第51話 『硝酒鎖(ガラス・チェイン)・多重展開』
◇ ◇ ◇
それから、さらに数時間が経過した頃。
クルスはすでに回転を微速に落とし、ガラスの足場の上で、魂が口から抜け出たような虚無の表情を浮かべていた。生きているのが不思議なレベルである。
「なぁ、先生……。俺……これ、もう確実に人間やめてますよね……?」
「そうね……客観的に見て、半分くらいは別のクリーチャーに変異してるわね」
「やっぱりやめてるじゃないですか……。俺の純潔と人間性が、あの夜空に散ったんだ……」
クルスが絶望に打ちひしがれていると、サクがふと前方の暗闇を見つめ、目を細めた。
「……あ、見えてきたわよ」
「え?本当?」
ゆうこも重い腰を上げ、ようやく前方へと顔を向けた。
広大な夜の海の向こう側。水平線のあたりに、なにやら異常に眩い、きらびやかな黄金色の光が見え始めていた。
最初は針の穴ほどの小さな光の点に過ぎなかった。だが、クルスが慣性で近づくにつれ、その光の"異常さ"が徐々に明確になっていく。
――光っているのだ。
特定の街や灯台ではなく、そこに存在する大陸の輪郭全体が。
まるで、注ぎたてのビールの表面でシュワシュワと弾ける、無数の泡のように。絶え間なく明滅し、弾けるように輝いている。
「……なによ、一体あれは。あんな土地、世界のどこを探しても聞いたことがないわよ」
ゆうこが呆然と呟く。さらに距離が縮まると、驚くべきことに、風に乗って遥か彼方から凄まじい音量の「音」が聞こえてきた。
地響きのような大歓声。
楽しげな笑い声。
大勢の人間が肩を組んで歌うような合唱。
絶え間なく響く、何万回分ものガラスがぶつかり合う乾杯の音。
そして、夜空を彩る無数の大輪の花火。
それはまるで、都市どころか、大陸そのものが一つの巨大な居酒屋になって年中無休の宴会を繰り広げているかのような、常軌を逸した光景だった。
サクは子供のように目を輝かせ、嬉しそうに両手を打った。
「間違いないわ、あれこそが私たちの目的地――『ビールの国』よ!」
彼女の言葉に応じるかのように、その瞬間。
どぉぉぉぉぉん!!!
鼓膜を震わせる轟音と共に、見たこともないほど巨大な黄金色の花火が夜空へ打ち上がった。
ビールの泡を模したようなその美しい花火が弾けると同時に、港の方から、馬鹿みたいにデカい、地鳴りのような歓声が響き渡る。
『新月の夜に、乾杯だァァァァァァァ!!! 飲めや歌えやぁぁぁ!!!』
「うるっっっさ!!!何キロ先まで音を響かせてるのよあいつら!!」
ゆうこが即座に全力のツッコミを叩き込む。
一方のクルスは、まだ微速回転を続けながら、涙目でぽつりと呟いた。
「嫌な予感……いや、これまで以上の、人生最大の嫌な予感しかしない……」
そして悲しいかな、クルスが抱くその手の不吉な予感は、これまでの旅路において、だいたい百パーセントの確率で的中していた。
ぶおおおおおおおおおん!!!
最後の力を振り絞るように、黄金色の酒気を派手に撒き散らしながら、クルスは慣性の法則に従って『ビールの国』の領空へと突入してしまった。
「着陸ゥゥゥゥゥ!!誰か着陸の方法を教えてくれぇぇぇ!!」
「ちょっとクルス、止まれるの!?あのコンクリートの港に激突する気!?」
「知りませんよそんなこと!!俺だって止まりたいです!!」
「終わってるわ!この乗り物!!」
そんな爆音を響かせる謎の飛行物体に、港で宴会をしていた住人たちがようやく気づき、一斉に空を見上げた。
クルスもまた、涙目でその大勢の酔っ払いたちを見下ろす。
「……あっ」
運悪く、最前列にいた筋骨隆々の男と、空中でバッチリと目が合ってしまった。
次の瞬間、港のあちこちから、ビールジョッキを掲げた男たちの驚愕の叫び声が上がった。
「おい見ろ!!空を何かが飛んでるゥゥゥ!!」
「なんだありゃァァァ!!人間がブリッジしたまま飛んでやがるぞ!?」
「新種の酒魔獣か!?新手のテロか!?」
「違いますゥゥゥ!!しがない医療従事者ですゥゥゥ!!」
クルスの弁明も虚しく、彼は凄まじい速度で夜空を突き進んでいく。
ぶおおおおおおおおおおおおん!!!
「速っっっっっっ!?ちょっと、これ本当に死ぬレベルの速度なんだけど!?」
ゆうこの白い白衣が、凄まじい暴風を受けてばっさばっさと派手にはためく。
サクが作り出したガラスの足場も、限界以上の速度による空気抵抗に耐えかねて、みしみしと悲鳴のような音を立てて軋んでいた。
クルス本人はといえば、もう半泣きどころの騒ぎではない。顔面の皮膚が風圧で後ろに引っ張られ、凄まじい形相になっていた。
「止まらなァァァァァい!!!壁が、壁が迫ってくるぅぅぅ!!!」
「でしょうね、知ってたわよ!!」
ぶおおおおおおおおおん!!!
加速は一向に衰えない。むしろ、先ほど背後で起きた酒気爆発の衝撃波が追い風となってしまい、突入速度はさらに増している有様だった。
このままノーブレーキで港の頑丈な建物に突っ込めば、一行の命は確実にここで終わる。
その時だった。
それまで静観していたサクが、意を決したように静かに立ち上がった。その美しい銀髪が夜風に激しくなびき、彼女の瞳に月光が宿る。
「……ふふ、大丈夫よ、みんな」
「え?」
サクは焦る二人を余所に、不敵な笑みを浮かべてにやりと言い放った。
「私ね、こう見えてもこういう『酔った乗り物』の扱いに関しては、ちょっとしたスペシャリストなの。お任せなさい」
「絶対に一般の家庭では聞きたくないタイプの不穏な経歴ねぇ!?」
ゆうこのツッコミを華麗にスルーし、サクは両手を大きく広げた。
美しい月明かりの下。彼女の細い指先に、魔力が凝縮された透明な、しかし強固な光が集まっていく。
「――《硝酒鎖》・多重展開」
カシャン――!!
先ほどとは桁違いの数、総勢数百本に及ぶ無数のガラス鎖が、夜空へ向けて一斉に解き放たれた。
鎖は街の灯りを美しく反射してきらめきながら、一直線にビール国の港の建造物めがけて、まるで蜘蛛の糸のように伸びていく。
ギャリィン!!
まず太い一本の鎖が、港に設置された巨大な貨物用クレーンの鉄骨へと強固に巻き付いた。
ガギン!!
さらに別の一本が、広場にそびえ立つ巨大な木樽の塔の土台へと絡みつく。
それだけにとどまらず。
鉄製の街灯。
工場の煙突。
港の一等地に掲げられた、巨大なビールのネオン看板。
それらの頑丈な構造物に、サクの放ったガラス鎖が次々とパチンコのように固定されていく。
それらの鎖の終着点は、すべてクルスの身体、および彼らが乗る足場へと繋がっていた。
異変を察知し、クルスの顔が恐怖で引きつる。
「えっ……ちょっと待って、サクさん?これってまさか」
サクは女神のような美しい笑顔を浮かべ、無慈悲に告げた。
「強制減速するわよ。衝撃に備えてね」
「その笑顔が一番怖いんですけどォォォォ!!!」
次の瞬間、サクが広げていた両腕を、全身の力を込めて勢いよく手元へと引き絞った。
ギャギィィィィィィン!!!
空中に凄まじい金属摩擦音のような音が響き渡り、激しい火花が飛び散る。
猛スピードで飛行していたクルスの身体は、四方八方から張り巡らされたガラス鎖によってガチガチに拘束され、文字通り凄まじい"急制動"をかけられたのだ。
「ぎゃああああああああ!!!首が、首がもげるぅぅぅぅ!!!」
激しい酒気。飛び散る火花。巻き起こる暴風。
それらが混ざり合い、夜空に美しい黄金色の螺旋を描きながら、ぽしゃけ医療所の一行は猛烈な勢いで港の上空を滑空していく。
その真下では。
ビール国の住人たちが、全員ジョッキを持ったままぽかんと口を開け、呆然と空を見上げていた。
「……おい、マジで何だありゃ」
「人間が火花散らしながら空飛んでるぞ……」
「新種の空中曲芸か?さすがビールの国だな!」
ガギギギギギギギッ!!!
住人たちの呑気な声とは裏腹に、空中では鎖が千切れる寸前の凄まじい悲鳴を上げていた。
サクもさすがに余裕がなくなったのか、綺麗な白い歯をギリと食いしばって耐えている。
「クルス!!意地でもその股間の回転数を落としなさい!ブレーキをアシストして!!」
「だからどうやって落とすんですかぇぇぇぇぇ!!回り出したら止まらないのが俺の仕様ですよ!!」
「気合いよ!!根性を見せなさい!!」
「この土壇場でまさかの精神論ですかー!?」
横揺れする足場にしがみつきながら、ゆうこも決死の表情で叫ぶ。
「サク!!減速するのはいいけど、絶対に港の建物を壊さないでよ!?器物破損で捕まりたくないわよ!」
「努力はするわ!!」
「努力目標で済ませるんじゃないわよ!! 確約しなさい!!」
ぶおおおおおおおおおん!!!
クルスが白目を剥きながら、人生最後の力を振り絞ってブリッジの筋肉を収縮させる。
その涙ぐましい努力が実を結んだのか、彼の放つ酒気の回転が、少しずつ、確実に弱まり始めていった。
それに伴い、一行の高度がじわじわと下がっていく。
夜空に火花が激しく散り、何十本ものガラス鎖がパキンパキンと悲鳴を上げて砕け散る。
そして――サクが、残された最後の数本のメインチェーンを、両手で強く引き抜くように引いた。
「これでお終い……止まりなさいッ!!!」
ぎゅるるるるるるるるっ!!
ブチンッ! ブチンッ!
全てのガラス鎖が役目を終えて一斉に弾け飛ぶ。
それと同時に、クルスの股間プロペラが完全に沈黙し、凄まじかった推進力が一気にゼロになった。
ふわっ――。
信じられないことに、あれほどの暴走飛行を見せていたガラスの足場は、サクの見事な手綱捌きによって、港の石畳へと静かに、まるで綿毛のように優しく降り立ったのだった。
訪れる、圧倒的な沈黙。
ただ、港に吹く心地よい夜風だけが、一行の髪を揺らしていた。
足場の上で、クルスはブリッジを解き、床に『大』の字の形になったまま、ぴくぴくと小刻みに震えていた。その顔は完全に真っ白に燃え尽きている。
「……ねえ、クルス。生きてる?」
ゆうこが、膝の震えを必死に抑えながら、疲れ切った声で生存確認をした。
「ええ……奇跡的に。無茶苦茶な運転の割には、五体満足です」
サクが満足そうに頷き、ゆうこがホッと胸を撫で下ろした、まさにその時だった。




