第45話「ぽしゃけ医、街中に拡散される」
噂というものが、
酒のある町ではどれだけ早く、
どれだけ雑に、
そしてどれだけ盛られて広がっていくものなのかを、彼女たちはまだ真に理解してはいなかった。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
太陽が天頂に差し掛かり、石畳の熱気が酒場通りの「迎え酒」の匂いを蒸し上げ、町全体が発酵したような熱気に包まれ始める頃だった。
通りに面した小さな屋台では、すでに出来上がった赤ら顔の男が、空のジョッキを聖剣か何かのように天高く振り回して気勢を上げている。
「聞いたか!?昨夜、ギルドで『S級ぽしゃけ』が出たらしいぞ!!」
男が鼻息荒く叫ぶと、周囲の酔客たちが一斉に、獲物を見つけたハイエナのごとき勢いで身を乗り出した。
その目は一様に、酒精と好奇心でギラついている。
「知ってる知ってる!あの“飲みすぎ専門の変な医療所”の連中だろ?なんでも、飲めば飲むほど力が湧き出る魔法の酒を調合したって話じゃねぇか」
向かいの席で脂ぎった串肉を頬張っていた男が、さも自分は事情通だと言わんばかりの得意顔で応じる。
「違う違う、ただの医療所じゃねぇ!格が違うんだよ!」
男は周囲を見回し、まるで国家機密を明かすように無駄に声を潜めて周囲全員に聞こえる音量で告げた。
「――“ぽしゃけ医”だ」
「……は? 何それ、余計に意味が分かんねぇな。酒なのか医者なのかハッキリしやがれ」
聞き手は呆れたように肩をすくめるが、一度火のついた男の妄想という名のエンジンはもう止まらない。
「いいか、よく聞けよ。なんでもな、瀕死の酔っ払いを一瞬で完治させて、凶悪な魔物を瓶詰めにして肴にしちまって、おまけにその場で神様が飲むような伝説級の酒まで作っちまうらしいぞ!」
拳を握りしめ、力説する男の目は、もはや現実と幻覚の境界線が溶解しているかのようだ。
「最後だけ職業が変わってないか?それもう酒造ギルドのトップか、さもなきゃ神の化身だろ」
一方、別のテーブルでは、優雅に昼酒を楽しんでいたはずの女冒険者が、真顔で同行者に熱弁を振るっていた。
その据わった目は、自分の見た妄想こそが世界の真理だと言わんばかりに一点を見つめている。
「私、この目で見たわよ。今朝のギルドで、彼女らが報酬の金貨を山のように積み上げてるのをね」
「山って……どのくらいだ?まさか数万枚ってことはないだろ」
「こう……どーんって感じよ。あまりの黄金の輝きに、一瞬マジで網膜が焼けて目が潰れるかと思ったわ。あれはもう、一国の国家予算並みね」
女が両手を大きく広げて、抱えきれないほどの大仰なジェスチャーを見せる。
「説明が酒飲み特有のガバガバ加減なんだよ。具体的な枚数を言え、枚数を。」
さらに路地裏の別の場所では、伝言ゲームが限界を突破し、情報がもはや原形を留めないほどに神話の領域へ崩壊し始めていた。
「おい聞いたか。新しくできた医者、指輪ひとつで酒を無限に湧き出せるらしいぞ。聖遺物の類だって噂だ」
「は?なんだそれ、創世記の神話か何かか?」
「それだけじゃない。着ている白衣のポケットが亜空間に繋がっていて、そこからあらゆる万能薬を無限に取り出すんだとか。死人すら笑って起き上がるらしいぜ」
「もうそれ医者じゃなくて、歩く高難易度ダンジョンの隠しボスだろ」
「あと、世界を滅ぼすレベルの可愛いスライムを相棒にして、不敬な酔っ払いを次々に溶かしてるって話だ」
「……情報の最後だけ急に可愛いな。落差で耳がキーンとなるわ」
◇ ◇ ◇
――さて。
そんなデタラメな尾ひれがクジラ並みのサイズにまで膨らんでいるとは露知らず、当の本人たちはといえば。
「……静かね」
ゆうこがぽつりと呟き、ガランとした周囲を見渡した。
昼下がりの診療所。
いつもなら外から聞こえてくるはずの、酔っ払いの無意味な怒鳴り声や品のない笑い声、やたら大げさな偽の武勇伝も、今日に限っては妙に遠い。
窓から差し込む陽の光に埃が舞う様子が見えるほど、不気味なほどに平穏だった。
「確かに。逆に気味悪いわね。嵐が来る前の、空気が止まった感じに似てるわ」
サクは不審そうに細い眉をひそめ、何かよからぬ刺客でも潜んでいないか、窓の外を警戒するように睨みつける。
「嵐の前の静けさ、ってやつですかね……。なんだか、背筋がゾワゾワします」
クルスが深く腕を組み、これから起こるであろう災厄を予見するように、喉の奥で低く唸った。
その瞬間だった。
――ドゴォン!!
診療所の、それなりに頑丈な造りだったはずの扉が、暴力的な勢いで蹴り開けられた。
扉が悲鳴を上げ、建付けが歪む音が室内に響き渡る。
同時に、せき止められていたダムが崩壊したかのように、外の騒がしさが津波となって押し寄せてきた。
――ドンドンドンドンドンッ!!
「「「!?」」」
扉の枠が壊れるんじゃないかという勢いで叩きつけられる衝撃に、クルスがびくんと肩を跳ねさせて、その場に飛び上がった。
「な、何事ですか!?ギルドの強制捜査!?それとも暴動ですか!?」
サクが面倒そうに顔だけを上げ吐き捨てる。
「また酔っ払い?今日は一段と威勢がいいじゃない」
ゆうこは深い隈の浮かんだ、死んだ魚のような目のまま、重い腰を上げてよろよろと立ち上がった。
「このタイミングで来るやつなんて、ろくでもない確率が九割九分九厘を超えてるわよ……」
ガチャンッ!!
ほぼ開けた瞬間に、扉が外からの圧力に負けて内側へ向かって吹っ飛んできた。
そして、どやどやどやっ、と雪崩のごとく人々が診療所という名の小さな箱に流れ込んでくる。
「先生!!診てくれ!!俺の肝臓を伝説級にしてくれ!!」
「こっちは酷い二日酔いだ!一瞬で治る魔法の薬をくれ!!」
「先生ぇ!!一滴も飲んでないのにベロベロなんですけど!!」
「昨日ギルドを震撼させた“あのS級ぽしゃけ”を飲ませろ!!金ならある!!」
「スライムを飼うとモテるって本当か!?飼い方を教えろ!!」
「先生! コンビニでファミチキ買ってきてもらえませんか? 揚げたてのやつ!」
「最後の一人は今すぐ帰れ!窓から放り出すわよ!!」
ゆうこが反射的に、最後の一人を窓から放り出した。
だが、すでに手遅れだった。
狭い医療所の中は、一瞬にして混沌の極致へと変貌した。
酔っ払い、冒険者、単なる野次馬、興味本位で鼻をひくつかせる酒好き。
果ては、どこで情報を聞きつけたのか怪しげなソロバンを弾く商人風の男までが、濃厚な汗と安酒の臭いを撒き散らしながら入り乱れている。
「なに……これ。何が起きてるの」
呆然と立ち尽くし、酸素の薄くなった空間でゆうこが呆然と漏らす。
サクは、押し寄せる群衆の熱気から逃れるように隅へ移動し、最高に嫌そうな顔をして告げた。
「噂が届いたのよ。それも、あんたの想像を絶する形でね」
「届き方が洪水なのよぉ……!誰か助けてくださいぃ!」
押し寄せる人の波に翻弄され、クルスはすでに半泣きで、揉みくちゃにされながら叫んでいる。
「先生ぇ……これ、私が夢見ていた“普通の診療所”の風景じゃないです……!」
「この狂った町で“普通”を期待するのはもうやめなさい。精神が何個あっても足りなくなるわよ」
すると、前列でひときわ鼻の頭を真っ赤に光らせた酔っ払いが、ぐいっと身を乗り出して、酒臭い息を吹きかけながら顔を近づけてきた。
「なあ先生!!あんたが噂の、酒で死人を蘇らせる“ぽしゃけ医”なんだろ!?」
ゆうこが嫌悪感を隠そうともせず、これ以上ないほど深く眉をひそめて鼻をつまむ。
「……誰が言い始めたのよ、そのふざけた情報」
「もう街中の酒場じゃあ、子供から年寄りまで知っとるぞ!一晩で大有名人だな!!」
「……最悪だわ」
その時。
熱気に満ち、二酸化炭素濃度が限界に達した室内で酒気まじりの風が吹き抜けた。
――『つれないのぅ!こんなに繁盛しておるというのに』
「うるさい。この状況を見て言いなさいよ、この疫病神」
――『せっかく良い話をしてやろうと思ったのにのぅ』
「その前置きの時、だいたいロクなこと言わないのよ。私の直感と経験則が、全力で拒否しろって叫んでるわ」
だが今回はアルケラの声が、ほんの少しだけいつもと違っていた。
何百年という孤独の果てに、ようやく見つけた居場所に対する、静かな本音みたいな響きが、その言葉の端々に混じっていた。
「……何よ」
ゆうこが眉間のシワを少しだけ緩め、問い返す。
いつもの軽さはある。へらへらした調子もそのままだ。
それでもどこか、酒場の笑い声の裏でふっと聞こえる、静かな本音みたいな響きが混じっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
ここまで読んで、
「噂の盛られ方がひどい」
「ファミチキの人、何しに来た」
「ゆうこ、もう逃げられない」
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あなたの応援で、ぽしゃけ医療所の扉が
次回こそ無事に残る……かもしれません。
それでは次回、
たぶんアルケラが珍しく“ちょっと良いこと”を言います。(たぶん)




