第52話『ビールの国』
ふわり、と生温かい風が吹いた。
それは海からの湿気を含んだ風であり、同時にこの活気あふれる港町独特の、雑多な喧騒を運んでくる合図でもあった。
しかし、その風に混じって、どこか香ばしく、暴力的とも言えるほどに食欲をそそる匂いが流れてくる。
じっくりと熱せられて焼ける芳醇な脂の匂い。
じゅわじゅわと音を立てて煮詰まる、甘辛い極上のタレの匂い。そして、それらを包み込むような、香ばしい炭火の燻煙の香り。
その瞬間、ゆうこの鼻がぴくりと愛らしく、しかし獣めいた鋭さで動いた。
彼女はその場に釘付けになったように足を止め、完全に思考を停止させたかのように、ただ一点を見つめて沈黙する。
そんな様子を見て、隣にいたサクが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「静かに」
ゆうこは普段の彼女からは想像もつかないほど、冷徹で真剣な表情を浮かべて短く告げた。
「今、この世界で最も大事なものを探知してる」
「何その索敵スキルみたいな言い方。不穏なんだけど」
サクが呆れたようにツッコミを入れるが、ゆうこはそれを完全に無視して無言で立ち上がった。
そして、すんすんと鼻を鳴らし、さらにすんすんすんと熱心に空気を吸い込みながら、まるで優秀な猟犬のように匂いの源流を辿り始める。
「先生? ちょっと、どこに行くんですか?」
背後からクルスが戸惑ったような声を上げる。
「黙ってついてきなさい」
「はい」
ゆうこの圧倒的な威圧感に気圧されたのか、なぜかクルスは直立不動の姿勢のまま、素直に従って歩き出した。
ゆうこはまるで何かに導かれるかのように、賑やかな港通りをふらふらと歩いていく。
一歩、また一歩と足を進めるごとに、その香ばしい匂いは確実に濃くなっていく。
そして、入り組んだ路地の角を曲がった、その瞬間だった。
視界の開けた先に、煌々と明かりを灯した一軒の賑やかな屋台が姿を現した。
激しく火花を散らす炭火。
もうもうと立ち昇る白い煙。
そして、太い鉄串に豪快に刺さった、見たこともないほどに肉厚で長い魚。
じゅううううっ――と、耳を心地よく刺激する音が響き、パチパチと音を立てて脂が爆ぜる。
そのたびに特製のタレが炭火に滴り落ち、さらに強烈な香ばしい匂いが周囲の空間一帯へと広がっていく。
その賑やかな屋台の軒先、古びた赤ちょうちんの下には、大きな文字で
【酒うなぎの店 ナミキ】と書かれた年季の入った木の看板が、夜風に揺れていた。
その光景を目にした瞬間、ゆうこの動きがピタリと止まった。まさに完全停止、指一本すら動かさない。
「……」
「先生?」
クルスが心配そうに声をかけるが、反応はない。
「……」
「あの、先生?」
もう一度呼びかけられて、ゆうこはロボットのようになめらかに、ゆっくりと振り返った。
その顔は、これまでの過酷な旅のどの局面で見せたものよりも、今まで誰も見たことがないくらいに真剣そのものだった。
「サク」
「な、なによ。その怖い顔」
サクが思わず一歩身を引く。
「私、この国が世界で一番好きかもしれない」
「判断が早すぎるわ!!」
すかさずクルスが頭を抱えて叫んだ。
「この港町に到着してまだ三分ですよ!? まだ街の治安も、どんな国かも何も調べてないのに!」
「だって、ウナギよ? この匂い、間違いなく極上のウナギよ?」
「国を好きになる理由が単純かつ食欲に直結しすぎてる!!」
クルスが絶叫する中、屋台の奥から「がっはっは」と豪快に笑う声が響いた。
「おっ、そこの嬢ちゃん、なかなか分かってるじゃねえか!」
声の主は、その屋台を切り盛りしているらしい、筋骨隆々の親父だった。親父は自慢げに真っ赤に燃えた炭火を指さした。
「うちの酒うなぎはな、この港町どころか、世界一の絶品だぞ」
じゅううううっ――と、タイミングよく再び香ばしい音が鳴り響く。
その瞬間、ゆうこの目がこれ以上ないほどに爛々と輝いた。
「ください。今すぐ、ありったけください」
「おう、毎度あり!」
親父は威勢よく即答した。
だが、そこから奇妙な時間が流れた。
親父は威勢よく返事をしたものの、なぜかそこから一歩も動かない。
ウナギを焼き始める様子もなければ、トングや新しい串を持つ気配すら一向になかった。
ただ太い腕を組み、不敵な笑みを浮かべてニヤニヤと三人を見つめているだけだ。
「……?」
さすがのゆうこも不思議に思い、小首を傾げた。
「あの……焼かないの?」
「焼くぞ? 当然だ、焼かなきゃ食えねえからな」
「じゃあ、早く焼きなさいよ。お腹が空いて倒れそうなの」
「だから、誰が焼くんだ?」
「アンタが店主でしょうが!」
ゆうこが当然のツッコミを入れると、親父は再び、お腹の底から「がっはっは」と豪快に笑い飛ばした。
「バカ言え、焼くのは客の仕事だ!」
刹那、その場に奇妙な沈黙が流れた。
「……は?」
ゆうこの天才的な脳が、あまりの理不尽さに一瞬完全にフリーズする。
その時だった。すぐ隣の席から、鼓膜を震わせるほどの凄まじい絶叫が聞こえてきた。
「おらぁぁぁ!! まだだ!! まだ裏返すな俺ぇぇぇ!! ここで我慢できなきゃ男じゃねえ、皮目をしっかり焼き切るんだよぉぉぉ!!」
あまりの熱量にゆうこ達が勢いよく振り向くと、そこにはエプロンを身にまとった、かなり出来上がっている酔っ払いの男がいた。
男は血走った目で、自分の目の前の網に乗ったウナギを、なんと自分で焼いていた。
しかもその表情は真剣そのもの。
異様なほど、世界を救う戦いにでも挑んでいるかのように真剣だった。
額に大量の汗を浮かべ、炭火の熱に顔を火照らせながら、男は低く呟く。
「焦るな……ウナギとの対話だ……火の声を聴け……」
「誰と戦ってるのよ、あの人」
ゆうこが思わず、引きつった声で突っ込みを入れる。
気になってさらに屋台の奥の席へと視線を這わせると、驚いたことに、別の客も血眼になってウナギを焼いていた。
「違う違う違う!! 火が強すぎる!! 今日の炭はまだ火が若いんだよ! これじゃあ中に火が通る前に表面が焦げちまうだろ!」
「火が若いって何だよ! 炭火の年齢なんて聞いたことないですよ!」
今度はクルスが叫ぶ。
さらにその隣の席では、一人の男がうっとりとした恍惚の表情を浮かべながら、丁寧に刷毛でタレを塗っていた。
「見ろよ、この芸術的な照り……今日の俺は間違いなく焼きの神だ……」
「完全にプロの職人じゃない。何なの、この空間」
サクが完全にドン引きし、肩をすくめている。
見渡せば、和気あいあいとした家族連れも、怪しげな商人も、荒々しい船乗りも、全員が死に物狂いでウナギを焼いていた。
誰一人として、店主に焼かせてのんびり待とうなどという甘い考えを持つ者はいない。
じゅううううっ、パチパチッ。
あちこちから煙が立ち昇り、港の夜空へ香ばしい匂いが渦巻いて広がっていく。
ゆうこは深い戸惑いを抱えながら、改めて腕を組む親父を見た。
「……つまり、どういうこと?」
親父はこれ以上ないほど誇らしげに、自慢の胸を張った。
「うちは完全セルフサービスだ!」
「格調高いウナギ屋を、安価な焼肉屋みたいに言うな」
「当たり前だろ! 酒うなぎってのはなぁ、他人に焼いてもらうんじゃねえ、自分の手で育てるもんだからな!」
「何その独自の、面倒くさい食文化」
ゆうこが呆れるのも無理はなかったが、親父はさらに熱弁を振るい、言葉を続けた。
「いいか嬢ちゃん。焼きが下手なら、どれだけ極上の素材でも不味くなる」
「うん」
「逆に、焼きが上手ければ、世界最高の味が完成する」
「うん」
「だからこそ、美味いか不味いか、その責任も感動も全部、自分持ちなんだよ!」
「……悔しいけど、妙に説得力のある良いことを言うじゃない」
ゆうこが少し感心したように目を細めると、親父はカウンターに置かれた大容量のジョッキを高く掲げた。
「このビールの国ではな! ウナギを口に入れる前から、自分で焼くっていう最高の宴会が始まってるんだよ!」
その言葉を合図にしたかのように、周囲の客たちが一斉に大歓声を上げた。あちこちで、これこそが至高の娯楽だと言わんばかりに盛り上がり、乾杯を交わす大きな声が響き渡る。
ジョッキとジョッキが激しくぶつかり合う、小気味よい音が鳴り響き、豪快な笑い声が炭火の煙とともに夜空に溶けていく。
ゆうこは少し呆れ、肩をすくめながらも、どこか楽しそうに周囲の熱狂を見回した。そして、ふっと口元を緩めて不敵に笑う。
「なるほどね。悪くないシステムじゃない」
サクがそれを見逃さず、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「あれ? もしかして、さらにこの国が好きになってきた?」
「かなりね。自分で育てるウナギなんて、燃えるじゃない」
ゆうこの即答を聞いた瞬間、その横でクルスがガタガタと震え、顔を真っ青にさせた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「何よ、クルス。うるさいわね」
「大変なことに気づいてしまったんです!
経験上、先生が『この国、好きかも』って気に入る国って、だいたいろくでもない無法地帯か、文化が狂ってる場所なんですよ!」
「失礼ね、私はいつだってまともよ」
ゆうこが抗議の声を上げたその時だった。親父がニヤリと笑い、三人の目の前のテーブルへ、生の酒うなぎをどんと置いた。
それはつやつやとした美しい光沢を放ち、信じられないほど丸々と脂の乗った見事な一匹だった。
「ほれ、お待ち遠さま」
続けて、真っ赤に熾った最高の炭火が網とともに置かれる。
「あとは自分たちの腕を信じて、好きに焼け!」
再び、三人の間に沈黙が流れた。
じっと置かれた生のウナギを見つめ、三人はお互いの顔を見合わせた。
そして、その中で真っ先に、好奇心に満ちた目で前へ踏み出したのは――サクだった。
「へえ、面白そう。私が最初に焼いてみてもいい?」
「絶対にやめなさい。触るんじゃないわよ」
ゆうこは恐ろしいほどの反射神経で、即座にサクの手を叩いて止めた。
なぜなら、サクが目を輝かせて放つ「面白そう」という言葉は、ここまでの過酷な旅において、何度も冗談抜きで国家規模の災害やトラブルの引き金になっていたからだ。
そんな危険人物に、神聖なるウナギの調理を任せるわけにはいかなかった。
親父はそんな三人の微笑ましくも緊迫したやり取りを見て、がっはっはと腹を抱えて笑った。
「おいおい、ずいぶんと仲が良いじゃねえか、お前ら」
そう言って、親父は腰に巻いていた使い古しの手ぬぐいで、がっしりとした両手を拭いた。
「そういや、まだ名乗ってなかったな、お前ら」
親父は自分の分厚い胸を、どんっと大きな音を立てて叩いた。
「俺ぁナミキだ」




