第153話『敵ではなく、患者』
「…………!」
ゆうこの目が見開かれる。
これが――。
この山の水に、確かに宿っていたという目に見えない神秘の力。
職人が仕込む豆腐に深い旨味を与え、冷えた温泉に人を癒やす奇跡の力を授け、樽の中で眠るウイスキーに豊かな酒気を宿らせていた根源。
この国の水を、ただの透明な液体ではなくしていた特別な何か。
その《酒精の芽》が、今まさに、目の前の静まり返った地底湖の底から、無数に浮かび上がっている。
そして、すぅぅぅぅぅ……と、静かな吸気音を響かせながら、それらの一切合切が巨大な龍の開いた口へと吸い寄せられていく。
「…………」
圧倒的な光景を前に、ゆうこたちは息を呑み、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。
無数の琥珀色の光の粒が、一粒、また一粒と、龍の巨大な口内へ吸い込まれていく。
ごくん、と。
暗闇に響くほど大きな喉が鳴る。
その瞬間だった。
龍の巨体の腹部、黒褐色の硬質な岩鱗の隙間から、ぼうっと怪しくも眩い光が漏れ出す。
「お腹が……」
たなかが青ざめた顔で呟く。
「透けている」
龍の分厚いはずの腹部、その一部だけが、内側から発せられる光によって異様なほど強く、痛々しく輝いていた。
何百、何千、いや、それ以上。
途方もない量の《酒精の芽》が、その巨体の内部へと限界を超えて蓄積されている。
「…………こいつだ」
ポンギの握りしめた拳が怒りで細かく震える。
「こいつが……!」
絞り出すような声には、剥き出しの怒りが痛いほどに混じっていた。
「俺たちの水から、すべての力を奪っていたのはこいつだったのかよ!」
「待って、ポンギ!」
ゆうこが制止するように両腕を大きく伸ばす。
「まだ、早計に攻撃しないで!」
「なんでだ、目の前で吸い上げてるだろ!」
「様子がおかしいから……!」
「何がだ!」
ゆうこは激昂する仲間を制し、巨大な龍の姿を凝視する。
確かに、目の前で《酒精の芽》を貪り食っている。この山の異変の元凶であることは、もはや疑いようのない事実だ。
だが――。
「この龍……」
ゆうこは眉を深く寄せ、違和感を口にする。
黒褐色の硬い鱗に覆われた巨体。
その隙間を、もう一度よく観察する。
「苦しんでない?」
「え?」
ポンギが怪訝そうに龍を睨み直す。
ゴォォォォ……。
地鳴りのような荒い呼吸。
巨大な身体が、小刻みに、しかし激しく震えている。
異常に膨れ上がった腹部。
琥珀色の光が脈打つたびに、びくっ、と龍の巨体が痙攣を起こすように波打つ。
「本当だ……言われてみれば……」
サクが銀色の弓を構えたまま、その美しい目を細める。
龍は確かに《酒精の芽》を喰らっている。
だが、その表情や挙動に、満ち足りた様子は一切ない。
むしろ、拒絶したいのにできないような、激しい苦悶の色に満ちている。
それなのに。
ゴォォォォォォ……!
龍は再びその巨大な口をこじ開ける。
周囲の《酒精の芽》を、まるで引きずり込まれるかのように強引に吸い込んでいく。
ごくん。
耐えがたいものを飲み下す音。
びくっ!!
その度に、龍の巨体が凄まじい勢いで痙攣した。
「こんなに苦しいなら、やめればいいのに……」
たなかが胸を押さえて呟く。
だが、龍はやめない。
自らの身体を蝕む苦しみに耐えながら、それでもなお、貪るように喰らい続けている。
「…………」
ゆうこの胸の内で、一つの決定的な疑問が形を成していく。
なぜ、そこまでして。
自らを壊すほどの《酒精の芽》を求め続けるのか。
――『妙じゃのう』
不意に、頭の中でアルケラの声が響く。
「アルケラも、そう思う?」
――『うむ』
そして、酒神は巨大な龍を見据えるゆうこたちへ、静かに告げた。
――『あれはな、《地下水龍》と呼ばれる古き存在じゃ』
「地下水龍……?」
――『本来は、このような深き地下水脈に棲まい、水と共に穏やかに生きる霊獣よ』
「じゃあ……」
ゆうこは息を呑み、声を震わせる。
「もともと、この国の自然にいたの?」
――『おそらくな。しかもじゃ』
アルケラの声が、さらに低く、真剣味を帯びる。
――『あの龍が《酒精の芽》を喰らうこと自体は、決して異常なことではない』
「…………え?」
あまりの意外な答えに、全員の動きがピタリと止まる。
「どういうこと? じゃあ、どうしてこんなことに……」
――『地下水龍はな、本来は水に宿る《酒精の芽》をごくわずかに口にし、それを生きる糧としておる』
――『そして、自らの体内でめぐらせた残りの力を再び水脈へ優しく還しながら、水と共に循環して生きるのじゃ』
「それなら……!」
ゆうこは、信じられないものを見るように龍の腹部を見据える。
異常なまでに膨れ上がり、禍々しく蓄積された琥珀色の光の塊。
「本来なら、こんなに大量には食べないのね?」
――『その通りじゃ。今のそれは、どう見ても過剰摂取にすぎぬ』
「…………」
ゆうこの表情が、険しさから深い思索の色へと変わっていく。
敵が自分たちの水を汚し、《酒精の芽》を根こそぎ奪っている。
それなら、迷わず力を合わせて倒せばいい。
そんな単純な勧善懲悪の物語ではなくなってしまった。
この龍は、本来はこの国の水と共鳴し、その命を支え合ってきた存在だった。
ほんの少しの芽を口にし、水を壊すこともなく、長い年月をこの静かな地底湖で過ごしてきたはずなのだ。
それが、なぜ。
突然にしてこのような異常な量をむさぼり喰うようになってしまったのか。
「……この子に、何か決定的な何かが起きたんだわ」
ゆうこが痛切な想いを込めて呟く。
その瞬間。
ギロッ!!
地下水龍の血走った巨大な瞳が、鮮烈な殺意とともにゆうこたちを鋭く捉えた。
「っ……!」
凄まじいプレッシャーに息が詰まる。
龍がその長大な首を大きく持ち上げる。
バキバキバキッ!!
暴れる巨体に押し上げられ、頭上の鋭い鍾乳石が無残に砕け散って降り注ぐ。
ゴォォォォォォォ!!
耳をつんざくような凄まじい咆哮が、地底湖の空間全体を揺るがせた。
「来るわよ!」
サクが覚悟を決め、鋭く叫ぶ。
地下水龍は怒り狂ったように、水面を真っ二つに割りながら巨大な前脚を振り上げた。
狙いは、まさに目の前にいるゆうこたち。
「みんな、散って!!」
直後。
ズドォォォォォォン!!
常軌を逸した重みを持つ巨大な爪が、先ほどまでゆうこたちがいた岩場を直撃し、一撃のもとに粉々に叩き砕いた。
「うわぁぁぁぁ!!」
凄まじい衝撃波に巻き込まれ、ゆうこは身体を宙へ浮かせながら湿った地面へ激しく転がり落ちる。
砂塵が舞う中、それでもゆうこは視線を逸らさず、目の前の巨獣を睨み据えていた。
自らの身体が悲鳴を上げているというのに、なおも苦悶の表情を浮かべながら《酒精の芽》を求め、理性を失ったように暴れ回る地下水龍。
これは、ただ排除すべき「敵」なのか。
それとも――。
「……私たちが救うべき、患者の相手なのかも……」
ゆうこは地面に突き立てていた万能シャベルの柄を、決意を込めて強く握り締めた。
だが、刃を向けるべきか。
目の前の地下水龍は、もはや理性を失い、侵入者である彼らを明確な「敵」として認識して暴れ狂っている。
水飛沫を散らす巨大な爪。
すべてを噛み砕く鋭い牙。
湖面を叩きつけるたび、足元の岩盤そのものが大きく揺れるほどの暴力的な巨体。
通常の冒険であれば、ここで迷う必要など一秒たりともないはずだ。
襲いかかってくる脅威には、ただ全力で攻撃し、打ち倒すのみ。
それだけのシンプルな話なのだから。
「……違う、そんな単純な話じゃない」
ゆうこは息を荒らげながら、小さく首を横に振る。
「ゆうこ、何を考えてるの!?」
サクが弓を構えたまま、横目で鋭く問いかける。
ゆうこは返事をせず、荒々しく上下する龍の腹部へとまっすぐに視線を注いだ。
異様に膨らみ、琥珀色に毒々しく光る《酒精の芽》の山。
その量は、どう見ても限界を優に超えている。
そして、それを無理やり呑み込むたびに走る、激しい痙攣。
苦しみに満ちた荒い呼吸音。
龍の肉体は、すでに自分の意思とは無関係に壊れかけ、限界のさらに向こう側へと突入している。
それなのに、本能だけが飢えているように、まだ欲しがっている。まだ、次を喰らおうとしている。
「これって……」
ゆうこの顔から、先ほどまでの殺伐とした戦闘の色がすっきりと消え去る。
代わりにそこへ浮かんだのは、幾多の現場で苦しむ患者に向き合ってきた医療従事者としての、冷徹なまでの観察眼と深い慈愛だった。
「自分から好んで食べてるわけじゃない」
「え……?」
たなかが目を見開き、息を呑む。
「この子は、もう自分の意思で食べるのを止められなくなってるんだわ」
ゴォォォォォ……!
地下水龍が再び絶望に満ちた咆哮を轟かせる。
頭をもたげ、巨大な口を大きく開け放つ。
またしても、湖の底から無数の琥珀色の光が妖しく浮かび上がってくる。
すぅぅぅぅぅ……と、周囲の空気を引き裂くような吸引音。
光の粒が、抗う術もない龍の喉元へと容赦なく吸い込まれていく。
「待って、やめて……!」
ゆうこが思わず一歩踏み出し、制止するように叫び声を上げる。
もちろん、理性を失った巨大な龍が人間の言葉を理解できるはずもない。
ごくん、と、またしても過剰な量の光がその胃袋へと呑み込まれる。
直後。
ビクンッ!!
「ほら見て!」
ゆうこは震える指で龍の巨体を指し示す。
「一粒飲み込むたびに、身体のあちこちが激しく痙攣してる……!」
「本当だわ……苦しんでいるのに、勝手に体が飲み込んじゃってるのね」
サクもまた、弓を下ろさないまま、その異常な光景に表情を曇らせる。
「うん……」
ゆうこは力強く頷き、確信に満ちた声を出す。
「この子の身体は、もう《酒精の芽》なしでは生きられないほど依存しきって、中毒を起こしてるのよ。だから、本能が恐怖で拒絶していても、無理やり求め続けちゃうんだわ」
クルスが静かに一歩進み、冷静な口調で問いかける。
「依存、ですか。人間でいう薬物中毒のような状態と?」
「ええ、おそらくそれに近いものだと思う」
ゆうこは険しい表情のまま、苦悶に身悶えする龍を見据える。
「少なくとも、野生の動物や霊獣がするような、健全な食事の仕方じゃないわ」
ポンギは頼もしい腕組みを解き、戸惑いを隠せない面持ちで唸る。
「じゃあ、俺たちはどうすればいいんだよ。あいつを暴れさせたままでおくわけにはいかないだろ」
「決まってるでしょ」
ゆうこは手元にあった万能シャベルを、ズボッと力強く地面へ突き立てた。
そして、仲間たちの顔を一人ひとり見据えながら、はっきりと宣言する。
「この子は倒さない。私たちがやるべきなのは、討伐じゃなくて治療よ」




