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第50話『股間エンジン、給油完了』

 ◇ ◇ ◇


 あの不条理な夜のフライトが始まってから、すでに十二時間が経過していた。


 太陽はとっくに沈み、視界のすべてを漆黒に染め上げた夜の海。その上空を、クルスは猛烈な勢いで飛び続けていた。


 ぶおおおおおおおおおん……。


 夜空に響き渡るのは、およそ人間が出していいはずのない奇怪な回転音だ。

 

クルスはあろうことか、見事なまでのブリッジ姿勢を維持したまま、股間から凄まじい密度の酒気を撒き散らして高速回転していた。


 「俺、これ絶対、後世の歴史書に不名誉な形で残るやつですよねぇぇぇぇ!!」


 風圧で顔を歪ませながら、クルスは涙目で絶叫する。


 そのあまりにも哀れで、かつあまりにもマヌケな姿を見下ろしながら、サクは目尻に涙を浮かべてけらけらと笑っていた。


 「残るでしょうねぇ、間違いなく。異世界の奇跡として語り継がれるわよ」


 サクが楽しそうに応じる傍らで、ゆうこは完全に魂が抜けたような顔をしていた。


 ゆうこはサクのスキルによって形成された、ガラス鎖の半透明な足場に力なく座り込んでいる。


 その目はまるで、市場の氷の上に並べられた死んだ魚のように濁りきり、遥か下方に広がる海を見つめていた。


 「……ねえ、ちょっと。なんで私は異世界にまで来て、生身の人間ヘリコプターに運ばれて空を飛ばなきゃいけないのよ。おまけに推進力が酒気って何?前代未聞のアルコール汚染飛行なんだけど」


 「先生ぇぇぇ!!愚痴を言っている暇があるなら、そこはせめて俺の頑張りを肯定してくださいよォォォ!!こっちは命がけで回ってるんですから!!」


 ぶおおおおおん!!


 クルスの悲痛な叫びとともに、彼から放出される酒気の回転軸が、さらに夜空の奥深くへと伸びていく。

 それと同時に、強烈な風圧を受けて、平穏だったはずの海面が激しく波打ち始めた。


 すると、次の瞬間だった。

 ぼこっ。

 不気味な音を立てて、黒い海の一部が白く泡立った。


 「……え?何今の音」


 ゆうこが眉をひそめた直後、どばぁぁっ!! という凄まじい轟音と共に、巨大な泡の柱が海面から夜空へと噴き上がった。


 「うわっ!?何これ、水しぶき!?」


 クルスが目を丸くする中、まるで極大の炭酸飲料を開封したかのような、しゅわしゅわとした飛沫が夜空一面に弾け飛ぶ。

 驚くべきことに、その飛沫からは濃厚なアルコールの香りが漂っていた。


 海そのものが、まるで巨大な樽の中で急速に発酵しているかのような異常事態だ。


 「なによこれ、海が炭酸水になってるじゃない!」

 「あー、あれね。『酔乱海流すいらんかいりゅう』よ」


 ゆうこが混乱する中で、サクだけが相変わらずピクニックにでも来たかのように楽しそうな声を出す。


 「クルスの出す酒気濃度が規格外に高すぎてね。その影響で、下の海そのものが過発酵を起こして暴走しちゃってるのよ。おもしろい現象ね」


 「海が飲酒するな!!生態系が崩壊するでしょうが!!」


 ゆうこの鋭いツッコミが夜空に木霊する。  

 しかし、海の暴走はそれだけでは収まらなかった。


 ごぼごぼごぼっ――。


 不気味な重低音を響かせながら、海面からさらなる巨大な影が次々と浮上してくる。それは月光を浴びて妖しく輝く、半透明の不気味な球体だった。


 ぷるぷる、と軟体生物特有の不気味な弾力を持ったその身体の中には、なぜかたっぷりと琥珀色の液体が満たされており、波に合わせてタプタプと揺れている。


 「……クラゲ?にしては、中身がどう見ても美味しそうなビール色なんだけど」


 「『酒海月さかくらげ』ね」


 ゆうこの疑問に、サクが人差し指を立てて親切に説明を加える。


 「その名の通り、空気中や海中の酒気を主食とする魔物よ。普段は海の底で静かにしてるんだけど、これだけ上質な酒気が漂ってくると、我慢できなくて出てきちゃうのよね」


 サクが言葉を終えたその瞬間、浮かび上がってきた数十匹のクラゲたちが、一斉にその触手を身震いさせ、標的を定めるようにクルスへと視線を向けた。


 いや、正確には彼らの目にあたる器官はないはずだが、明らかにその敵意と食欲はクルスの股間に集中していた。


 張り詰めた沈黙が、夜の空中を支配する。


 「……ねえ、先生」


 「何よ、嫌な予感がするから話しかけないで」


 「気のせいじゃなければ、俺、あのクラゲたちから完全に『極上の餌』としてロックオンされてませんかね……?」


 クルスの予感は、最悪の形で的中した。


 次の瞬間、ぶわぁぁぁぁっ!!と海を割るような音を立てて、クラゲの群れが一斉に跳躍し、クルスめがけて猛烈な突撃を開始したのだ。


 「うわぁぁぁぁぁ!!来るな!こっちに来るなぁぁぁぁ!!」


 クルスが半狂乱で叫ぶ中、夜の海から半透明の巨体が次々と、まるでゴムボールのように弾んで浮かび上がってくる。


 ぶよん、ぶよん、と不気味な音を立てて迫り来るクラゲたち。月明かりを透かしたその美しい身体の中では、度数の高そうな琥珀色の液体がゆらゆらと揺れている。

 

 しかし、その優美な見た目とは裏腹に、迫り来る触手の一本一本には、触れたものを泥酔させる発酵酒気が不気味に纏わりついていた。


 そして――ぶわっ!!


 先頭を走る一匹が、容赦なくその長い触手を鞭のようにしならせ、クルスに向かって伸ばした。


 「ぎゃっ!?」

 ぺちぃん!!


 乾いた音が響き、粘着質の触手がクルスの右頬へとクリーンヒットする。

 その衝撃と同時に、ぼわぁっ!!と凝縮された酒気が彼の顔面で爆発した。


 「うわっ!?っつ、酒臭っ!!これアルコール度数何パーセントだよ!?」


  強烈な酒気の衝撃を受け、クルスの完璧だったブリッジのバランスが大きく乱れる。それに伴い、プロペラの役割を果たしていた回転軸がガタガタとブレ始めた。


 ぶおんっ!!


 「ちょ、待っ、ちょっと待ってください! 回転軸がズレて制御が効かァァァ!!」


 さらに最悪なことに、クルスが体勢を崩した隙を逃さず、別方向から新たに二匹のクラゲが接近してくる。彼らはぬるり、と空中を滑るように動いていた。


 クラゲであるにもかかわらず、水を得た魚のように泳ぐのではなく、まるで重力を無視して大気中を"漂っている"かのようなその不気味な挙動が、余計に恐怖をそそる。


 「クルス、パニックになってる場合じゃないわよ!右からも二匹来てる!」


 ゆうこが立ち上がり、迫り来る影を指差して叫ぶ。


 「しゅわぁぁ!!」


 その危機を救うべく、ゆうこの足元からマスコットキャラクターのような謎の生物、しゅわ丸が勢いよく飛び出した。


 しゅわ丸はぷるんっ!!と小さな身体を可愛らしく弾ませると、クラゲたちに向けて口から勢いよく泡の弾丸を連射し始めた。


 「しゅわっ!!しゅわっ!!しゅわわっ!!」


 放たれた高圧の炭酸泡が、迎撃を試みるようにクラゲの身体へ次々と直撃する。


 ぼふっ!!

 直撃を受けた一匹が炭酸の刺激に耐えかねたのか、バランスを崩してくるくると錐揉み回転しながら、哀れに海へと落下していった。


 だが、健闘もそこまでだった。残された十数匹のクラゲたちが、一斉にその標的を小さな戦犯――しゅわ丸へと切り替えたのだ。

 再び、冷たい沈黙がその場を支配する。


 「しゅわ……?」

 しゅわ丸が冷や汗を流しながら首を傾げた、次の瞬間だった。


 ぶわぁぁぁっ!!


 「しゅわぁぁぁぁぁ!?」


 怒り狂った大量の触手が、網の目のようになりながらしゅわ丸へと殺到する。


 「おっと、これ以上はまずいわね」

 サクがようやく本腰を入れるように、不敵な笑みを浮かべて指をパチンと鳴らした。


 「――《硝酒鎖ガラス・チェイン》」


 カシャンッ!!

 澄んだ硬質な音が響くと同時に、月光を鋭く反射する無数のガラスの鎖がサクの手元から放たれ、空中を高速で蛇のように駆け抜けた。


 ギャリィン!!


 ガラス鎖は精密な誘導でしゅわ丸を襲おうとしていた一匹の触手を瞬時に絡め取ると、そのまま圧倒的な力で空中で引き裂いた。


 バリンとクラゲの肉体が弾け飛び、中に溜まっていた濃厚な酒気が飛散する。美しい琥珀色の液体が、夜空にきらきらと輝く雨となって飛び散った。


 だが、敵の物量はそれを上回っていた。


 「まだ下から来るわよ!信じられない大きさのが!」


 ゆうこが悲鳴に近い声を上げる。海面が大きく盛り上がり、これまでとは比較にならないほど巨大な影が、ゆっくりと浮上してきたのだ。


 今度のクラゲは、あまりにも規格外だった。

 明らかに。


 そこら辺の二階建ての一軒家が丸ごと浮かんでいるようなサイズ感だった。


 「でっっっか!!あれはもうクラゲじゃなくて浮遊要塞じゃないの!?」


 クルスが目を剥く中、その家サイズの巨体が、空中でおもむろに傾いた。


 身体のガラス繊維のような皮膚を通して、内部に溜まった数トンはあろうかという琥珀色の液体が、どろりと重々しく揺れるのが見える。


 それを見たゆうこの背筋に、これまでにない強烈な悪寒が走った。


 「……ちょっと、なんかものすごく嫌な予感がする。あの傾き方、絶対にまともな攻撃じゃないわよ」


 次の瞬間、彼女の不吉な予感はまたしても現実のものとなった。


 どばぁぁぁぁっ!!


 巨大クラゲの底面に位置する噴射口から、信じられないほどの高圧で圧縮された、超濃厚な発酵酒気がビームのように噴射されたのだ。

 

 その直撃コースにいたのは、運悪く回転軸を戻そうと必死になっていたクルスだった。


 「うおおおおおおおっ!?」


 高圧の酒気流が、クルスの股間へダイレクトに直撃する。


 ぶおおおおんっ!!


 その凄まじい衝撃により、ただでさえ早かった彼の回転速度が、さらに限界を超えて加速を始めた。


 「ひ、ぎゃあああ!!加速したァァァァ!!」


 「え!?なんで加速してんのよ!?」

 ゆうこが混乱して叫ぶと、クルスのクルスは残像が見えるほどの速度で回転する。


 「あのクソクラゲ、俺の酒気を吸うどころか!!自分の持ってる超高濃度の酒気を、逆に俺のエンジンに直接給油してきやがりましたァ!!」


 クルスの股間プロペラは、すでに目視不可能なほどの超高速回転に達し、空中にいくつもの円形の残像セーフティネットを作り出していた。それに伴い、周囲の風圧が爆発的に増大する。


 あまりの突風に下の海面が真っ二つに割れ、周囲を漂っていた中型の酒海月たちが、その風圧だけで木葉のように遥か彼方へと吹き飛ばされていく。


 「うわっ!?ちょっと捕まってないと飛ばされるわ!」


 「待って待って!!これ笑えないわよ!クルス自身がアルコールの竜巻になってるじゃない!!」


 ぶおおおおおおおおおおおん!!!


 轟音と共に、クルスを中心とした純度百パーセントの酒気の暴風が、夜空へ向かって巨大な黄金色の螺旋を描き出した。

 

 そして、その異常な回転流は、周囲に残留していたクラゲの群れを次々とダイソン並みの吸引力で巻き込んでいく。


 ぐるぐるぐるぐるっ!!


 「うわぁぁぁぁ!!なんか得体の知れないクラゲたちを大量に吸い込んで巻き込んでるゥゥゥ!!俺の股間がミキサーになってるぅぅ!」


 巻き込まれたクラゲたちは、まるで全自動洗濯機の中に入れられたかのように、猛スピードでクルスの周囲を回転し始めた。


 そんな地獄絵図のような状況の横で、しゅわ丸だけが楽しそうにガラスの足場でピョンピョンと跳ねている。


 「しゅわーーーっ♡」


 「お前だけなんでそんなに楽しそうなのよ!?空気読みなさいよ!」


 ゆうこがツッコミを入れた、まさにその瞬間。


 サクがゆっくりと、しかし確固たる足取りでガラスの足場の上に立ち上がった。彼女の美しい銀髪が、クルスが発生させた激しい暴風にしなやかになびく。


 「クルス」


 「はいぃ!?何ですかもう、俺の命はあと数分ですよ!?」


 「これだけのエネルギーがあるなら話は早いわ。今のうちにこの海域から一気に逃げるわよ」


 「だからどうやって逃げるんですかぁぁぁぁ!!ブレーキが壊れてるんですよ!!」


 サクはその問いには答えず、カバンからおもむろに、なみなみと中身の詰まった巨大な木樽を取り出すと、それをクルスめがけて思い切り投げつけた。


 「クルス!!大きく口を開けて!!新しい酒よ!!!」


 「アンパンマンみたいなノリで燃料を投げて補給するのやめて下さいいぃぃ!!」


 どばぁっ!!


 サクの精密なコントロールにより、木樽が空中で砕け、中の酒がダイレクトにクルスの口の中へと流し込まれた。アルコールが胃に到達した、次の瞬間。


 ぶおおおおおおおおおおおん!!!


 クルスの股間エンジンが、さらに倍の音量を響かせて咆哮した。


 「ほら、もっと回しなさい!アルコール度数を推進力に変えるのよ!」


 「サクさん!やめて下さい!鬼!!サディスト!!」


 「出力全開!!このまま一気に高度を上げて、雲の上まで突き抜けるわよ!!」


 サクの無慈悲な命令に、ゆうこは顔を完全に青ざめさせて足場にしがみついた。


 「待って、それ絶対、後で急降下するタイプの嫌な加速になるわよね!?」


 「先生、しっかりと足場に捕まって、舌を噛まないように気をつけてね」


 「不吉なフラグを立てるんじゃないわよォォォ!!」


  サクが夜空に向かって、楽しげに声を張り上げる。


 「いくわよ、クルス!!《酒気推進型・回転飛行術》ポコちんヘリコプター、最大出力モード!!」


 クルスはもはや、肉体的にも精神的にも限界を迎え、半泣きで絶叫するしかなかった。


 「うおおおおおおおおおおおおおッ!!もうどうにでもなれぇぇぇ!!」


 ぶおおおおおおおおおおおおおおん!!!!


 回転数はついに理論上の限界を突破。周囲の風圧が爆発を起こし、黄金色の酒気の螺旋が、夜空の雲を切り裂いて一直線に天を貫いた。


 直後、彼らの遥か真下で、海全体が眩い光に包まれる。


 そして――。


 どごぉぉぉぉぉぉぉん!!!!


 巻き込まれたクラゲたちの魔力と過発酵した海が連鎖反応を起こし、凄まじい規模の酒気大爆発が、夜の海を丸ごと引っくり返すように揺らした。


 背後で巻き起こる鮮やかなクラゲの大爆発の光をバックに、クルスを先頭にした一行は、まるで流れ星のような黄金色の尾を引きながら、夜空の彼方へと超高速で急加速していった。


 こうして、ぽしゃけ医療所の一行は、不条理極まりない方法で夜の海を飛び続けたのだった。


挿絵(By みてみん)

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