第155話『壊さずに、治す』
「熱湯!?」
ゆうこは頭を抱え、絶望的な現実から目を背けたくなる衝動を必死に抑え込む。
だがモルティは痛みに耐えかねてか、再び狂ったように暴れ始めている。
渾身の力で押し出されていたはずの黄金ポコちん龍が、その強烈な巨体のうねりに耐え切れず、じわじわと押し返されていく。
「クルス!」
「まだ……いけますっ!」
サクもまた、一瞬の隙も逃さず、崩れかけた地底湖の岩壁をさらに銀色の矢で鋭く射抜く。
「もう長くは保たないわよ、早くして!」
たなかの足元で召喚された男前どうふも、自分より何倍も巨大な龍の脚にしがみつき、その細い腕をぷるぷると震わせている。
「ポンギ!」
ゆうこは振り返り、焦燥の色を滲ませた声で叫んだ。
「お願い、温度を上げて!」
「…………」
ポンギの引き締まった拳が、苦悩の色を帯びて細かく震える。
四十二度。
それが、彼にとって最高の湯加減。
職人としての誇りをかけて、ずっと守り続けてきた自分の基準。
自分の信念。
けれど彼の網膜に映る光景は、あまりにも切実だった。
必死の形相で踏ん張るクルス。
正確無比に矢を放ち続けるサク。
細い身体で懸命に男前どうふを支えるたなか。
そして、苦しむモルティを何としても救おうとしているゆうこの背中。
「…………」
ポンギは覚悟を決めたように、小さく熱い息を吐き出した。
そして、再び両手を白く泡立つ熱い湯の中へ深く沈めた。
「ポンギ?」
ゆうこが信じられないものを見るように見つめる。
ポンギは低く、そして静かに告げた。
「……愛する仲間のためなら」
水面が激しく揺れ動き、周囲の空気が急速に熱を帯びていく。
「一度や二度くらい」
地底湖全体の温度が、さらに、容赦なく上がる。
「俺の風呂道なんて……」
ポンギがカッと目を見開いた。
「曲げたっていいんだよ!!」
ゴォォォォォッ!!
まるで地底のマグマが解放されたかのように、もうもうとした熱い湯気が一気に噴き上がった。
「四十三度っ!!」
「熱っっっ!!」
反射的に飛び上がるゆうこ。
「いや、まだ湯船に入ってないでしょ!」
すかさずサクの鋭いツッコミが飛んできた。
そして、広大な地底湖はついに、足を踏み入れることすら許されない禁断の領域、四十三度へと達した。
モルティの巨大な身体から、少しずつ緊張が抜けていく。
温かな湯に包まれながら、その巨体は水面に浮かんだまま、ゆっくりとくつろぐように身体を揺らしていた。
「グルル……」
荒々しかった呼吸が、少しずつ、しかし確実に落ち着きを取り戻していく。
全身を走っていた激しい痙攣も、徐々に弱まってきた。
「今よ、チャンス!」
サクが声を張り上げる。
ゆうこは手元にあった万能シャベルを、冷たい地面へと突き刺した。
そして、両手を目の前で苦しむモルティの膨れ上がった腹部へ向ける。
「ここからは……」
ゆうこの顔から先ほどまでの焦りがすっきりと消え失せ、完全に「ぽしゃけ医」としての顔つきへ変わっていた。
「私が、治す!」
ゆうこの凛とした声が、熱い湯気に満ちた地底湖の空間へ静かに響き渡った。
その表情から、さっきまでの慌ただしい空気は完全に消え去っている。
目の前にいるのは、十人をも呑み込みそうな巨大な龍。
けれど、今のゆうこにとっては手当てを待つ、ただ一人の患者にすぎなかった。
「サク!」
「何をすればいいの?」
「モルティを傷つけずに、その場から動けないようにして!」
「了解!」
ぱきんっ!!
サクの手元に、眩い銀色の弓が形成される。
狙うのはモルティの巨体ではない。
その周囲を取り囲む岩盤だ。
サクは素早く弦を引き絞ると、モルティの左右にそびえる岩壁へ向けて、次々と矢を放っていく。
ヒュンッ!!
ズドォォォン!!
放たれた矢によって崩れ落ちた巨大な岩が、モルティの巨体を囲むように次々と積み重なっていく。
「クルス!」
「まだ完璧に押さえています!」
黄金ポコちん龍が、暴走する地下水龍モルティの長い首元へ己の巨体をしっかりと絡ませる。
ゴゴゴゴゴ……!!
クルスの右腕に刻まれた神秘的な紋様が、眩い黄金色に激しく脈打つように輝いている。
「このままでは、長くは保ちませんよ!」
「時間なら十分!」
ゆうこはモルティの異様に膨らんだ腹部へと視線を完全に集中させた。
そこには、無数の《酒精の芽》が、毒々しいまでに禍々しい琥珀色の光を放ちながら渦巻いている。
それが、まるで逃げ場のない濁流のように、龍の体内を狂ったように巡っていた。
「…………」
ゆうこは大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
圧縮。
これまでにも。
幾度となく使ってきた技術。
敵の急所を潰すため。
頑丈な岩を粉々に砕くため。
暴走する核を破壊するため。
少しずつ、少しずつ、自分の限界を引き上げながら強くしてきた力。
「今日は、いつもの戦いとは違う」
ゆうこは両手を大きく広げ、大気中の酒気を手のひらへと集める。
「今回は、壊さない」
張り詰めた緊張感の中で、指先がごく微かに震える。
「本当に必要なのは……」
モルティの腹部の皮膚。
繊細な内臓の組織。
複雑に絡み合う血流。
そして、その隙間を毒のように流れる《酒精の芽》。
すべてを頭の中で完璧に分離し、イメージする。
「《酒精の芽》だけを、狙う」
ゆうこの瞳が鋭い光を帯びる。
「そこだけを、ピンポイントで圧縮するの」
サクが息を呑み、心配そうに問いかける。
「そんな人間離れした細かい事、本当にできるの?」
「やるのよ。できるかどうかじゃない、やるしかないんだから!」
ゆうこは、両手を、まるで大切なものを包み込むようにゆっくりと閉じていく。
「患者の中身ごと潰すわけにはいかないでしょ!」
ぐっ……!
空間を支配する空気が、一変して重くなる。
モルティの腹部に蓄積された琥珀色の光が、圧力に耐えかねて僅かに歪み始める。
「グルッ……!」
モルティが苦痛に満ちた低い呻き声を漏らす。
「ゆうこ!」
たなかが不安を隠しきれない顔で叫ぶ。
「大丈夫、耐えて!」
ゆうこは一瞬たりとも目を逸らさない。
「ただ、痛いだけだから!」
「痛いの!?」
「いい? 優れた治療って、大体は一時的に痛みを伴うものなのよ!」
「理屈はすごく分かるけど、見ているこっちが怖くなるわよ!」
仲間たちの絶妙な掛け合いを背に受けながら、ゆうこの両手がさらに、ごくわずかに、しかし確実に閉じられていく。
すると、モルティの腹部のあちこちに散らばっていた《酒精の芽》が、奇妙な引力に導かれるように、少しずつ、少しずつ、中心へと集まり始めた。
ぽう。
ぽう。
ぽう。
琥珀色の幻想的な光。
それらが、一つの確実な一点へと激しく吸い寄せられていく。
「光が集まってる……!」
サクが目を見張る。
「でも、まだ足りない!」
ゆうこの額から、大粒の汗がぽたぽたと地面へ滲み落ちる。
ここで力を強くしすぎれば、モルティの繊細な内臓まで一緒に圧縮してしまう。
逆に、力が弱すぎれば、暴走する《酒精の芽》の塊はびくとも動かない。
いま必要なのは、ほんのわずかな狂いも許されない、ギリギリのあまりにも正確な、圧のコントロール。
「もっと……」
ゆうこは歯を食いしばり、痛みに耐えるように奥歯を鳴らす。
「細く、研ぎ澄まして……!」
右手の指先を、ほんの数ミリだけさらに閉じる。
「もっと一点に集中させて……っ!」
散らばっていた琥珀色の光が、ぎゅっ、と一つの強固な塊へとまとまり始める。
「グルルルル……!」
モルティの巨大な身体が、圧縮の痛みに耐えて激しく震える。
「ポンギ!」
「分かってる!」
ポンギは熱せられた地底湖へ両手をしっかりと浸したまま、力強く叫び返す。
「四十三度の湯、完全に維持している!」
「それって、もう完全に治療用の風呂を超えてるんじゃないの!?」
「細かいことは気にするな、今日はこれでいいんだ!!」
彼の背中からは、文字通り熱い男の魂が立ち上っている。
そして、極限まで高められた四十三度の湯が、モルティのこわばりきった筋肉の芯まで優しく緩めていく。
暴れようとする龍の本能的な力を、少しずつ心地よい温もりで奪っていく。
「たなか!」
ゆうこが息を切らしながら叫んだ。
「豆腐はまだある!?」
「あるよ!」
「持ってたの!?」
「当然、いつだって万全の準備は怠らない!」
「一体、どこにそんな大量の豆腐を隠してるのよ!」
たなかは焦りながらも腰の木箱の留め具を勢いよく開いた。
その中には、数丁の豆腐がきちんと収められている。
「この非常事態に、豆腐の在庫だけは妙に潤沢なんだけど!」
「豆腐屋のプライドだからね!」
たなかは手際よく一丁の豆腐を取り出す。
しかし、その顔はすぐに曇った。
「でも……」
「どうしたの?」
「今の異常な水で作った豆腐だから……」
たなかは手に乗せた豆腐を見つめ、切なそうに眉を落とす。
「この子も、本来の力が出せなくて、すごく弱い」
「…………」
ゆうこは一瞬だけ、ためらうように思考を巡らせる。
「それでもいいわ」
「え?」
「強くなんかいなくていい」
ゆうこはまっすぐにたなかを見据える。
「今回は、こいつに戦わせる訳じゃないんだから」
「じゃあ……」
「食べさせるのよ。この子の弱った身体に、優しい栄養を届けるためにね」




