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第36話「最高の一杯」

 三人は同時に、黄金色に輝く究極の一杯――《琥珀ぽしゃけ・極》を口にする。

  

 ――その瞬間。

  

 「…………」

  

 「…………」

  

 「…………」

  

 静寂が谷を支配した。風の音さえ遠のくような、あまりにも濃密な沈黙。誰も、すぐには言葉を紡ぐことさえ許されなかった。

  

 まず訪れたのは、暴力的なまでに鮮やかな「香り」の襲来だ。高嶺に咲く花のように凛としてやわらかいのに、熟成された果実酒のような重厚な甘みが鼻腔を突き抜ける。


 しかしその奥底には、冬の真夜中の空気にも似た、研ぎ澄まされた澄んだ冷たさが一筋の光のように通っていた。

  

 次に支配したのは、「舌」への驚愕。とろりとした琥珀色の一滴が粘膜に触れた瞬間、それは液体であることを忘れたかのように、魔法じみた滑らかさでするりと喉の奥へと滑り落ちていった。

  

 アルコール度数は間違いなく高いはずなのに、喉を焼くような不快なきつさは微塵もない。

 むしろ、飲んだ瞬間に身体の内側から細胞一つ一つが静かに整い、浄化されていくような、不思議な清涼感だけが残る。

  

 そして最後に――それはやってきた。

  

 「ぶわっ」と、全身の芯から、心地よい熱波が爆発的に広がった。

  

 「――っ、なにこれ」

  

 最初に沈黙を破ったのは、ゆうこだった。驚愕に目を見開いたまま、彼女の手の中でジョッキがカタカタと震えている。

  

  「……うま……」

  

 絞り出したその一言が、精一杯だった。

 サクにいたっては、もはや反応することさえ忘れている。両手で大事そうにジョッキを抱えたまま、雷に打たれたかのように硬直していた。

  

 「待って……待ってこれ、おかしい……」

  

 サクは現実を確かめるように、ごくりともう一口含んだ。その瞬間、彼女の肩がびくんと大きく震える。

  

 「やばい……やばい……っ!脳がとろけそう……!」

  

 「語彙が死んでるわよ、しっかりしなさい!」

  

 「無理よ!!こんなの、人間が持つ語彙なんかで処理できるわけないでしょ!!」

  

 サクは、感動と混乱が入り混じった半泣きのような顔で叫んだ。頬は林檎のように赤く染まり、瞳には恍惚とした光が宿っている。

  

 「美味しすぎる!!なんか今、舌の上で月が溶けて、宇宙が広がったんだけど!?」

  

 「表現が急にポエミーなのよ!!」

  

 ゆうこがツッコミを入れるが、隣のクルスも同様に限界を迎えていた。彼はジョッキを握る拳を震わせ、まるで聖遺物でも拝むかのような謙虚な面持ちで独り言を漏らす。

  

 「俺……今まで飲んできた酒、全部泥水だったんじゃないですかね……?」

  

 「急に自分の人生を根底から否定し始めたわよ、この子!?」

  

 クルスは周囲の制止も耳に入らない様子で、真顔のまま、追い打ちをかけるようにもう一口飲み干した。そして次の瞬間――。

  

 「うっっっっっっっっっっっっっっま!!!!」

  

 赤酔いの谷全体に反響し、岩肌を揺らすほどの絶叫が響き渡った。

  

 「びっくりした!!耳がキーンとしたわよ!!」

  

 「だって無理ですよこれ!!美味すぎて脳が情報の受け入れを完全拒否してるんですよ!!」

  

 クルスは悶絶するように胸元をかきむしり、ぐらりと一歩よろけた。その顔は、もはや酒の悦楽に当てられた酔っ払いそのものだ。

  

 「なんか今、体内のドロドロした悪いもの全部が“まあええか、どうでもええわ……”って悟りを開きながら浄化されていった気がします!!」

  

 「それ、医療的にも哲学的にもかなり危険な表現よ!!」

  

 だが、ツッコミを入れるゆうこ本人も、彼の言葉を全否定はできなかった。

 実際、この《琥珀ぽしゃけ・極》を口にした瞬間から、連日の過酷な探索で頭の奥底にこびりついていた重い疲れが、霧が晴れるようにすうっと薄まっていくのを感じていたからだ。

  

 身体の芯に鉛のように残っていたダルさが魔法のようにほどけていく。血管の中を流れる血の巡りそのものが、黄金の輝きを帯びて活性化していくような……そんな錯覚すら覚える。

  

 「……これ、ただ美味いだけじゃないわね」

  

 ゆうこは自らの感覚を冷静に分析するように、静かに呟いた。

  

 「疲労感が根こそぎ抜けていく。心地よい酔いは確かにあるのに、意識はむしろ、研ぎ澄まされた刃みたいに冴え渡る感じがするわ」

  

 サクも自らの身体を確かめるように、目を丸くして跳ね回る。

  

 「ほんとだ……!重力が半分になったみたいに身体が軽い……!これならドラゴンと徒競走しても勝てる気がする!」

  

 クルスも自分の腕を見つめながら、何度も拳を握り、開き、その驚異的な回復力に戦慄していた。

  

 「えっ、ちょっと待ってください。俺、さっきまで赤酔いスライムの毒に当てられてフラフラしてたはずなのに……なんか今すごく、“明日から不眠不休で働けそうな無敵の酔っ払い”になってます!!」

  

 「お願いだから絶妙に信用できない不穏な回復報告はやめて」

  

 その時だった。どこからともなく、脳内に響き渡る高慢ちきで満足げな声。

  

 ――『どうじゃどうじゃ、ひれ伏すがよいぞ。この我が丹精込めた一雫に♡』

  

 「……出たな、試飲担当の自称・神」

  

 ――『無礼な。これでもS級ぽしゃけ《琥珀ぽしゃけ・極》を司る者じゃぞい。ただ美味いだけなら、そこらの中級錬金術師でも作れるからの。夢も、効能も、そして魂を揺さぶるちょっとした“異常性”も入ってこその、真の高級酒というものじゃ♡』

  

 「“異常性”を隠し味みたいに堂々と混ぜるな。普通は劇物扱いよ」

  

 だが、駄神アルケラの豪語も、今この瞬間ばかりは事実として三人に突き刺さっていた。

 この酒は、もはや飲料という枠を逸脱している。飲めば飲むほど、魂の奥底で眠っていた魔力の源泉や、生命力の根幹がゆっくりと、かつ力強く目を覚ましていくような感覚があるのだ。

  

 本能が「これ以上は危ない」と警鐘を鳴らす気もする。

 でも――。

  

 「あまりにも美味すぎて、そんなリスクを考慮する余裕なんて一ミリも残ってないわね」

  

 サクが、うっとりとした表情でジョッキを胸に抱き寄せ、頬をすり寄せた。

  

 「……ねぇ、これ。もし市場に流したら、一体いくらの値がつくのかしら」

  

 「一瞬で俗物な思考に戻るな。情緒ってもんがないのか」

  

 「いやでも、現実問題として大事でしょ!? これ絶対ヤバいわよ!?コップ一杯で王都の一等地に豪邸が建つレベルじゃないの!?」

  

 「……えっ」

  

 クルスの顔が急速に青ざめていく。

  

 「俺たち……そんな国家予算が揺らぐようなヤバい代物を、こんな人里離れた谷で量産しようとしてたんですか……!?」

  

 ゆうこは空になったジョッキの底を見つめ、不敵な笑みを口元に浮かべた。

  

 「……いいじゃない。面白いわよ」

  

 「え?」

  

 「この世界、理不尽で、泥臭くて、ろくでもないことばかりだと思ってたけど――」

  

 ゆうこはもう一度、ジョッキに残った最後の一滴までを喉に流し込む。とろりと光る月のような滴が、彼女の内側に熱い一筋を刻んだ。その圧倒的な幸福感に、彼女の表情は自然と柔らかなものへと変わる。

  

 「こういう、心底震えるような“当たり”があるなら。もう少しだけ、このクソッタレな現実に付き合ってやってもいいわ」

  

 サクが、彼女の言葉に同意するようにニカッと笑った。

  

 「でしょ?酒造りは冒険なのよ!」

  

 クルスも、二人の笑顔につられるように、重圧から解放されて爽やかに笑った。

  

 「……なんだか、本当に“冒険者”って感じがしてきましたね」

  

 その青臭い言葉に、ゆうことサクは一瞬だけ顔を見合わせ――。

  

 「「今さら!?」」

  

 「遅すぎるのよ、気づくのが!!」

  

 二人の容赦ない突っ込みが、クルスの頭上で重なった。

  

 赤酔いの谷には、今も変わらず発酵した風が吹き抜けている。赤い岩肌は怪しく明滅し、周囲には危険な原生生物の殺気も、未知の素材の芳香も、そして新たな極上酒の予感も、無数に転がっていた。

  

 けれど今この瞬間だけは、三人の心は一つだった。ジョッキを掲げ、ただ純粋に、この奇跡の一杯を分かち合える喜びに酔いしれていた。

  

 ――『ふふっ。よい顔じゃのぅ、お主ら♡』

  

 アルケラが、どこか慈愛に満ちた(あるいは非常に腹黒い企みを含んだ)声で満足げに笑う。

  

 ――『そういう愉快な顔を拝むために、我はわざわざ神界の白衣も指輪も投げ捨てて、お主らのもとに降臨してやったんじゃからな』

  

 「……はいはい、動機がS級ぽしゃけを一番乗りで飲みたかっただけなのはバレバレよ」

  

 ――『バレとるのぅ♡さすが我が下僕じゃ』

  

 「誰が下僕よ。最初から隠す気なんてさらさらなかったでしょ」

  

 ゆうこは呆れたように肩をすくめながらも、その頬は緩み、微かに笑みを湛えていた。そして、空になったジョッキを再び、戦いの合図のように高く持ち上げる。

  

 「……よし」

  

 サクとクルスも、阿吽の呼吸でそれに合わせてジョッキを掲げた。

  

 「次はどうする、リーダー?」

  

 サクの弾んだ声に、ゆうこは赤酔いの谷の、さらに深く、暗く、熱い奥底を見据えた。

  

 まだ見ぬ伝説の素材。

 まだ誰も味わったことのない至高の酒。

 そして、たぶん確実と言っていいほど、お約束のように待ち構えているであろう理不尽でろくでもないトラブル。

  

 その全てを飲み干す覚悟で、彼女は言い放つ。

  

「帰るわよ!」

  

 赤酔いの谷の深淵に、三人の高らかな笑い声がいつまでも響き渡っていた。




挿絵(By みてみん)

最後まで読んでいただきありがとうございます!


ここまで読んで


「最高の一杯だった」

「語彙が死ぬの分かる」

「でも最後は帰るんかい!」


と思ったら


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ゆうこの冒険者適性が

医療 → 採取 → 酒造 → 即撤退

へ進化します。


それでは次回、


帰還、そして絶対ただでは済まない報告編


でお会いしましょう!

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