、この人の説明をどこまで信用していいのか、本気で不安になってきました。僕たちの胃袋の運命は、この『気持ちの十五秒』に握られているんですか?」


 しかし、ナミキはそんな若者たちの困惑や爆笑などこれっぽっちもお構いなしに、長年の経験、あるいは独自の勘によって完璧な焼き加減となった切り身を、次々と大皿へ並べていく。


 こんがり。


 艶々。


 タレが炭火で焦げた香ばしい匂いと、ウナギ特有の濃厚な脂の香りが渾然一体となり、周囲に広がっていく。


 それは、ただその場に立ち上る香りを含んだ空気を吸い込むだけで、冷えたビールが何杯でも進んでしまいそうな、悪魔的な魅力を放つ見た目だった。


 「ほらよ」

 ナミキは満足げに鼻を鳴らし、そう言って三人へ竹串を勢いよく手渡した。


 「まずは見本だ。職人の魂の味、とくと味わいな」


 ゆうこ、サク、クルスの三人は、互いに顔を見合わせながら、どこか恐る恐るという様子で、焼き立ての切り身を箸でつまみ、口へと運んだ。


 ぱくっ。

 ――。


 その瞬間、劇的な沈黙がその場を支配した。誰も言葉を発しない。発することができなかった。


 ふわっ。


 口に含んだ瞬間、圧倒的な柔らかさで肉厚な身が、文字通り舌の上でほどけていく。濃厚でありながら、一切のしつこさを感じさせない極上の脂。


 それを引き締める、長年継ぎ足されてきたであろう深みのある甘いタレ。


 そして何より、咀嚼するたびに鼻腔の奥へと心地よく広がっていくのは、ほんのりとした気品あるビールの芳醇な香りだった。


「……」


 ゆうこは目を見開いたまま、完全に硬直していた。脳が、その予想を遥かに超えた美味さを処理しきれていない。


 「どうだ? 美味いだろ?」


 ナミキは彼女の反応を完全に予期していたようで、腕を組みながらニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。


 「……うまい」


 「だろ?」


 「ものすごく悔しいけれど……めちゃくちゃにうまいわ、これ」


 サクもまた、普段のお調子者な表情を消し去り、驚きのあまり目を丸くしてウナギを見つめていた。


 「なぁにこれ……信じられない。脂がこれだけ乗っているのに、全然重くない。いくらでもお腹に入りそうだよ」


 「ガハハ! 酒気が完全に抜け切る前の、一番良いタイミングで一気に焼き上げてるからな。これぞ職人の技よ!」


 二人が感想を言い合っている間に、ふと隣を見ると、クルスはすでに信じられないスピードで二口目、三口目へと突入していた。


 「うまっ!! うまいですこれ!!」


 「ちょっと、食べるの早いわね!?」


 「だって、本当にうまいんですもん!! 手が勝手に動いちゃうんですよ!!」


 クルスは口の周りをタレだらけにしながら、一心不乱にウナギを頬張っている。その様子を見て、ナミキは我が意を得たりと満足そうに深く頷いた。


 そして。

 ナミキは表情を一変させると、三人の目の前へ、まだ全く火の通っていない生の切り身が美しく並んだ大皿を、ズラリと突き出した。


 「よし、じゃあ次は自分らの番だ。てめぇらで勝手にやれ」


 「ちょっと、急に放り投げたわね!?」


 「職人の世界じゃあな、『習うより焼け』って言うんだよ!」


 「言葉が雑! ただの丸投げじゃないの!」


 ゆうこが文句を言っている間に、サクはすでにやる気満々で炭火の前の特等席へと腰を下ろしていた。


 「よし、俺が男のこだわり焼きを見せてやるよ」


 「ちょっと待ちなさい、サク。あなた、料理なんて普段しないでしょうが」


 「よし」


 「人の話を聞きなさいってば!」


 だが、完全にスイッチの入ってしまったサクの耳には、ゆうこの制止の声など全く届いていなかった。


 サクはかつてないほど真剣な、まるでギャンブルの出目を睨むような鋭い顔つきで、生の切り身をトングで慎重に持ち上げる。


 そして。

 じゅっ。


 肉厚な切り身を、真っ赤に興奮する炭火の上へと静かに置いた。


 その瞬間。

 それまで静観していた周囲の常連客たちが、サクの手元を見た途端に一斉にざわつき始めた。


 「お? おい、見ろよあの姉ちゃん」


 「おいおい、初心者じゃねぇな……」


 「切り身を置く角度といい、網の上の配置といい、手付きが妙にいいぞ!」


 常連たちの絶賛の声を浴び、サクの目がらんらんと輝き出す。


 「ほう、なるほど。炭の配置による熱のグラデーションがここにあるわけか……」


 サクは完全に、謎の「職人モード」へと突入していた。普段のチャラついた雰囲気は消え失せ、目つきだけが異様に鋭くなっている。


 そんな姿を見て、ゆうこの脳内で「嫌な予感メーター」が一気に危険水域まで上昇していく。


 この女がこういうモードに入った時は、大抵ろくなことが起きないのだ。


 その一方で、サクの隣では。

 クルスが生の切り身を前にしたまま、石像のようにカチコチに固まっていた。


 「えっと……あの……」


 「どうしたのよ、クルス。さっきの勢いはどこ行ったの?」


 「いや……あの、急に責任が重くなってきました」


 「ウナギ一切れに、一体何をそんなに背負い込んでるのよ」


 「命ですよ、命! 僕が焼き加減を一つ間違えれば、このウナギの命が無駄になってしまうんですよ!?」


 「ウナギはもう、とっくの昔に焼かれる前提で捌かれてるわよ!」


 そんな、いつも通りの呑気でコミカルなやり取りが、煙の向こうで繰り広げられていた。


 まさに、そんな平和で騒がしいやり取りの最中だった。


挿絵(By みてみん)


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