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第48話『ポコちんヘリコプター航法』

 数秒間。


 本当に、誰も、一言も喋らなかった。

 世界の時間が一瞬だけ停止したかのような、完璧な静寂。


 医療所の奥の部屋からは、常連の酔っ払いが

「おい店主!酒おかわりィ!!」と元気に叫ぶ声が遠くから聞こえてくる。


 マスコットキャラクターのしゅわ丸は、「しゅわ〜♡」とのんきな声を上げながら、自分の体から出た綺麗な泡をパチンと弾けさせていた。


 その、あまりにも平和で、かつあまりにも不条理な喧騒の中で。

 クルスだけが、完全に魂の抜けた、深い絶望に満ちた目をしていた。


 「……神様」

 クルスが、消え入りそうな細い声で問いかける。


 ――『なんじゃ、改まって』


 「俺、前世で何か、世界を滅ぼすレベルの大罪でも犯しましたかね……?」


 「待って。ちょっと待ちなさい」

 ゆうこが再び頭を強く抱え、狂いそうな理性を必死に繋ぎ止めるように割り込んだ。


 「今の私の耳がバグっていなければ、とんでもないワードが聞こえたんだけど。何その最低最悪の移動方法。人類の歴史上、最も下品な航空技術じゃない」


 「っ、ふふ……だ、だめ……お腹痛い……もう名前だけで無理……!お腹ちぎれる……!」

 サクはついに床に転がり、お腹を抱えて大爆笑を始めていた。涙を流しながら床をバンバンと叩いている。


 「サクさん笑いすぎですよ!!少しは俺の尊厳の危機を心配て下さいよ!!」

 クルスが半泣き、というか実質的に涙をボロボロと流しながら叫んだ。


 しかし、アルケラは彼らの抗議などどこ吹く風で、至って真面目な解説を続けた。


 ――『お主たち、見た目のインパクトだけで物事を判断してはならんぞ。理屈は極めて簡単で、かつ科学的じゃ。クルスが体内に秘めた膨大な酒気放出を、腰の高速回転によって完璧に制御し、それを強力な浮力と推進力へと変換する。これによって、重力の束縛を離れ、空を支配する大鳥となるのじゃ』


 「説明の文脈だけ聞くと、ちょっと流体力学っぽくて頭良さそうなのが逆に腹立つわね」

 ゆうこがチッと舌打ちをする。


 「待ってください待ってください!! 今、ものすごく自然に、さらっと聞き捨てならない『高速回転』って単語を言いましたよね!?」

 クルスが身を乗り出して突っ込む。


 ――『うむ、言うたぞい♡』

 アルケラは脳内に、可愛いエフェクト付きの声で返事をした。


 「語尾にハートマークをつけて誤魔化さないでくださいよ!!不気味極まりないわ!」

 クルスの叫びが虚しく響く。


 サクが目元に溜まった涙を指で拭いながら、ようやく呼吸を整えて言った。

 「ねえ、つまりそれって、具体的にはクルス自身がその……プロペラみたいに回るってこと?」


 ――『回るぞい。文字通り、軸となってな』


 「どのくらい回るの?」


 ――『かなり回る。一般的なヘリコプターの主回転翼と同等か、それ以上じゃな』


 「嫌ァァァァァァァ!!!そんなの人間が耐えられる回転数じゃない!!!」

 クルスはついに絶叫し、ガシャーンと派手な音を立てて机に突っ伏した。彼の精神はすでに限界を迎えていた。


 ゆうこは自分のこめかみを指先で強く押さえながら、深いため息を吐き出した。しかし、現実的な問題として大陸を渡らなければならないのも事実である。


 「いや、でも待って……本当にそれ、物理的に飛べるの?ただの拷問じゃなくて?」


 ――『飛べるぞい。我が神の力にかけて保証しよう。過去に一度だけ、完璧に成功した実績があるからのぅ』


 「安全性は?その、事故の確率とかはどうなのよ」


 ――『そこそこじゃ』


 「だから、その『そこそこ』が一番信用ならないのよ!!」

 ゆうこが声を荒げる。


 アルケラは楽しそうに、ケタケタと笑い声を響かせた。


 ――『安心せい、お主たち。我も昔、退屈しのぎに試したことがある。一度だけな、見事に成功して向こうの大陸へ着地できたぞい』


 「一度だけ!?」

 クルスがガバッと顔を上げる。


 「じゃあ、それ以外の失敗例があるんですか!?」


 ――『うむ、八回ほどな』


 「打率が低すぎるわ!!!失敗の方が多いじゃないですか!!!」

 クルスは再び絶望の淵へと叩き落とされた。


 サクはもう椅子から転げ落ちそうな勢いで、再び爆笑の波に飲まれていた。


 「ちょ、ちょっと待って、八回って何!?一体どうやって失敗したのよ!?詳しく教えて!」


 アルケラは懐かしむように、ぽつりぽつりと指を折るような仕草で数え始めた。


 ――『そうじゃな。一回目は、空中で回転方向を逆に間違えてしまい、推進力が真下に向かってそのまま海へ音速で突っ込んだり……』


 「うん……」

 ゆうこが冷や汗を流す。


 ――『三回目は、飛行の途中で体内の酒気が切れてしまい、横回転から突然、制御不能の縦回転になってきりもみ状態になったり……』


 「うん!?」

 クルスの目が飛び出そうになる。


 ――『あとはそうじゃな、着地時に速度を殺しきれず、頭から地面へ向かって矢のように突き刺さり、そのまま地面へ深々とめり込んだりじゃな。いやあ、あの時は抜くのが大変じゃったぞい』


 「全部ただの大事故なのよ!!!生き残っているのが奇跡のレベルじゃない!!」

 ゆうこが叫ぶ。


 クルスが涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、立ち上がった。

 「やっぱ嫌です!!絶対やりません!!俺、まだ若いし、人生諦めてませんからね!!そんな下品で危険な方法で命を落としたら、先祖代々に申し訳が立ちません!」


 だがその時。

 それまで爆笑していたサクが、ふと真顔に戻った。その鋭い観察眼が、アルケラの説明の裏にある「メリット」を見逃さなかったのだ。


 「……でも、ちょっと待って、ゆうこ」

 「何よ。あんたまであの狂気の片棒を担ぐ気?」

 ゆうこが警戒する。


 「見た目の絵面は確かに過去最悪で最低だし、人間性の完全な敗北だけど……移動速度に関しては、めちゃくちゃ速いのよね?」


 ――『うむ。通常の交易船を使ってノロノロと海を渡る場合の、十分の一以下の時間で到着するぞい。つまり、数週間かかる船旅が、これなら半日もかからん』


 「早っ……!」

 ゆうこの顔が、ぴくりと揺れた。現実主義者である彼女にとって、"時間の短縮"というメリットは非常に魅力的だった。


 ――『しかも、先ほど言ったあの恐ろしい【酔乱海流】を、遥か上空から完全にスルーして越えられるのじゃ』


 「うっ……」

 ゆうこの心が、さらに揺らぐ。


 ――『さらにさらに、上空を流れる酒気の風をプロペラ(ポコちん)が直接吸引するからのぅ、飛行中の途中補給も可能。燃料切れの心配もほぼないぞい』


 「ぐっ……!!」

 ゆうこはついに、言葉に詰まった。論理的に考えれば考えるほど、この最低の航法が"最も効率的"であるという結論に達してしまうのが、何よりも悔しかった。


 クルスだけが、その二人の空気の変化を敏感に察知し、顔を真っ青にしていた。


 「せ、先生!?今、ちょっと心が揺らぎませんでした!?まさか採用しようとしてます!? 嘘でしょ!?」


 ゆうこは真顔のまま、腕をガッチリと組んでアルケラに向き直った。


 「……ちなみに、訊くけれど」

 「ちなみにじゃないですからね!?質問を継続しないでください!」

 クルスが必死に遮ろうとする。


 「その……飛行中、乗り心地とかはどうなの?」


 ――『最悪じゃぞい♡ G(重力加速度)が全身に容赦なくかかり、内臓がひっくり返るような感覚を味わえるぞ』


 「ダメじゃない!!やっぱり不採用よ!!」

 ゆうこが即座に却下した。


 その時、それまで大人しく机の上で丸くなっていたしゅわ丸が、突然、ぴょこんっと元気よく跳ねた。


 「しゅわっ!!」

 その可愛らしい鳴き声とともに、しゅわ丸の体から大きな黄金色の泡がふわりと生み出され、宙へと舞い上がった。


 その泡は、部屋の中に吹いたかすかな風に流され――東側にある、窓の方へとゆっくりと吸い寄せられていく。


 夜の海の向こう。

 遥か遠く、暗闇に包まれた、今はまだ見えないはずの彼方。

 まるでその泡が、進むべき道を指し示しているかのように。

 酒場の賑やかな空気が、ほんの少しだけ、静かになった。

 アルケラが、いつになく真面目で、穏やかな、神としての威厳を感じさせる声で呟いた。


 ――『醸造酒大陸は、お主らを待っとるぞ。そこには、お主たちの想像を超える世界が広がっておる』


 黄金色に輝く、最高のビールの泡。

 妖艶な葡萄色の灯りが灯る、ワインの街。

 真っ白な霞が包み込む、伝統の日本酒の郷。

 未知の国々。

 まだ見ぬ、素晴らしいお酒。

 体験したことのない、独自の文化。

 そして――それらを取り巻く、愛すべき狂人たち。


 その全部が、海の向こうで、お主らが来るのを静かに待っているのだ。

 クルスはしばらくの間、じっと床を見つめて沈黙していた。彼の脳裏に、これまでの旅の思い出と、これから始まる冒険への憧れが交錯する。


 そして――やがて、クルスは盛大に、これ以上ないほど強く頭を抱え込んだ。

 「……分かりましたよ!!!分かりました、やればいいんでしょ、やれば!!!」


 「えっ、クルス、本当にいいの?」

 ゆうこが驚きに目を丸くする。


 「ただし!!!絶対に譲れない条件があります!!!」

 クルスは勢いよく立ち上がり、テーブルをドンと叩いた。その目には涙が浮かんでいるが、声には強い決意がこもっていた。


 「この、最悪な航法名!!現地に到着しても、絶対に誰にも言わないでください!! 『どうやって来たの?』って聞かれたら、普通に『魔法の力で飛びました』って誤魔化してください!いいですね!?」


 サクが再び、ぶふっ、と吹き出した。

 ゆうこは、冷酷なまでのスピードで即答した。


 「無理ね」

 「なんでですかァァァァ!!!そこは仲間として協力してくださいよ!!」

 クルスが絶叫する。


 「だって、そんな面白いネタ、現地の人にバラさないなんて私の芸人魂(?)が許さないもの。絶対に面白いじゃない」

 ゆうこはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


 「面白さだけで俺の人間としての尊厳を消費しないでください!!俺のポコちんは見世物じゃないんです!」

 クルスが半泣きで抗議する。


 サクは目元に再び涙を浮かべながら、机をバンバンと激しく叩いた。

 「あははは! 『空からポコちんで来た男』とか言って、現地の吟遊詩人に絶対語り継がれるわよ!英雄の誕生ね!」


 「語り継がれたくないんですよ!!そんな恥ずべき伝説、末代までの恥です!」

 ゆうこは深いため息をつき、おふざけモードを切り替えるように、ぐしゃぐしゃになった地図の東の果てを指先で叩いた。


 「……まあ、その最低な移動手段の話は一旦置いておいて」


 「置いとかないでくださいよ!?俺にとっては今世紀最大の死活問題なんですけど!」

 クルスのツッコミを無視し、ゆうこは話を続ける。


 「旅の準備は必要ね。海越えなんて、私だってこの世界に来てから一度もしたことがないし。向こうの大陸がどういう環境かも分からないもの」


 サクもようやく笑いすぎて痛むお腹を押さえながら、真面目な顔を作った。

 「そうね。最低限の物資は揃えないと。食料、新鮮な水、長持ちする保存酒、それからさっきのGに耐えるための酔い止め薬。あと、予備の大きな木樽もいくつか必要ね」


 「ちょっと待ちなさい。その予備の樽って、一体何に使うのよ。飛行樽は使わないんでしょ?」

 ゆうこが尋ねる。


 「夢とロマンよ」

 サクがキリッとした表情で答えた。


 「全く役に立たないわねぇ、その物資」

 ゆうこが呆れたように肩をすくめる。


 そんな中、クルスが恐る恐る、自身の財布を確認しながら手を挙げた。

 「あの……一番現実的な問題として、お金、大丈夫なんですか?これからの遠征費用とか、物資の購入費とか」


 その瞬間。

 三人の視線が、一斉にテーブルの上に置かれた革製の金貨袋へと集まった。


 再び訪れる沈黙。

 ちゃり……と、クルスがその袋を持ち上げてみる。ずっしりとした重みがあり、中からは金属特有の鈍い音が響いた。


 「……まあ、これだけあれば、しばらくは現地でも生きていけそうですね」

 クルスが少しだけ安心したように息を吐く。


 「甘いわね、クルス。問題はそこじゃないのよ」

 ゆうこは眉間を深く押さえ、苦々しい表情を作った。


 「旅っていうのはね、だいたい事前の計画通りにはいかないの。想定外のトラブルや、謎の罰金、あるいは誰かさんのお酒代で、一瞬にして大金が吹っ飛ぶようにできているのよ」


 「先生、妙に言葉に実感がこもってません? 過去に何か凄惨な経験でもされたんですか?」

 クルスが顔をひきつらせる。


 「私が現代社会という名の地獄で、必死にクレジットカードの明細と戦いながら生きていたからよ。予算なんてものは、破られるためにあるの」

 ゆうこが遠い目をして呟いた。


 サクがにやりと笑い、ゆうこの肩を組んだ。

 「でも、いいじゃない。お金のことはその時考えましょ!せっかく新しい大陸へ行くんだから、地味に行くより、派手にドカンと行きましょ!」


 「あんたの言う『派手』が、一番怖いのよ」

 ゆうこが呆れたように言った――その時だった。


 クルスが。

 すっ……と、突如として静かな動作で立ち上がった。


 「……クルス?」

 ゆうこが不審に思って声をかける。


 彼の様子が、明らかに妙だった。さっきまでの半泣きでギャーギャーと騒いでいた情けない状態とは、完全に空気が違う。


 その顔は、まるで。

 国を救うために命を捨てる特攻隊員か、あるいは、何か重大な世界の心理に到達し、全てを悟ったかのような覚悟を決めた"漢"の顔をしていた。


 酒場の空気が、ピリピリと音を立てて張り詰めていく。


 クルスはゆっくりと、深く、大気の底から空気を吸い込み――

 「俺……やります」


 「えっ」

 ゆうこが声を漏らす。


 「醸造酒大陸、行くんですよね。みんなで、美味しいお酒を見つけに、新しい世界へ」


 「いや、まあ、行くけど……急にどうしたのよ」


 「だったら、ウジウジ悩んでいる時間は無駄です。男が一度、行くと言ったら行くんです」


 クルスはそう言うと、震える自らの手を、ゆっくりとズボンのベルト、そして社会の窓へと伸ばした。


 ゆうこの片眉が、ぴくりと跳ね上がった。


 サクは彼のその動作が何を意味するのか、瞬時に察知した。

 「……待って。本当にここでやる気?」


 クルスは、窓の向こうの遥か東の空を見つめ、遠い目をしていた。


 「男には」

 ごそごそ、と衣類が擦れる音が静かな室内に響く。


 「やらなきゃいけない時が」

 ちゃっ、と、金属製のジッパーが下りる冷たい音がした。


 「あるんです」

 社会の窓が、完全に開放された。


 そして、暗闇の中から、クルスのクルスが、顔を出した。コンニチワ



挿絵(By みてみん)

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