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第37話「持ち帰ったもの」

 やがて、激闘の余韻もゆっくりと薄れていく。


 戦場の熱気が霧散し、深く重い静寂が再び谷へと戻ってきた。谷底に停滞していた濃密な酒気が、川面を撫でる風に押されて、ゆっくりと頭上へ霧散していくのが分かった。

 渦巻いていた禍々しい執念がほどけ、荒れていた大気が凪のように落ち着きを取り戻していく。


 「……終わったか」

 ゆうこは小さく呟きながら、白衣の裾を軽く払った。バトルの最中に付着した土が、乾いた音を立てて地面に落ちる。

 その仕草には、非日常の戦いから、平穏な日常へと心を切り替えるスイッチのような潔さがあった。


 「残りの気配もなし。追ってくる奴もいないようだ」


 サクは油断なく周囲の岩陰まで見回し、異常がないことを確認すると、満足げに軽く顎を引いた。その鋭い眼光は、すでに死線を潜り抜ける戦士のそれから、自由を謳歌する冒険者のものへと戻りつつある。


 「完全に沈黙していますね。さっきまでの狂乱が、まるで嘘みたいだ」


 クルスも安堵したように深く頷く。その言葉通り、先ほどまでの騒がしさが幻だったかのように、今はただ切り立った岩壁の間を通り抜ける風の低い音だけが、耳を優しく撫でていく。


 ゆうこは一度だけ、自分たちが歩んできた谷の深奥を振り返った。黒く沈んだ深淵は、すでに物言わぬただの岩の裂け目に戻っており、もう何の声も返してはこない。


 彼女は数秒間、そこへ静かに視線を置いてから、憑き物が落ちたようにふっと息を吐いた。そして、過去を断ち切るように力強く前を向く。


 帰路は驚くほど静かだった。往路で感じた、肌を刺すような圧迫感のある酒気も、今はどこか穏やかだ。それは役目を終えた精霊が去っていくかのように、ただ透明な風に混じり、透き通った空の彼方へと流れていくだけだった。


     ◇


 ――数十分後。

 谷の出口へ向かって歩きながら、ゆうこはずっと自分の白衣の右ポケットを、不思議そうに見下ろしていた。眉間に寄ったシワは、医療従事者が未知の難病に直面した時のそれによく似ている。

 「……やっぱりおかしいわね、これ」

 歩きながら漏らした独り言は、拭いきれない違和感に満ちていた。


 右ポケットの中には、今しがた詰め込んだものがひしめき合っている。

 愛用の万能シャベル、採取したばかりの赤酔いスライムが入った保存瓶、鈍い光を放つ琥珀のカケラ。さらには希少な《琥珀ぽしゃけ・極》が入った小瓶二つに、その他もろもろ。普通なら、大きなリュック一つがパンパンになるはずの重量物が、そこには収まっていた。


 にもかかわらず、だ。

 まったく重くない。肩も引っ張られなければ、裾も不自然に垂れ下がっていない。歩くたびに中身が暴れることもなく、まるで何も入っていないかのように軽いのだ。


 「どうしたの? さっきからずっとポケット睨んで」

 サクが不思議そうに横から覗き込んできた。

 「いや、改めて思ったんだけど……これ、中身の重さどこ行ってるの?」

 ゆうこは白衣のポケットを指先で軽くつまんで見せた。布地は羽のように軽やかに揺れている。


 ――『天界じゃ♡』


 「軽っっっっっ!!」

 頭の中に直接響いたアルケラの返答が、あまりにも適当で雑だったため、ゆうこは思わず声を荒らげた。


 ――『異空間ポケットじゃからのぅ。中に入っとる物の重量も容積も、基本的にはあっち側持ちじゃ。お主の世界の言葉で言うところの、クラウドストレージみたいなもんじゃな』


 「宅配倉庫みたいな説明すんな」

 神様とは思えない現実的な解説に、ゆうこは呆れたような溜息をつく。


 「えっ、じゃあそれ……どれだけ入れても重くならないんですか?」


 クルスが目を丸くして食いついた。冒険者にとって"荷物の重さ"は死活問題だ。その制約から解放されることの恐ろしさを、彼は本能的に察知していた。


 ――『限度はあるが、今のお主らの採取量くらいなら余裕じゃな♡四次元的に広大じゃぞい』

 「めちゃくちゃ便利じゃない!!」

 サクが身を乗り出して叫んだ。その瞳には、お宝をいくらでも持ち帰れる未来が映っている。

 「それもう実質、冒険者の夢じゃない! ゆうこ、それ貸して!」


 「ほんとそれ。医療物資、採取素材、保存瓶、危険物……全部まとめて運べるのは、かなり『優秀』ね」

 ゆうこは実用性の塊のような性能に、真顔で深く頷いた。だが、クルスは聞き捨てならない単語を聞き逃さなかった。

 「今さらっと危険物を通常の持ち物に混ぜましたね?」

 「現場ではよくあることよ」

 「絶対よくないですって!!爆発物とか入ってませんよね!?」


 クルスが全力で否定し、ゆうこを問い詰めようとした、その時だった。


 白衣の右ポケットの奥から――。


 ぽよん。


 なにかが、内側から軽く跳ねた。

 「……」

 「……」

 三人の間に、奇妙な沈黙が流れる。

 「……今、動きませんでした?」


 クルスがみるみる青ざめていく。ゆうこも無言のまま、自分の右太ももあたりにあるポケットをじっと見下ろした。


 ぽよん。


 もう一回、明確に跳ねた。しかも今度はちょっとだけ、発酵した炭酸が弾けるような「しゅわっ」という音のオマケ付きだ。


 「……出るなよ?絶対にだぞ」

 ゆうこが低い声で威嚇するように釘を刺す。

 ぽよ。

 まるでおちょくるような返事代わりに、ポケットがまた可愛らしく揺れた。


 「完全に会話してる!!」

 サクが耐えきれずに腹を抱えて笑い出した。

 「ちょっと待って、何それ!ポケットの中でスライム生きてるの!?意思疎通してない!?」

 「……たぶん瓶の中で、アルコールに酔って元気なのよ」

 ゆうこは頭を抱えた。


 「最悪ですよ!ポケットの中でモンスター飼ってるようなもんじゃないですか!」

 「でも重くないから運搬は楽なのよね」

 「評価ポイントが致命的にズレてるんですよ先生!!」


 その瞬間。

 ぬるっ、と。

 ポケットの縁から、赤酔いスライム特有の半透明なピンク色の端っこが、ほんの少しだけ顔を出した。


 「うわ出たァァァ!!」

 クルスが一歩飛び退き、腰の剣に手をかける。

 ゆうこは反射的に、ポケットの入り口を「ばしっ」と手のひらで押さえつけた。

 「収納物、勝手に自己主張するんじゃない! おとなしく保存されてなさい!」


 ぽしゅっ。


 中から、叱られた子供が漏らしたような、しょんぼりした音が響いた。

 サクはもう笑いすぎて呼吸が困難になり、肩を激しく震わせている。

 「だめ……っ、もう無理……!異空間ポケット、性能は神級に便利すぎるのに、中身が全然便利じゃない……!」


 「便利グッズって、だいたい運用する人間が苦労するようにできてるのよ」

 ゆうこが遠い目をしながら吐き捨てた言葉に、サクは涙を拭いながらツッコミを入れる。

 「急に現場の真理っぽいこと言わないでよ! 説得力がありすぎる!」


 その様子を眺めていたアルケラが、やたら誇らしげに脳内で笑った。


 ――『どうじゃ♡使い心地は最高じゃろ? わらわの加護、存分に味わうがよい』


 「性能だけならね!!」


 ――『しかもお主が“必要”と思ったものほど、出し入れしやすい親切設計じゃぞい。思考読み取り式のインデックス機能じゃな♡』


 「……そこだけは、本当に凄いわ」

 ゆうこは認めざるを得ないといった様子で、感心したように呟いた。


 試しにポケットへ手を入れてみる。

 指先で、欲しいと思った瞬間に小瓶の冷たさが触れた。そのすぐ奥には保存瓶があり、さらに指を滑らせれば琥珀のカケラの角に当たる。

 欲しいものを意識するだけで、広大なはずの空間の中から、対象が自ら指先に吸い寄せられてくるような感覚。


 取り出したいと思えば、即座に。

 しまいたいと思えば、滑らかに。

 そして何より、どれだけ詰め込んでも質量はゼロ。


 「……やばいわね」

 「何がです?また不穏なこと言おうとしてません?」

 クルスが防衛本能を働かせて身構えた。


 「これ、一回慣れたらもう、普通の鞄に戻れないわ。人間をダメにする便利さね」

 ゆうこの告白に、サクが即座に反応する。

 「落ちたわね」

 「何に」

 「神の便利グッズに。ようこそ、こちらの世界へ!」


 「否定できないのが、死ぬほど悔しいわね……!」

 ゆうこが唇を噛む横で、クルスは半眼になって冷めた視線を送った。

 「なんか先生、どんどん“異世界に適応していく現場人間”になってません?元からそういう素質があったんですか?」

 「生きるためよ。環境適応は生物の基本でしょ」

 「それにしちゃあ、適応力のレベルが高すぎるんですよ……」


 だが、ゆうこ自身も内心では自覚していた。

 最初はただの、神様が押し付けてきた変なコスプレ衣装だと思っていた。

 でも今は違う。

 この不条理で過酷な異世界で生き残るなら、こういう“意味の分からない便利さ”を、プライドを捨てて使いこなした方が圧倒的に強い。


 サクがくるりと振り返り、遠くに見える町の方角を指さした。

 「さ、帰りましょ。今日は大収穫だったし、お祝いしなきゃ!」

 「そうね」

 ゆうこも足早に歩き出しながら、頭の中でリストを作成する。

 「帰ったらまず、素材の管理。劣化する前に処理しないと」

 「まともな意見だ」


 「次に、琥珀のカケラの査定。これで当面の活動資金を確保するわ」

 「現実的で助かる」

 「その次に――飲む」

 「やっぱりダメだこの人!!」

 クルスの魂の叫びが、夕暮れの谷に木霊した。


 サクはけらけらと楽しそうに笑いながら、先行して歩き出す。

 背後に広がる赤紫の岩肌は、一歩ごとに遠ざかっていく。鼻をつく発酵臭の混じった風も、やがてただの爽やかな夕風へと変わっていった。空は燃えるような橙色に染まり、地平線の境界を曖昧に溶かしている。


 その先には、活気ある町がある。

 騒がしいギルドがある。

 厳格な査定がある。

 正当な報酬がある。

 そしておそらく、また明日には何かしら別の面倒ごとが降ってくるのだろう。


 でも今は――。

 この充実感と共に、戦果を抱えて帰る時間すら、少しだけ悪くないと思えた。


 ゆうこは白衣のポケットを、愛着を込めて(あるいは警告を込めて)軽く叩いた。

 中ではまた、ぽよん、と何かが楽しげに跳ねた。

 「……帰ったら、絶対ちゃんと隔離するから。瓶を補強してやる」


 ぽよ。

 「返事すんなって言ってるでしょ」

 そんな他愛もないやり取りを続けながら、三人は赤酔いの谷をあとにした。

 大量の素材と、ちょっと危険な酒と、今日一日の確かな戦果を抱えて。


 自分たちの持ち帰ったものが、ギルドをどれほど盛大にざわつかせ、新たな騒動の火種になるか。

 この時の三人は、まだ知る由もなかった。




挿絵(By みてみん)

最後まで読んでいただきありがとうございます!


ここまで読んで


「ポケット便利すぎる」

「でも中身が騒がしすぎる」

「ぽよん、かわいい」


と思ったら


▶ブックマーク

▶★★★★★評価


で応援していただけると嬉しいです!


それでは次回、


ギルド報告、絶対ざわつく編


でお会いしましょう!

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