第31話「神の雨と戦利品」
まだ……動ける。
そう確信した、次の瞬間だった。
ぽつっ、と。
熱を帯びたままの頬に、冷たい感触が走った。
「……え?」
思わず漏れた声。冷たい。けれど、それは慣れ親しんだ水滴の感触とは明らかに異なっていた。鼻腔をくすぐるのは、どこまでも芳醇で、ほんのりと甘い――酒の匂いだ。
ぽつっ、ぽつっ、と、それは連続的なリズムを刻み始める。
重い首を動かし、空を見上げた。雲の向こう側から、無数の"何か"が落ちてくる。
「……雨?」
サクが眉をひそめた。だが、その一滴が彼女の頬を伝い、唇に触れた瞬間、表情は驚愕へと塗り替えられる。
「ちょっと待ってこれ――」
慌てて手のひらを差し出したのはクルスだった。手のひらに落ちた雫は、水よりもとろりとした質感を持ち、ほのかに輝きを放っている。
「酒……?」
困惑の声が戦場に落ちた。その直後だ。
ざあああああああああああああああっ!!
一気に降り始めたのは、細かい霧のような、しかし圧倒的な密度を持った「酒の雨」。
空気が一変する。戦場の死臭と泥の臭気は一瞬で洗い流され、濃密すぎる"酒圧"が、あたり一帯を支配した。
「ははっ――」
ゆうこは、喉の奥からこみ上げる笑いを抑えきれなかった。本能が理解している。これはただの酒ではない。神が、その指先を突き立てて世界をかき回した結果の産物だ。
「……やってるわね、あのクソ神」
毒づく彼女の言葉に応じるように、天上の奥からくぐもった声が響き渡った。
――『おお、死にかけとるのう。』
あまりにも軽い。命のやり取りが行われている場所には似つかわしくない、陽気なアルケラの声だ。
――『見ておれんから、ちょっと撒いてやったぞい。』
「“ちょっと”の量じゃないでしょこれ!!」
降り注ぐ豪雨の中、サクが空に向かって叫ぶ。
地面は瞬く間に濡れ、血と泥の赤黒い汚れが、雨の輝きに飲み込まれていく。
――『よいではないか。サービスじゃ。』
「勝手に医療介入すんな……」
ゆうこは小さく舌打ちを刻む。しかし、その強がりとは裏腹に、彼女の体内では劇的な変化が巻き起こっていた。
「……っ」
肺胞のひとつひとつに、酸素が無理やり押し込まれるような感覚。さっきまで喘鳴を上げていた呼吸が、嘘のようにすっと通り、全身を巡る血の熱さが、筋肉の硬直を劇的に解いていく。
「これ……楽に、なってる……?」
クルスが己の傷だらけの腕を見つめ、震える声を出した。サクもまた、信じられないものを見るように、自分の身体を確かめる。
「傷が塞がってるわけじゃないのに……動ける。力が、戻ってくる……!」
ゆうこはゆっくりと右手を握りしめた。完全な治癒ではない。だが、折れかけていた精神と肉体の境界線が、外側から強力に補強され、強制的に底上げされているのが分かる。
「……増幅か」
確信を込めた呟きに、アルケラのくすくすという笑い声が重なる。
――『治してはおらんぞ。“戻りやすくしてやった”だけじゃ。』
「余計なこと……」
空を睨みつけるゆうこの口元は、不敵に歪んでいた。神の気まぐれに毒づきながらも、その恩恵を余すことなく使い倒そうとする意志が瞳に宿る。
「助かるけど」
ぐっ、とぬかるんだ地面を蹴る。足裏から伝わる確かな反発。先ほどまでの絶望的な疲労感は、今や高揚感へと変換されていた。
「ほんと、都合のいい神様ね」
肩をすくめるサク。
「最悪よ」
ゆうこは食い気味に即答した。
「でも――現場で使えるなら、それでいい」
一歩、前へ。
叩きつける酒の雨が肩を打つたびに、身体の芯から活力が、噴き上がってくる。その無様で力強い姿を見て、アルケラは心底愉快そうに声を弾ませた。
――『よいぞよいぞ。そういう顔が一番おもしろい。』
「黙れ」
吐き捨て、ゆうこは前を向いた。
そして――
ころん、と落ちた琥珀色のカケラの存在を思い出す。
「……あ」
サクの目が、まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのように大きく見開かれた。
「うそ……本当に……」
震える声を漏らす彼女の横で、ゆうこはゆっくりと歩み寄り、その場に静かにしゃがみ込む。
血のような赤い液体に汚れた石が転がる足元。その冷たい石の上に、ひとつの欠片が静かに、しかし確かな存在感を放って転がっていた。
透き通った飴細工のような透明感。だが、その内部には何かを濃く、深く、永遠に閉じ込めたような重厚な質感が宿っている。それは触れるまでもなく、ただの石ころではないことを物語っていた。
「……これね」
ゆうこが指先でそっとそれを摘み上げる。指先に伝わるのは、意外なほどにひんやりとした硬質な感触。
直後、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、驚くほど甘く芳醇な香りだった。それは何年も、あるいは何十年も静かに熟成を重ねた最高級の果実酒を思わせる、魔力的な芳香。
「……それ」
サクがごくりと喉を鳴らす音が静寂に響く。
「まさか……」
後ろに控えていたクルスもまた、信じられないものを見る目で息を呑んだ。
ゆうこは手のひらに乗ったその欠片を、吸い込まれるような瞳で見つめたまま、静かに、確信を持って口を開いた。
「……ええ。間違いないわ」
わずかな沈黙――一拍置いて、彼女はゆっくりと満足げに口元を吊り上げる。
「たぶんこれが――琥珀のカケラ」
その言葉が引き金だった。
「やったぁぁぁぁぁぁ!!」
サクがバネのように飛び上がり、爽快に叫ぶ。
「採取成功だぁぁぁ!!」
クルスもまた、普段の冷静さを忘れて拳を突き出した。
静かだった谷の底に、三人の歓喜の声が幾重にも重なって響き渡る。その熱狂の中心で、ゆうこは戦利品である琥珀のカケラを高く掲げた。
空から差し込む陽の光を透過し、欠片はまるで小さな酒の結晶そのもののように、眩い輝きを放っている。
――『ほっほっほ♡』
脳内に直接、誰かの満足げな笑い声が響いた。
――『よいではないか。初採取、おめでとうじゃ♡』
「珍しくまともに祝ってくるのやめて。逆に怖いわ」
ゆうこが真顔で毒づく。だが、その低めの声には隠しきれない高揚と、わずかな笑みが混じっていた。
右のポケットには、発酵核を呑み込んだ赤酔いスライムが揺れている。
左の手のひらには、念願の琥珀のカケラが鎮座している。
ゆうこは琥珀のカケラを白衣の右ポケットへと大事にしまい込み、シャベルを無造作に肩へ担ぎ、立ち上がる。白衣の裾が風にふわりとゆれた。
その立ち姿には、かつての白衣の天使としての面影は微塵もない。
それはもう、看護師というより――。
未踏の地で希少素材を狩り尽くす、老練な現場職人のそれだった。
足元には発酵臭を漂わせる死の谷。
もはやここは医療の現場などではなく、完全に特殊災害対応班の最前線である。
「……先生、なんだかもう“頼れる人”という枠を通り越して、“現場に一人放り込んでおけば解決する特殊職員”みたいになってません?」
クルスが呆れと恐怖が混ざったような視線を向ける。
「褒めてないでしょ、それ」
ゆうこは即座にツッコミを入れつつ、足元の岩場を睨んだ。
「いえ、半分くらいは本気で尊敬してますよ。その適応能力に関しては」
「残り半分は何なのよ」
「純粋な恐怖心です」
「正直でよろしい」
そんな二人の軽快なやり取りを横目に、サクはくすくすと笑っていた。
「でも、本当に便利ね。その白衣」
「……まあ、認めるのは非常に悔しいけれど」
ゆうこは白衣の裾を軽く払い、その奇妙な"装備"に思いを巡らす。
空から降ってきた、この出所不明の白衣。
一見すれば膝丈で前開きの、看護師時代に嫌というほど着古した見慣れたデザインだ。
だが、唯一の異質さが、右側にだけ備わったポケットだった。
その機能は、もはや魔法や超常現象の類といっていい。
"深さがある"とか"伸縮する"といった物理的な概念など、とっくの昔に置き去りにしている。
入れた瓶が、どれほどの数であろうと吸い込まれるように収まり、重さも感じさせない。
さらに驚くべきは、取り出す際の手間だ。
頭の中で「瓶」と思えば無地の瓶が、"さっきの危険なスライム"と念じれば、ピンポイントでその個体が入った瓶が手に収まる。
便利すぎる。
そして、便利すぎるものほど信用ならないのが、世の常である。
ゆうこは不信感を露わに眉をひそめると、青い空の向こう側にいるであろう存在を鋭く睨みつけた。
「……で?いい加減に吐いたら?」
唐突なその一言に、サクとクルスが同時に顔を上げる。
「で?」
「……何がですか、先生」
ゆうこは右ポケットの縁を指先でつまみ、見えない「神」へと問いかけた。
「こんな都合のいい代物を、あの酒カス神が何の理由もなく寄越すわけないでしょ。隠し事は無しよ」
一瞬、谷の風が止まったかのような静寂が訪れる。
その直後だった。
――『ぎくぅ♡』
脳裏に、これ以上ないほど分かりやすい"動揺"を含んだ陽気な声が響き渡った。
「……出たわね、黒幕」
ゆうこの目が、冷徹な捕食者のそれへと変わった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
ここまで読んで
「ポケット便利すぎる」
「でも中身が物騒すぎる」
「アルケラ絶対またやらかす」
と思ったら
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ポケットの中身が
医療道具 → 酒 → 爆発物 → ???
と順調に悪化していきます。
それでは次回、
黒幕アルケラ、逃げる気ゼロ編
でお会いしましょう!
(たぶん反省はしません)




