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第29話「万象圧縮(オールコンプレス)」

 「琥珀のカケラ。あれを確保する」


 ゆうこが淡々と、しかし揺るぎない決意を込めて告げた。その瞳は、獲物を解剖台に載せる外科医のような冷徹さと、未知の検体への好奇心で細められている。


 「先生の口から“確保”って言葉が出ると、急に解剖っぽくなるんですよ!!」

 クルスが戦慄しながらツッコミを入れる。彼にとって、ゆうこの放つプロフェッショナルな威圧感は、時にモンスターよりも恐ろしい。


 「いいじゃない。やる気が出てきたわね」

 サクが不敵に、にやっと笑った。彼女はゆうこのこの"一度決めれば迷わない"性質を信頼しており、同時に、これから起こるであろう波乱を楽しんでもいる。


 だが、当の熟成種スライムは、人間たちの皮算用など気にも留めない。その半透明な身体を、濁った赤色に染めながら、異様な変化を見せ始めた。


 ぷくぅぅぅぅ……。

 身体が不自然に、風船が限界まで膨らむように膨張していく。


 「……え?」

 クルスが露骨に嫌な顔をした。本能が、目前の不定形生物から放たれる"異質さ"を察知している。

 「何してるんですか、あいつ。これ以上膨らんだら破裂しません?」


 サクの顔色が、即座に実戦の鋭さを帯びて変わった。空気の密度、酒気の流れが急速に、かき混ぜられている。


 「まずい、下がって!!」

 「何がまず――」

 クルスの言葉が最後まで紡がれることはなかった。


 ボフッッッ!!

 熟成種スライムの身体から、濃縮された赤い泡と霧が一気に噴き出した。それはただの蒸気ではない。重厚な質量を伴い、意志を持つかのように周囲へと拡散していく。


 「うわっ!?」

 三人が反射的に後ろへ飛び退く。足元の砂利を蹴る音が、赤い霧の中に吸い込まれていった。

 赤い霧は瞬く間に周囲を侵食し、甘ったるく、それでいて脳を直接揺さぶるような濃い酒の匂いを撒き散らした。安酒のそれではない。長い年月、地下深くで発酵し続けた結果、毒性を帯びるまでに至った「魔の酒」の香りだ。


 「な、なんですか今の!?一瞬で頭がふわふわするんですけど!?」

 クルスが必死に鼻を押さえる。吸い込めば最後、平衡感覚が狂うのは明白だった。


 「高濃度の酔いガスよ!」

 酒が大好きなサクでも、この濃密なアルコール成分には生理的な嫌悪を隠せない。


 「最悪の追加機能きたな!?」

 ゆうこも一歩後ろへ下がりながら叫ぶ。彼女の脳内では、この霧が人体の神経系に及ぼす悪影響が即座にシミュレートされていた。

 「近づいたら酔うわ!呼吸を浅くして、距離を取って!!」


 「うっ……なんかちょっともう、空気がハイボールっぽいんですけど……!喉が熱い!!」

 クルスは必死に口を押さえて耐えるが、皮膚からも吸収されそうなほどの濃度だ。


 「意味分かるけど最悪すぎる!!」

 サクが叫ぶ間にも、熟成種スライムは赤い霧の中で、じり……じり……とこちらににじり寄ってくる。その動きは牛歩のように遅いが、立ち込める霧と相まって、逃げ場を奪うような圧倒的な圧があった。


 ぷるるん。

 しゅわっ。

 ぼこっ。

 スライムの粘体から漏れ出す音が、炭酸の弾ける音や、樽の中で酒が発酵する音に酷似している。それはもはや、生物というより「動く酒蔵」そのものだった。


 「怖い怖い怖い!なんでスライムが“酔わせてから近づく”タイプなんですか!?もっと正々堂々と体当たりとかしてきてくださいよ!!」

 クルスが半泣きになりながら後ずさる。


 「知らないわよ!過酷な環境で発酵が進んで、性格まで陰湿にひねくれたんじゃない!?」

 サクは苛立ちを隠さず、声を荒げた。


 ――『酒は時に狡猾じゃからのぅ。酔わせて、狂わせて、骨まで溶かす。それが醍醐味というものよ♡』

 「黙れ、クソ酔っ払い駄神!!」

 脳内に響くアルケラの呑気な囁きを、ゆうこは全力の思考で一蹴した。


 ゆうこは一瞬で状況を整理する。

 近づけば酔いガスで無力化される。

 触れればその強酸に近い高濃度アルコールで皮膚が溶ける。


 しかし、スライムの核――琥珀のカケラは、傷一つつけずに取り出す必要がある。


 「サク!」

 「分かってる、足止めね!」

 言葉よりも早く、サクが両手を前に出す。


 ぱきんっ。

 澄んだ音とともに、薄く透明なガラス板が幾枚も空中に結晶化した。サクの得意とする、スキルの構造化による物理干渉だ。


 「前方に展開するわ!クルス、下がって!」

 「はいっ!!」

 ガラス板が、熟成種スライムの進行方向を遮るように斜めに並び立つ。透明な防壁。簡易バリケード。


 熟成種スライムはその一枚目に、音もなく。

 べちゃっ。

 と吸い付くように張り付いた。

 一拍の静寂。

 そして――。


 しゅわわわわわっ!!


 「うわっ、溶けてる!?あのガラス板、物理攻撃を弾く設定ですよね!?」

 クルスが叫ぶ。ガラス板の表面で、赤い泡が凄まじい勢いで弾け、構造を直接「腐食」させていた。


 「やっぱり!高濃度すぎて侵食が早い!私のガラスを食ってるわね、こいつ!」

 サクが歯を食いしばり、維持のためにスキルを注ぎ込む。


 「長くは保たないってことね!」

 「そういうこと!あと三十秒、いえ、もって一分よ!」

 ゆうこは即座にシャベルを握り直した。


 熟成種スライムの動きは遅い。だが、近距離戦は即死を意味する。

 ならば、リスクを分散させ、隙を突くしかない。


 「クルス!」

 「俺ですか!?この流れで俺ですよね!?」

 「おとり」

 「雑っ!!作戦がシンプルすぎて涙が出てきますよ!!」


 「避けるの得意でしょ!この前も逃げ足だけは一流だって証明されたじゃない!」

 「その評価、本気で嬉しくないんですよ!!」

 だが言い返しつつも、クルスの身体は動いていた。これまでの修羅場が、彼を「文句を言いながら最適解を動く」体に作り変えていた。


 クルスは熟成種スライムの側面へ、大きく回り込む。赤い霧の薄い場所を選び、足場の岩を利用して跳ねた。


 「お、おいこらっ!こっち見ろ、この発酵ぷるぷる野郎!!お前の酒は、出がらしなんだよ!!」


 するとスライムの体内に浮かぶ、つぶらな模様目が、ぴたりとクルスの方を向いた。

 「効いた!?」

 「煽り耐性低っ!!意外とプライド高いのね、そのスライム!!」


 クルスが半泣きで後ずさる。

 熟成種スライムが、ぷるんっ!と爆発的な反発力で大きく跳ねた。

 そのまま、酔いガスをジェット噴射するように、クルスめがけて突進してくる。


 「うわあああああ来たァァァ!!速い!さっきまでやる気なかったじゃないですか!!」


 「そのまま走れ!!誘導して!!」

 ゆうこが叫ぶ。


 クルスは悲鳴を上げながら、谷の斜面を全力で駆け抜ける。後ろからは、ぬちゃぬちゃと不気味な足音(音はないが、そう聞こえるほどの重量感)を立ててスライムが追撃してくる。


 一見、速くはない。だが、一度狙いを定めた後のしつこさが異常だった。しかも、移動するたびに撒き散らされる酔いガスのせいで、逃げるクルスのスタミナが削られていく。


 「っ、はぁっ……!肺が焼ける……地味に、いや、普通にキツい!!」


 「もうちょい引きつけて!核の動きが安定するまで!」


 ゆうこはその間に、熟成種スライムの慣性と進行方向を読み、自らの位置を調整する。


 体内の琥珀色の核。

 あれを壊さずに、本体だけをどうにかする。

 ゆうこの脳内モニターに、スライムの三次元透過図が浮かび上がる。


 いつもの「圧縮」なら、全体を潰しておしまいだ。

 だが、この個体は密度が通常の百倍ある。普通に圧をかければ、中の核まで一緒に砕け散るかもしれない。


 なら――。

 ゆうこの目が、解剖のメスを入れる箇所を見定めた時のように、鋭く細められた。


 「……外側だけ、絞る」

 「え?」

 サクが驚愕して振り向く。

 「外側だけって……そんなこと、可能なの?」


 クルスも死に物狂いで逃げながら、眉をひそめた。

 「外側……?包皮だけむくみたいな話ですか!?無理でしょ!!」


 ゆうこは答えない。ただ、右手をゆっくりと持ち上げ、手のひらを正面へ向けた。


 指先が、わずかに震えている。それは恐怖ではなく、極限の集中による負荷。


 目の前にあるのは、ただの空気。何もない、空間のはずだ。

 けれど、ゆうこの"感覚スコープ"には見えていた。


 この世界に満ちている、酒気。熱。湿気。

 それらが織りなす、目に見えない“漂い”。


 それはまるで、空間の綻びのように、彼女の手の届く場所にあった。


 「一点に、寄せる」

 小さく呟いた瞬間。

 彼女の手のひらの前の空気が、ぐにゃりと万華鏡のように歪んだ。


 「っ!?」

 クルスが息を呑む。


 何もないはずの場所が、まるで透明な水を無理やり拳の中に押し固めたみたいに、ゆっくりと、しかし確実に収束していく。


 しゅーーっ……と。

 耳の奥を細い針で撫でられるような、不快な圧迫音が鳴り響く。


 空気が集まる。

 熱が集まる。

 酒気が集まる。


 谷一帯に淀んでいた発酵の気配そのものが、ゆうこの右掌の一点へと吸い寄せられていく。


 「ちょ、ちょっと待って、それ……」

 サクの声が、恐怖で引きつった。スキル持ちとしての直感が、目前で生まれている"何か"のヤバさを警告している。

 「なんか嫌な音してるんだけど……!空間自体が悲鳴を上げてるわよ!?」


 「私も分かってる。でも、これしかないの」

 ゆうこの額に、じわりと大粒の汗が浮かぶ。

 だが、その手は止めない。


 手のひらの前、ほんの数センチの空間に、本来そこにあるべきではない質量の"何か"が、どんどん押し込まれていく。


 最初は見えなかった。

 だが、圧が臨界点へ近づくにつれ、そこに小さな球体が浮かび上がってくる。

 親指の爪ほどの、ささやかな大きさ。

 透き通っているのに、中心だけが光さえ吸い込むように異様に暗い。


 まるで、空間そのものを丸めて小瓶に閉じ込めたような――。

 あまりにも不自然で、暴力的な「点」だった。


 「……できた」

 ゆうこが、低く絞り出すように呟く。


 クルスが本能的な恐怖から一歩引いた。

 「え、何ですかそれ。見てるだけで吐き気がするんですけど」


 サクも完全に真顔になり、冷や汗を流す。

 「それ、“玉”っていうより“時空の事故”に見えるんだけど。ねえ、爆発しない?」


 その危惧は正しかった。

 球体は静かに浮いているだけなのに、周囲の空気がぴりぴりと放電したように震えている。

 足元の砂粒が、重力を無視してふわっと浮かび上がる。

 近くの小石が、じり……と音を立てて球の方へ引きずり込まれていく。

 三人の白衣や衣服の裾までが、目に見えない力で前方に引っ張られる感覚があった。


 クルスの顔が青ざめる。

 「待ってください先生、それ絶対ダメなやつです!!世界が壊れる音がしてますって!!」


 「分かってるわよ。調整が難しいの」

 「分かってて作ったんですか!?」

 「一度、理論が正しいか確認したかったのよ」

 「研究者の悪い顔してますよ今!!マッドサイエンティストのそれですよ!!」


 ゆうこは手のひらの上に浮かぶ極小の「絶技」を、大切にするように、そして警戒するようにじっと見つめた。

 これは、【圧縮】の応用。

 

 "空間の外殻そのものを無理やり圧縮し続け、その状態を安定化させた塊だ"


 もはや隙間と言う概念が存在しない。


 医療の現場で言えば、広範囲の腫れや止まらない出血、あるいは体内の滞留物を、魔力操作で強引に一点に寄せて処理する感覚。


 そのミクロの理屈を、戦闘というマクロな事象に転用し、無茶苦茶な出力で拡張した結果。


 「……これ、触れた場所に叩き込んだら、どうなると思う?」

 ゆうこの問いに、サクがごくりと唾を飲み込む。


 「どうなるの……?」

 ゆうこは数秒の沈黙の後、感情を削ぎ落とした真顔で答えた。


 「たぶん、潰れる」

 「何が!?」

 「いろいろ」

 「主語がデカすぎて怖いんだよ!!」


 その時だった。

 脳内に、いつになく真剣で、少しだけ引き気味の声が響いた。


 ――『お主、急に物騒な才能を開花させるでない。それはもはやスキルの範疇を超えておる』

 「今さら言わないで」


 ――『それはな、下手すると一気に元へ戻ろうとするぞ。投げても危ない、握っても危ない、落としても危ない。お主、死ぬ気か?』


 クルスがその気配を感じ取って叫んだ。

 「全部危ないじゃないですか!!救いがない!!」


 「知ってる」

 「じゃあ今すぐ消してくださいよ!!」


 だが、ゆうこは球体を見つめたまま、わずかに目を細める。

 危険。不安定。制御困難。

 学術的には「失敗作」に近い暴れ馬。


 でも――。

 「使いようはあるわ。瓶の蓋だけを壊して、中身を傷つけないように開ける……そんな精密操作としてなら」

 この技は雑に振り回してはいけない。


 おそらくこれは、“潰す力”だけを一点に閉じ込めた塊。


 圧縮という"現象そのもの"を、球体に閉じ込めた玉だ。


 “必要な時だけ使う、現場の切り札”


ゆうこは小さく、長く息を吐き、意識を球体へと重ねる。


 「……よし。出力固定。安定期に入ったわ」


 サクが戦々恐々としながらも、その覚悟を汲み取った。

 「え、何が“よし”なの。それを使う気なのね」


 「名前、決めた」

 「名前つける段階まで行ったの!?もう後戻りできないじゃないですか!!」


 ゆうこは手のひらに浮かぶ、美しくも異様な「事故」を見つめながら、かつてないほど真剣な、そして少しだけ楽しそうな顔で言った。

 「クルス!真横に、死ぬ気で飛んで!!」


 「今ですかぁぁぁ!?心の準備がぁぁ!!」

 「今すぐに!!」


 次の瞬間、クルスが涙目のまま全力で地面を蹴った。


 彼の身体が空間を滑り、スライムの射線から外れたその刹那。

 ゆうこが右手を突き出し、叫んだ。


 「――【万象圧縮オールコンプレス】!!」


 直後。

 世界の空気が、びしっ、と凍りついたように張り詰めた。




挿絵(By みてみん)

最後まで読んでいただきありがとうございます!


「ゆうこ強すぎ」

「クルス逃げて」

「神が止める技は本当にやばい」


と思ったら


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