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第53話『酒うなぎは自分でビールを飲む』

 よく見れば、実に見事な赤ら顔、そして長年激しい海風と太陽に晒されてきたであろう、真っ黒に日に焼けた肌。


 その丸太のように太い腕には、無数の古傷が刻まれている。


 どう好意的に見ても、街の大人しいウナギ屋の店主というよりは、荒くれ者の船乗りたちを束ねる港の恐ろしい親方、あるいは屈強な戦士である。


 「この『酒うなぎの店 ナミキ』の店主であり、同時に命がけで海や川を渡る、酒うなぎ専門の漁師でもあるのさ」


 「へえ、店主自らが漁師もやってるの?」


 ゆうこが興味深そうに尋ねると、ナミキは深く重々しく頷いた。


 「ああ、そうだ。なぜなら酒うなぎってやつはな、そこらの生ぬるい普通の魚じゃねえからだ」


 その不穏な言葉に、ゆうこ、サク、クルスの三人が同時にピクリと敏感に反応した。


 これまでの異世界旅の経験上、現地の人間が真顔で放つ「普通じゃない」というセリフは、だいたいこれからとんでもない厄介事に巻き込まれる前触れ、あるいはその原因そのものであることが多かったからだ。


 ナミキはテーブルの上の、生の酒うなぎを太い指で指差した。


 「こいつらはな……」


 一拍、重々しいタメを置いてから、彼は衝撃の事実を告げた。


 「なんと、ビールを飲んで育つんだ」


 三人の間に、またしても静まり返るような沈黙が降りた。


 「……は?」

 ゆうこが乾いた声で聞き返した。


 「だから、ビールをガブガブと飲んで育つ魚なんだよ」


 「いや、聞こえなかったんじゃなくてね、言葉の意味が全く理解できなかったのよ」


 ゆうこが頭を押さえるが、ナミキはそんな彼女の困惑など一切気にせず、楽しそうに説明を続ける。


 「このビール国の河川や湖にはな、あちこちの醸造所から流れ出た高濃度の酒気が常に流れてるんだ。そこで生まれた稚魚どもは、最初は普通のそこらの魚と変わらねえ」


 「うん」


 「だがな、成長してある程度の大きさになると、水に溶けたその酒気を餌として認識し、積極的に吸い込み始めやがる」


 「……なんだか、ものすごく嫌な予感しかしない生態ね」


 「さらにだ! こいつらが完全に成魚へと大きくなると、もはや水に混ざった酒気じゃ満足できなくなって、ビールそのものを直接飲むようになるんだよ!」


 「なんでよ!? おかしいでしょ!」


 「なんでって、そりゃあこいつらがビールを大好きだからだ!」


 「そんな個人的な嗜好みたいな理由で、生物の奇妙な生態を雑に説明するな!」


 ゆうこが鋭くツッコミを入れるが、ナミキの目は至って真面目だった。


 どうやら冗談でも誇張でもなく、本当にこの世界のウナギは重度のアルコール中毒のような生態を持っているらしい。


 それを聞いていたクルスが、ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る質問を投げかけた。


 「あの……じゃあ、野生の酒うなぎって、普段は一体どこに生息しているんですか?」


 ナミキはにやりと笑い、店の外にある暗い港の向こう、不夜城のように明かりが灯る繁華街の方角を指差した。


 「決まってるだろ。夜になると、酒場の大元にある排水口の周りにウジャウジャと集まってくるのさ」


 「嫌だなぁ! 想像しただけで生々しくて嫌だなぁ!」


 「それだけじゃねえぞ。運悪く川沿いで酔っ払った奴らが、うっかりこぼしたビールや吐き出した酒を、水面から顔を出してダイレクトに吸いに来るんだ」


 「もっと嫌だなぁ!! 風情も何もあったもんじゃないですよ!」


 クルスが絶叫する傍らで、サクが堪えきれずにぷっと大爆笑した。


 「何それ、最高じゃない! めちゃくちゃロックなウナギね!」


 「サク、お前はもう少し危機感と、生物に対する警戒心を持ちなさい」


 ゆうこが嗜める中、ナミキはさらに声を低くして話を続けた。


 「ただな……」


 その声のトーンが、先ほどまでのふざけたものから、一気にプロの漁師としての真剣な響きを帯びる。


 「本当に美味い、本物の酒うなぎってやつは、そんな排水口に集まるような雑魚とは格が違うんだ」


 「別? 何が違うの?」


 「最高の一匹はな、酒樽の底で育つんだよ」


 その言葉に、ゆうこの美しい眉がぴくりと跳ね上がった。


 「樽の中……? どういうこと?」

 「おう」


 ナミキは満足そうに頷き、腕を組み直した。


 「ここのビール職人たちが、十年以上もの長い年月をかけて極上のビールを熟成させ続けた、最高の古樽がある。俺たち漁師はな、その古樽をわざわざ川の底深くに沈めておくんだ。すると、その樽の中に酒うなぎが潜り込み、そこで育つ。奴らはその古樽に染み込んだ、極上の酒気を何年もたっぷり吸い込みながら大きくなるのさ」


 「へぇ……」


 「そうして育った酒うなぎはな、脂そのものに芳醇なビールの香りが深く乗るんだ」


 「ほう……」


 「それをこうして炭火で焼くと、熱でその脂と香りが一気に弾ける!」


 「ほうほう……!」


 「そのウナギをかじりながら飲むビールの相性は、まさに神の領域、天国の一言だ!」


 「ください。その極上のやつを、今すぐ私にください」


 完全なる即答だった。

 ナミキは彼女のその食い気気味な態度に、再び大笑いした。


 「がっはっは! 気が早えよ嬢ちゃん! 今目の前にあるのが、まさにその特製の樽育ちのウナギだよ!」


 「いや、でも今の説明は完全に反則でしょ。美味しくないわけがないじゃない」


 ゆうこは完全に真顔だった。その瞳には食欲の炎が燃え盛っており、知性派の彼女が完全に本能に負けている珍しい姿だった。


 その時ナミキがふと、テーブルの上に置かれた生の酒うなぎに目をやった。そして、少しだけ怪訝そうに首を傾げた。


 「……ん? あれ?」


 「どうしたの? 何か問題でも?」


 「いや……な」


 ナミキが少し身を乗り出し、確認するために酒うなぎを持ち上げようとした、まさにその時だった。


 ぴくっ、とテーブルの上でウナギの身体が跳ねた。


 「ひ、生きてる!?」


 クルスが椅子から転げ落ちんばかりに驚き、飛び上がった。


 「当たり前だろ。何を驚いてやがる」


 「当たり前じゃないですよ!? これから焼いて食べようって食材が、こんなに元気よく動くなんて!」


 クルスがパニックになる中、ナミキは平然と言い放った。


 「うちのポリシーだ。焼く直前の、今この瞬間まで生かしといた方が、圧倒的に鮮度が良くて美味いからな」


 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。


 置かれていた酒うなぎが、ぐねり、と力強く身体をくねらせて持ち上げた。


 そして、何を思ったのか、ゆうこが楽しみに手元に置いていた、並々と注がれた大容量のジョッキへとその平たい顔を向けた。


 ずるっ、ずるるっ、と、信じられないほどの力強い這い回る動きで、ウナギはテーブルの上を滑るように進んでいく。


 「あ」

 ナミキが声を上げる暇すらなかった。


 酒うなぎは、人間の目にも止まらぬほどの凄まじい速さで、ゆうこのジョッキへと突撃した。

 そして躊躇なく、その頭から豪快に飛び込んだのだ。


 ぽちゃんっ、と心地よい水音が響く。


 「ビールの中に自ら飛び込んで飲んだァァァァ!?」


 クルスの引き裂くような悲鳴が、夜の港町に文字通り響き渡った。


 驚くべきことに、酒うなぎはジョッキの黄金色の液体の中へ、完全に頭から突っ込んでいた。


 ごくっ、ごくっ、ごくごくごくごくっ!


 それは喉を鳴らすような、凄まじい勢いだった。


 「ものすごい勢いで飲んでる!! 僕たちのビールを勝手に飲んでますよ、あのウナギ!」


 「ええ、本当に美味しそうに、実に見事な飲みっぷりで飲んでいるわね」


 「なんでそんなに冷静なんですか先生!? 突っ込んで引き剥がしてくださいよ!」


 クルスがいくら騒ごうとも、ジョッキの中のビールはみるみるうちに目減りしていく。


 しかし、周囲にいる常連の客たちは、この異常事態に対しても一切慌てる様子を見せなかった。むしろ、彼らは温かい眼差しを向け、口々に囃し立てる。


 「おー、また始まったな、今夜も元気だ」


 「若いなぁ、あの飲みっぷりは活きが良い証拠だ」


 「いいぞ、もっと飲め! 美味くなれよ!」


 まるで我が子の成長を微笑ましく見守るかのような、圧倒的な肯定感がそこにはあった。


 「やっぱりこの街、文化が根本から狂ってる!!」


 クルスが絶望の声を上げる。


 その時、それまで腕を組んで静観していたナミキが、すっと静かに立ち上がった。


 「ほう……なかなかの大物だな、こいつは」


 ごくごくごくごくっ、と酒うなぎは未だ夢中でビールを貪り食っている。


 周囲の状況など一切目に入っていない、完全な無警戒状態。ただひたすらに、目の前の至高のアルコールへと溺れていた。


 その瞬間、ナミキが腰の引き締まった鞘から、一本の細長い包丁を静かに抜いた。


 すらり、と金属が擦れ合う冷たい音が響く。

 夜空に浮かぶ月明かりを鋭く反射して、その白刃が妖しく光を放った。


 その刹那、屋台を包み込んでいた空気が、肌がヒリつくほどに一変した。


 さっきまで下品に、豪快に笑い飛ばしていた酔っ払いの親父とは到底思えない。


 その瞳は、獲物を確実に仕留める冷徹な、そして一寸の狂いも許さない本物の超一流職人のそれだった。

 サクがその変化を敏感に察知し、息を呑んで小さく呟く。


 「……ちょっと、信じられないくらい速いわよ、あの親父」


 次の瞬間、目の前にいたナミキの巨体が、まるで幻影のようにその場から掻き消えた。


 「え?」

 クルスが間抜けた声を上げる。


 ただ一瞬、シュン――という、空気を鋭く切り裂くような微かな音だけが耳をかすめた。


 そして。

 とんっ、と軽い足音が響く。


 気がつけば、ナミキは何事もなかったかのように元の位置へと戻り、どっしりと佇んでいた。


 彼の腰にある包丁は、すでに完全に鞘へと収まっており、抜いたことすら錯覚だったのではないかと思わせるほどだった。


 あまりの早業に、その場に完全な沈黙が支配する。


 「……今、一体何をしたの?」


 ゆうこが目を細め、静かに尋ねた。

 ナミキは何も言わず、ただ不敵な笑みを浮かべて、先ほどのジョッキを顎で指差した。


 三人が恐る恐るそのジョッキの中を覗き込むと、信じられない光景が広がっていた。


 さっきまでビールを貪り食っていたはずの酒うなぎが、ジョッキの淵に、ぺたり、と信じられないほど綺麗に、一ミリの狂いもなく美しく開かれた状態で横たわっていたのだ。


 「は……?」

 クルスが完全に思考を放棄して固まる。


 取り除かれた骨。

 綺麗に処理された内臓。

 そして、一切傷のない、つやつやとした極上の身。


 そのすべてが完璧だった。まるで、そのウナギは最初からそういう形の工芸品であったかのように、あまりにも美しく、芸術的に捌かれていた。

 

 ビールを飲み干した瞬間の動きを捉え、水中でその身を開くなど、もはや人間の業とは思えない神技だった。


 「がっはっは! これぞナミキ流、一瞬の焼き前捌きだ!」


 親父は再び豪快に笑いながら、綺麗に捌かれた酒うなぎを網の上へと移した。


 「さあ、ビールをたっぷり吸い込んで、身も最高に締まったぞ! 極上の宴会の始まりだ、お前ら、最高の火加減で焼き上げな!」


 ゆうこはその見事な職人技とウナギを見つめ、ゴクリと喉を鳴らした。


 「トングを貸しなさい、サク、クルス。ここからは一秒の油断も許されない、私とウナギの真剣勝負よ……!」


 こうして、狂気と美味に満ちた港町の夜は、いよいよ本番を迎えるのだった。



挿絵(By みてみん)


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