第154話『龍を止めるなら、龍で』
「…………!!」
たなかが大きく目を見開く。
龍が暴れながら、国中の《酒精の芽》を奪い尽くしている。
その不自然な異変のせいで職人が丹精込めて仕込む豆腐。
旅人の身体を芯から温める温泉。
樽の中で眠るウイスキー。
すべて、その本来の力を失いかけているというのに。
それでも。
「――患者よ」
ゆうこの凛とした声が、静まり返った地底湖の空間に響き渡った。
その瞬間。
――『ふぉっふぉっふぉっ』
頭の奥で、アルケラの軽い笑い声が転がる。
「何よ、急に笑って」
――『いやなに、ようやくお前さんも一人前の「ぽしゃけ医」らしくなってきたと思ってな』
「うるさいわね」
ゆうこは即座に吐き捨てるように返す。
だが、冷たく結んだはずの唇の端だけは、微かに、そしてどこか誇らしげに笑っていた。
その時だった。
ゴオオオオオオッ!!
耳をつんざくような重低音とともに、地下水龍が巨大な身体を激しく反らせる。
それによって、鏡のような湖面が一気に荒れ狂う。
「また来るわよ!」
サクが銀色の弓をしっかりと構え直す。
「でも、殺さない!」
ゆうこが切迫した声で叫ぶ。
「分かってるわよ、任せて!」
ぱきんっ!
鋭い破裂音とともに、大気中の酒気が凝縮され、美しい銀色の矢が瞬時に形成される。
サクは暴れる龍の巨体ではなく、そのすぐ横。
頭上にそびえ立つ巨大な岩壁へと狙いを正確に定める。
「《貫月》!」
ヒュンッ!!
風を切り裂き、銀色の閃光が闇を走る。
ズドォォォン!!
放たれた矢が突き刺さり、龍の進路上にあった巨大な岩塊が轟音とともに砕け散った。
ドドドドドッ!!
崩れ落ちた無数の岩の塊が、そのまま龍の進行方向へと大量に雪崩れ込む。
「グオオオオオッ!!」
地下水龍が突然の障害物に驚き、巨体を激しく捩って身悶えする。
「致命傷を与えず、進路だけを完璧に塞いだ……!」
たなかが目を見張り、感嘆の声を漏らす。
「まだ気を抜かないで、来るわよ!」
サクは息つく間もなく、次なる矢を形成するために力を込める。
「こいつ、力任せに突っ込んてくる気だわ!」
「なら!」
クルスが頼もしく一歩前へと歩み出る。
彼は右腕にぐるぐると巻き付けられていた重苦しい包帯を、焦ることなくゆっくりと解き放っていく。
「ここは、俺が止めます」
「クルス!」
包帯の下から露出した皮膚に刻まれた紋様が、眩い黄金色に激しく光り始める。
ゆうこの顔が引きつる。
「まさか……」
「ええ」
クルスはどこか誇らしげに胸を張り、そしていつものように妙に重々しい口調で告げた。
「龍を止めるなら」
右腕を天高く掲げ、声を張り上げる。
「龍で止めるに限ります!」
「出たぁぁぁぁぁ!!」
ゴォォォォォォォッ!!
狭い洞窟内に、暴力的なまでの黄金色の光が爆発的に広がる。
「我が右腕に眠りし、黄金の盟約よ、今こそ応えよ!」
「いや、今は緊急の治療中だから少し短めにして!」
「今、最高にいいところなんですから邪魔をしないでください!」
「全然いいところじゃないでしょ!」
サクが思わず吹き出しながらツッコミを入れる。
その間にも、黄金の光はさらに膨れ上がり、空間を圧倒していく。
ズズズズズズ……。
圧倒的な質量を持つ、巨大な黄金の龍が地底湖の岸辺にその姿を現した。
「グオオオオオオオ!!」
目の前の地下水龍。
そして、それに呼応する。
「ゴオオオオオオオ!!」
黄金ポコちん龍。
二体の巨大な龍による凄まじい咆哮が、地下空洞全体を激しく震わせる。
「絵面だけ切り取ったら、完全に冒険の最終決戦なのよ!」
ゆうこが耳を塞ぎながら叫ぶ。
「中身はれっきとした診察中ですけどね!」
クルスも負けじと大声で言い返す。
「そこが一番おかしいでしょうが!」
次の瞬間、地下水龍が怒りに任せて猛然と突進する。
黄金ポコちん龍も一歩も引かず、その巨体を前へ押し出す。
ドゴォォォォォォン!!
二体の巨大な生き物が正面から激突し、凄まじい衝撃波が周囲を薙ぎ払う。
「ぐっ……!」
強烈な押し合いに、クルスの身体が後ろへと少しずつ押し戻される。
右腕に刻まれた紋様が激しく明滅し、彼の限界を物語る。
「重っ……!」
「当たり前でしょ、相手は数十メートルもある巨獣なのよ!」
「分かってます……っ!」
足元の固い岩盤を削りながら、クルスは歯を食いしばって必死に踏ん張る。
「たなか!」
ゆうこは振り返り、仲間に鋭く指示を飛ばす。
「お願い!」
「任せて!」
たなかは腰に抱えていた年期の入った木箱を素早く開け、中から慎重に一丁の豆腐を取り出した。
その異様な光景に、ゆうこの目が丸くなる。
「ちょっと、まだ豆腐を持ち歩いてたの!?」
「いざという時の予備よ!」
「豆腐に予備なんて概念があるんだ!」
たなかはツッコミを華麗にスルーし、その豆腐を両手でしっかりと高く掲げる。
「よっ!」
大きく肺腑に息を吸い込む。
「男前どうふ!!」
ぽんっ!!
小気味いい音とともに真っ白な煙が立ち込める。
「…………」
ぬっ、と現れたそれを見て、一同は絶句した。
確かに男前どうふが姿を現した。
だが、その身体は今朝見たものと比べて、あきらかに、いや異常なほどに細い。
「ガリガリじゃないのよぉぉぉぉ!!」
ゆうこが思わず悲鳴を上げる。
召喚された男前どうふは、カサッ、と乾いた音がしそうなほど痩せ細った腕を持ち上げ、それでも気丈に、ぐっ、と親指を立てて見せた。
「身体は痩せても、男前精神だけは完全に健在……!」
たなかは悔しそうに唇を噛み締める。
「やっぱり……」
国中の水から《酒精の芽》が失われている影響で、この豆腐が持つ本来の力も著しく落ちているのだ。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
「それでも!」
たなかは自らを奮い立たせ、男前どうふの背中を力強く押す。
「今は、この子に頼るしかないんだから!」
男前どうふは無言で力強く頷き返すと、迷うことなく駆け出した。
「頑張れぇぇぇぇ!!」
ゆうこが両手を口に当てて必死に応援の声を飛ばす。
男前どうふは激しく暴れる地下水龍の横腹へと回り込み、その途方もなく太い前脚にしがみついた。
「…………」
もちろん、龍の巨体と豆腐一丁ではサイズ差が絶望的すぎた。
「いや、豆腐一丁でこんな巨大な龍の動きが止まるわけないでしょ!?」
案の定、まったく止まらない。
ズズズズズ……と、そのまま地面を引きずられていく。
それでも必死にしがみつく男前どうふ。
「男前ぇぇぇぇ!!」
たなかが涙声で名前を叫ぶ。
その執念が通じたのか、ほんの数秒、文字通りほんのわずかな間だけ、地下水龍の突進の勢いがふと鈍った。
「今よ!」
ゆうこが鋭く叫ぶ。
その瞬間を待ち構えていたかのように、ポンギが地底湖の縁へと一気に走り出す。
「よし、俺の番だな!」
ざぶんっ!!
彼は迷うことなく、両腕をたっぷりと冷たい湖の水の中へ深く突き入れた。
「ポンギ、無茶しないで!」
「分かってる、任せろ!」
ポンギはしっかりと目を閉じ、自らの全神経を研ぎ澄ませる。
固有の技――【湯加減】。
じわっ、と微かな熱が掌から伝わる。
最初は、水面に目立った変化は何も起きない。
だが、緊迫した数秒後。
冷え切った水面から、ぽつりぽつりと白い湯気がゆっくりと立ち上がり始めた。
「まさか……」
ゆうこは信じられないものを見るように目を見開く。
広大な地底湖。
その湖水全体が持つ温度が、みるみるうちに上昇していく。
「この広大な地底湖の水を、丸ごと温泉に変える気!?」
「そうだ、それしか方法がない!」
「規模がおかしすぎるでしょうが!!」
ポンギは冷たい水へ手を浸したまま、苦悶の表情を浮かべつつ大声で叫び続ける。
「三十八度!」
「いま実況してる場合じゃないでしょ!」
「三十九度!」
水面からもうもうと立ち上る湯気が、さらに濃さを増していく。
「四十度!」
その熱を帯びた水に触れ、地下水龍の荒れ狂う動きが、少しずつ、しかし確実に鈍くなってきた。
「効いてる……?」
ゆうこは固唾を呑んで見守る。
「ああ、水温が上がったことで、異常にこわばっていた筋肉の緊張が和らいでいるんだ!」
「四一度!」
地下水龍の荒い呼吸が、先ほどまでの荒々しさから少しずつゆっくりとしたものに変わっていく。
「あと少しだ……!」
ゆうこが拳を握りしめて叫ぶ。
「四十二度!!」
ポンギは限界まで見開いた両目をさらにカッと見開き、渾身の力を込める。
その瞬間、地底湖全体が完全に「極上の温泉」へとその性質を変えた。
もうもうとした真っ白な湯気が、洞窟の天井へと激しく立ち込める。
その熱に包まれ、あれほど狂ったように暴れていた地下水龍の巨体が、ぐにゃりと力を失うようにゆっくりと沈んでいく。
「グルルル……」
それは、さっきまでの聴く者を狂わせるような狂乱の咆哮ではない。
低く、どこか気だるげで、苦しみを紛らわせるような、しかし――。
それでも、先ほどよりは明らかに落ち着いた、穏やかな声だった。
「いける、これなら……!」
ゆうこが希望に満ちた声を上げる。
だが、その安堵も束の間。
直後、水底に沈みかけた龍の腹部で、異常なことが起きた。
禍々しい琥珀色の光が、かつてないほど強く、そして激しく明滅したのだ。
ビクンッ!!
「っ……!」
温められて落ち着きかけていたはずの地下水龍の身体が、再び大きく激しく跳ね上がる。
「まだダメ、これじゃ足りない!」
ゆうこが青ざめながらも叫ぶ。
「体内に溜まりすぎた《酒精の芽》の量が、まだ多すぎるんだわ!」
「なら、もっと温度を……!」
ポンギは歯を食いしばり、熱を放つ両腕にさらに力を込める。
「これ以上温度を上げたら……。ねぇ、四十二度以上は上げられるの?」
「…………」
ポンギは問いに答えず、苦しそうに押し黙る。
「できるの、できないの!?」
「できる、俺の力ならもっと上げられる」
「じゃあ、早く……!」
「だが……!」
ポンギは真剣に歪んだ顔のまま、熱湯と化した湖面をじっと見つめ返す。
「温度を四十二度を超えて上げちまったら、それはもう……」
少しだけ言葉を濁し、重々しく告げた。
「温泉じゃねえ、ただの『熱湯』だ」




