第28話「熟成種、出現」
「……行くわよ」
ゆうこの声は、低く、そして凍てつくほどに冷徹だった。
「どこにですか?いえ、聞くまでもない気はしているのですが」
クルスが、震える声を絞り出すようにして問い返す。彼の顔は、過酷な連戦による疲労と、この先に待ち受けるさらなる受難への予感で、幽霊のように青ざめていた。
「追加採取」
「言ったぁぁぁぁぁ!!やっぱり一点の曇りもなく、当然のように言ったぁぁぁ!!」
谷の静寂を無惨に引き裂く、クルスの絶望的な絶叫。
だが、その悲痛な抗議を嘲笑うかのように、赤茶けた岩肌が剥き出しになった谷の底で、新たな異変が胎動を始める。
ぼこり。
重苦しい、粘り気のある音が空気を震わせた。
足元のあちこちに点在する赤い水たまりが、内部から湧き上がる正体不明の熱に浮かされたように、ぶくぶくと、そして禍々しく泡立ち始めたのだ。
ゆうこは一切の躊躇を見せず、即座にその音の源へと向き直る。その動作には、無駄な感情の揺らぎが一切ない。
「次」
「仕事が早すぎるんですよ!!ブラック企業でも、もう少し有給休暇……せめて深呼吸するくらいのインターバルは置きますよ!!」
クルスが頭を抱え、自身の不運を呪うように膝を突きそうになる。
「あはは、クルスは大げさなんだから!」
サクは鈴を転がすような軽やかな声で楽しそうに笑っていた。
そして、ゆうこの背後を影のように、しかし羽毛のように軽やかに追随していく。
この酒精が飽和した地獄のような環境を、まるで春のピクニックか何かと勘違いしているのではないか。そう疑いたくなるほどの、不自然なまでの身軽さだ。
結局、このパーティでまともな生存本能と恐怖心を維持しているのは自分だけなのか。クルスは心の底から嫌そうな、今にも泣き出しそうな顔を歪ませ、天を仰いで叫んだ。
「俺の平穏はどこ行ったんですかぁぁぁぁぁ!!」
その魂の叫びを、赤酔いの谷に停滞する、むせ返るような発酵臭を含んだ熱風が、やけに陽気に、そして無慈悲にさらっていった。
――そして、異変はその直後に起きた。
ぼこり。
再び、赤い水たまりが泡立つ。
だが、今度のそれは、先ほどまで蹂躙してきた有象無象の"赤酔いスライム"たちとは、格も、威圧感も、生存戦略さえも明らかに異なっていた。
まず、湧き上がる泡の密度が異常だ。まるで大釜で煮え立つ溶岩のように激しく、絶え間なく沸騰している。
次に、その色が違う。透き通った赤ではなく、数百年もの間、地下深くで沈殿し続けた古い血のような、どす黒く重厚な深紅。
そして何より――。
その煮え立つ液体の深淵で、琥珀色の光が、巨大な生物の拍動に合わせるかのように、ちかちかと、妖しく、不気味に揺れていたのだ。
「……ん?」
ゆうこが歩みを止め、目を細めた。
鋭利な刃物のような視線が、赤い水面の奥を貫通する。そこには、ただの魔物の臓腑とは思えない、何か硬質で、人工的な宝石をも凌駕する幾何学的な結晶体が、微かな外光を複雑に屈折させている気配があった。
バシャァァァッ!!
爆発的な衝撃音と共に、水たまりが四方八方へと弾け飛んだ。周囲にアルコール濃度の極めて高い、粘り気のある飛沫を撒き散らしながら、そこからひときわ巨大な質量が、大地を揺らして姿を現した。
「うわっ、なんだこれ!?これまでのやつとは、オーラが……いや、臭いが違いますよ!」
クルスが反射的に腰を抜かしそうになりながら、ずるずると後ずさる。
現れた魔物は、通常の個体の百倍、いや、もしかしたらそれ以上の質量を持っていた。
丸く膨らんだ赤い身体は、常にしゅわしゅわと細かな気泡を全身から吹き出しており、その一つ一つが弾けるたびに、周囲の空気を一瞬で酔わせるほどの暴力的な酒気を振りまいている。
しかも、その半透明な肉体の中心。
人間で言うところの心臓、あるいは魔核の位置に、巨大な飴玉をそのまま結晶化させたような琥珀色の塊が、ぼんやりと、しかし確かな存在感を持って鎮座しているのが見て取れた。
ぷるるんっ、どぷんっ。
巨体が一度身震いするたび、最高級の熟成酒をさらに何十倍にも煮詰めたような、芳醇でありながらも、呼吸を拒絶するほど濃密な香りが、物理的な圧を持って漂う。
サクの目が見開かれた。その瞳には、恐怖を完全に塗り潰した、考古学者が世紀の禁忌に触れた時のような、狂信的で純粋な興奮が宿っている。
「ちょっと待って……あれって、まさか……本物なの!?」
「何。ただの、太り過ぎたスライムじゃないの」
ゆうこがシャベルを構え直し、戦闘態勢を整えながら、心底どうでもよさそうに、しかし油断なく問いかける。
「違うわ、ゆうこ!全然違う!あれはただの変異じゃないわ、進化よ!」
サクは思わず、危険な間合いであることを忘れ、導かれるように一歩前に出た。彼女の頬は、大気中の酒精にやられたのか、あるいは興奮によるものか、林檎のように赤く上気している。
「たぶん、あれが古の文献にのみ記されていた熟成種よ」
「熟成種?」
クルスが、絶望に顔を引つらせながら、すがるように聞き返す。その言葉の響きだけで、自身の安穏が木端微塵に砕かれることを察したらしい。
サクは鼻息荒く、確信を込めて何度も頷いた。
「赤酔いスライムの中でも、この谷の特異な酒気を、数十年、あるいは百年単位でその身に取り込み、循環させ続けた個体が、たまに変質するの。その体液はもはや純粋な劇物。まともに浴びれば皮膚から酔いが回って意識を失うわ。でも、その代償として、体内にこの世のものとは思えない希少な物質を精製すると言われていて……あれは、間違いなく伝説級の『当たり個体』よ!」
「『当たり個体』ってゲームみたいに気楽に言うな!俺たちからすれば死神を引いたようなもんだろうが!死ぬぞ、物理的な質量攻撃でも、化学的なアルコール中毒でも、どっちに転んでも俺は死ぬ!」
ゆうこは、クルスの騒がしいツッコミを背景音程度に聞き流しながら、その視線で正確にスライムの核――あの琥珀色に輝く塊を射抜いていた。
確かに、赤いゼリー状の肉体の最深部に眠るそれは、周囲の体液とは一線を画す輝きを放っている。
琥珀色。
硬質でありながら、どこか温かみのある光。吸い込まれるような透明感があり、魔物の体液が偶然固まっただけの不純物には到底見えない。
ゆうこが、獲物を見定めた猟師のような冷たい声で、ぽつりと呟いた。
「……中に、何かある。あれを引っこ抜けば、終わりね」
その言葉を、皮切りにするかのように。
――『ほっほぅ♡良い眼力じゃ、惚れ惚れするのぅ』
脳内に直接、そして陽気なアルケラの声が響いた。
「出たな駄神!」
それは明らかに現在の事態を楽しんでおり、まるで特等席から舞台上の悲喜劇を鑑賞しているかのような、絶対的な余裕に満ちていた。
――『見る目が育ってきたのぅ。導いた甲斐があったというものじゃ』
「お前は解説役を気取ってないで少しは、こいつの動きを止めるなり手伝いなさいよ」
ゆうこが眉根を寄せ、内心で毒づくが、アルケラは「くすくす」と、ただただ愉快そうに笑い声を漏らすだけだ。
――『そう焦るでない。あれはな、谷の濃密な酒精を極限まで溜め込み、己の魔力と混ざり合って、長い年月をかけて奇跡的に結晶化したスライムの成れの果てじゃ。その内側にあるものこそ、常人が一生かかっても、あるいは歴史が何度繰り返されても拝めぬ至宝……“酒の結晶”と呼ばれる究極の精製物じゃよ』
アルケラはそこで一拍置き、もったいぶるように、そして勝利の果実を既に手にしたかのような確信に満ちた声で続けた。
――『つまりな、あれこそが……お主たちが血眼になって、命を賭して探しておった“琥珀のカケラ”の、現時点における最も有力な、そして唯一無二の候補というわけじゃな』
その瞬間。
ゆうこの瞳に、絶対的な戦意と、容赦のない殺気が宿った。
目の前の巨大な赤色の塊は、もはや忌々しい魔物などではない。
目的を達成するための、明確な「獲物」へと成り下がった。
「……クルス、サク。準備しなさい」
「ええ、もちろん!あれを逃したら、一生後悔するわ!」
「嫌だぁぁぁ……!俺は後悔してもいいから、安全な場所で寝ていたいんだぁぁぁ……!」
叫びながらも、クルスは震える手で戦闘体制に入る。
熟成種スライムが、地響きのような唸り声を上げ、その巨大な肉体を揺らした。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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「絶対やばいやつ来た」
「でも取りに行くのがこのパーティ」
「クルスの死亡フラグ立ちすぎ」
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