第47話 『海の向こうの三つの国』
◇ ◇ ◇
そして、数十分後。
先ほどまで激しい大騒ぎの舞台となっていた『ぽしゃけ医療所』の片付けを、ようやく終えた三人と一匹は、奥の薄暗いテーブルの周りに集まっていた。
使い古された木製のテーブルの上には、先ほどサクがどこからか引っ張り出してきた一枚の古びた地図――らしきものが、仰々しく広げられている。
「……ねえ」
ゆうこは、じっとその黄色く変色した羊皮紙を見下ろした。眉間に深いシワを刻み込み、まるで未知のウイルスが描かれた報告書でも見るかのような冷徹な視線をそれに向けている。
「これ、本当に地図?私の目が狂っていなければ、ただのシミの集まりに見えるんだけど」
「地図よ。どこからどう見ても、世界の真理を写し取った完璧な航海図じゃない」
サクが当然の権利を主張するように、胸を張って何度も深く頷く。その瞳は、これから始まるであろう新しいお酒との出会いを予感して、すでに尋常ではない輝きを放っていた。
「酔っ払いが居酒屋のトイレットペーパーに描き殴った、ただの落書きじゃなくて?」
ゆうこのツッコミは極めて冷静であり、かつ的確だった。なぜなら、その地図とされる紙の端々には、コーヒーか醤油か、あるいは濃い目のビールをこぼしたような輪染みが無数に広がっていたからだ。
「失礼ね。これは我がぽしゃけ大陸に伝わる、由緒正しい、歴史ある航海図よ。航海士たちが血と汗と、あと主にアルコールを流しながら完成させた結晶なんだから」
サクは全く動じることなく、むしろ誇らしげにその汚れた紙を指先でトントンと叩く。
「じゃあ聞くけど、この右下に細い文字で書き殴られている“ここらへん多分海”っていう、ものすごく投げやりな注釈は何かしら?測量という概念をドブに捨ててない?」
ゆうこが指し示した先には、確かに歪んだ筆跡で、お世辞にもプロの仕事とは思えない適当なメモが残されていた。
「海なんだから、どこまで行っても海で合ってるじゃない。細かいことを気にしていたら、美味しいお酒は飲めないわよ?」
サクはケラケラと笑いながら、ゆうこの正論を完全に受け流す。
「精度が終わってるのよ、最初から最後まで」
ゆうこは大きくため息をつき、これ以上この泥酔航海図の正当性を争うのを諦めた。
改めて地図を観察してみると、その中央には今彼女たちが立っている【ぽしゃけ大陸】が、これまたずいぶんと歪な形で描かれていた。
そしてその東側には、波の絵とも落書きともつかない雑な線が引かれ、広大な海が表現されている。
問題はそのさらに向こう側だ。海の果て、対岸に位置する広大な陸地には、緻密な地形の代わりに奇妙な絵がいくつも描かれていた。
たわわに実った紫色の葡萄の房。
今にも溢れんばかりの真っ白い泡を乗せた、巨大なビールジョッキ。
そして、どこか厳かな雰囲気を醸し出す、真っ白な陶器の徳利。
それらの謎のイラストが、まるでそれぞれの領土を主張するかのように国境らしき線の内側に配置されていた。
「これが……醸造酒大陸、ですか?」
クルスが恐る恐るという様子で身を乗り出し、地図の絵を覗き込んだ。
その両腕にはいまだ痛々しい包帯が巻かれているが、少年の好奇心は隠しきれないようで、目を丸くしてその不思議な大陸の図を見つめている。
「そうね。ビール、ワイン、日本酒の三国がそれぞれ独自の文化を築き上げ、お互いにしのぎを削っているという、夢のような大国が集まる大陸……それが醸造酒大陸よ。私も本の中でしか見たことがなかったけれど、まさか本当に実在するなんてね」
サクの目が、これまでにないほどきらきらと輝き始めた。その表情は、遠足前夜の小学生というよりも、完全に「次の休みにはどこの居酒屋をハシゴしようか」と考えている筋金入りの酒好きのそれであった。
よだれが出かかっているのを、彼女は必死に袖で拭っている。
「ビールの国……黄金の液体……溢れ出る白い泡……毎日がビール祭り……それに合わせる焼き立ての肉……最高のソーセージ……」
サクの口から、ぶつぶつと妄想の単語が漏れ出し始める。彼女の魂はすでにぽしゃけ大陸を離れ、遥か東のビールの楽園へとジャンピング土下座の勢いで飛んでいってしまっているようだった。
「サク、戻ってきなさい。脳内で勝手に乾杯してんじゃないわよ。私たちはまだ、そこへ行くための具体的な移動手段の話すら始めていないわ」
パチン、とゆうこがサクの目の前で鋭く指を鳴らす。その高い音に弾かれるようにして、サクは「はっ!」と我に返り、慌てて口元のよだれを拭った。
「おっと、いけないわ。あまりの神々しさに、魂がお膝元のビールジョッキに吸い込まれるところだったわ。で、問題は移動手段ね。この広大な海をどうやって渡るか、だけど」
サクは何事もなかったかのように真面目な顔を作り、腕を組んだ。
「あの……普通に船を借りて渡るんじゃダメなんですか? 港に行けば、大きな交易船とかが出ていると思うんですけど」
クルスが教科書通りの真っ当な提案を口にしながら、ちょこんと手を挙げた。この狂った世界において、彼の常識的な意見は常に一筋の光のようであった。
しかし、その光は一瞬でかき消されることになる。
テーブルの中央、微動だにせず鎮座していた神の器――アルケラの声が、脳内へ直接響くようなさらりとした口調で、冷酷な現実を告げたからだ。
――『お主、何をのんきなことを言っておるんじゃ。あの海を普通に船で渡ろうなどとしたら、まあまあ死ぬのう』
「まあまあで済ませるな! 死ぬなら完全に死ぬのよ!」
ゆうこは即座に、容赦のないキレのあるツッコミを叩き込んだ。神相手だろうが何だろうが、命の危険をカジュアルに表現するその態度だけは許せなかった。
「何なのよ、その『ちょっと風邪引くわよ』みたいなニュアンスは。あの海には何かあるの? 凶暴な魔物とか、巨大なクラーケンでも生息しているわけ?」
――『うむ、おるぞい。あの海域は普通の生物が生きられる環境ではないからのぅ。まず、海流そのものがアルコール度数四十度を超えて激しく渦巻く【酔乱海流】。上空からは常に強烈な炭酸ガスとアルコール混じりの雨が降り注ぐ【発泡嵐】。視界を完全に奪い、吸い込むだけで急性アルコール中毒を引き起こす【酒気霧】。
……ああ、そうじゃ。あと、たまに人間の巨大な肝臓にそっくりな形をした、禍々しい【肝臓クラゲ】の大群が船底を破壊しにやってくるな』
「最後だけ生理的に嫌すぎるわよ!!何そのグロテスクなクリーチャー!」
クルスの顔面が、アルケラの説明が進むにつれてみるみるうちに土気色へと変わっていった。恐怖のあまり、細い肩が小刻みに震えている。
「じ、じゃあ無理じゃないですか!? 船が出せないなら、どうやって向こうの大陸に行くんですか!?詰みです!遠征は中止です!」
「いやいや、諦めるのは早いわよ、クルス。海路がそれほどまでに危険で、地獄のような環境だっていうなら……そう、空路とかはどうかしら?空を飛んでいけば、海の化け物や海流なんて関係ないじゃない」
サクが名案を思いついたとばかりに、ポンと手を叩いて提案した。
ゆうこは、その言葉に対して不信感に満ちた目を向け、深く眉をひそめた。
「空路? この世界に、そんな便利な飛行船や定期便が存在しているの? どう考えても嫌な予感しかしないんだけど」
――『あるにはあるぞい』
アルケラが、事も無げに答える。
「本当にあるんだ……」
ゆうこはすでに、その解決策がまともなものであるはずがないと、半ば確信していた。
――『ただし、それはお酒を貯蔵するための巨大な木樽に魔力を込め、無理やり空へとぶち上げる【飛行樽】という代物じゃ。それに乗って、上空の激しい酒気の風に吹かれながら、三日三晩、一睡もせずに耐え続けねばならん』
「酔うわ、確実に」
ゆうこが即座に断言した。
「確実に酔いますね。乗った瞬間に三半規管が消滅します」
クルスも涙目で同意する。
「むしろ、それで三日三晩耐えて酔わない奴がいたら、そいつの方が人間としておかしいわね」
サクすらも、その過酷すぎる空の旅には引き気味だった。
三人は同時に沈黙し、テーブルの上の汚れた地図を見つめたまま、深い思考の泥沼へと沈んでいった。船は沈む、樽は酔う。どう考えても安全に醸造酒大陸へ渡るルートなど存在しないように思われた。
その時。
アルケラが、これまでの重々しい雰囲気を一変させるような、妙に楽しそうで、かつ邪悪な響きを含んだ声で言った。
――『まあまあ、そう気を落とすでない。実はな、誰も知らない秘密のルートが、ひとつだけあるぞい。最短で、移動速度も桁違いに速く、おまけに派手で、そこそこ安全な方法がな』
「そこそこ?」
ゆうこの脳内で、最大の警戒シグナルが激しく点滅を始めた。彼女の持つ現代人としての防衛本能が、これ以上ないほどの危険を察知している。
「ちょっと待って、その『そこそこ』って言葉、あなたの口から出ると全く信用できないんだけど。それ、絶対にろくでもないやつでしょ。ろくでもないどころか、人道的にアウトなやつでしょ」
――『クルス』
アルケラはゆうこの警告を完全に無視し、突然、少年の名前を呼んだ。
「ひゃいっ!?」
自分の名前を呼ばれたクルスは、まるで背後に肉食獣が現れたかのように、ビクンと背筋を跳ね上げて直立不動の姿勢をとった。
アルケラの声が、今度は無駄に厳かで、まるで神託を下すかのような神聖な響きを帯びて部屋中に鳴り響く。
――『お主の出番じゃ、少年よ』
「……はい?」
クルスの口から、間の抜けた声が漏れた。
医療所の中に、冷ややかで、そしてひどく重苦しい「嫌な沈黙」がすとんと落ちてきた。
ゆうこが、壊れた機械のようにギギギ……と、ゆっくりとした動作で首を回し、クルスの方を見つめる。
その目には、深い同情と、そして「やはりそう来たか」という諦めが混ざっていた。
一方のサクは、すでに事態を察知したのか、口元をニヤニヤと歪ませ、楽しそうに肩を震わせ始めている。
クルスはたまらず、じりじりと一歩後ろへ下がった。
「え、なんですか。その、世界の終わりを見るような目と、楽しそうな目は。俺、何か悪いことしましたか?」
――『お主の例の技じゃよ。ほれ、体内の酒気を一気に放出して、凄まじい推進力を生み出すあの秘技じゃ。あれを応用すれば、大陸間の移動くらいは、ひとっ飛びで解決できるぞい』
「例の技って、まさか……」
ゆうこは、これから起こるであろう最悪の光景を想像し、思わず両手で頭を抱え込んだ。
サクはすでに限界を迎えているらしく、笑いをこらえるためにクッションに顔を埋めてプルプルと激しく震えている。
当事者であるクルスはといえば、すでにその顔から完全に血の気が引き、今にも泣き出しそうな表情で首を横に振っていた。
「やめてください……本当にお願いですから、それ以上は言わないでください……!」
クルスは懇願するように手を合わせた。
――『何じゃ、我はまだ何も具体的な技名は言っとらんぞい』
「言わなくても分かります!!! というか、この流れでそれ以外に何があるって言うんですか!!」
クルスは両腕の包帯をギチギチと強く押さえながら、大音量で叫んだ。
「俺の人生において、これ以上あの、最低最悪の卑猥極まりない単語を公式利用しないでください!!俺にはまだ、将来とか、世間体とか、守るべきプライドがあるんです!」
プフッ、とサクが耐えきれずに吹き出した。彼女の笑い声が、静かな医療所に響き渡る。
「つまり……」
ゆうこが、全ての感情を失ったかのような「死んだ目」のまま、ぽつりと呟いた。
「その、私たちが醸造酒大陸へ行くための、唯一の最短で『そこそこ安全な方法』って、一体何よ。ハッキリ言って」
アルケラは、待ってましたとばかりに、無駄に神々しい黄金のオーラを背後に背負いながら、堂々とその名を告げた。
――『うむ!その名も【ポコちんヘリコプター航法】じゃ!!!』




