第152話『《酒精の芽》』
そこから、一行は水源へ続く山道を外れ、湿った地面に残された巨大な痕跡を追い始めた。
深い森の奥へ進めば進むほど、地表を抉る爪痕は恐ろしいほどに大きさを増していく。
あちこちに散乱する、激しく折られた太い木々。
無残に砕け散った鋭い岩肌。
足元には、尋常ではない重量の何者かに踏み荒らされた、深くえぐれた泥の溝がどこまでも続いていた。
「……いったい、どれだけデカいのよ」
ゆうこは重々しい表情を浮かべながら、手元の万能シャベルを強く握り直す。
やがて、前方を遮っていた鬱蒼とした木々が不意に途切れた。
「…………!」
息を呑み、一行がぴたりと足を止める。
目の前にそびえていたのは、見上げるほどに巨大な絶壁の岩肌。
そして、その底の根元に、ぽっかりと黒々とした口を開けている不気味な大穴。
ただの洞窟、というにはあまりに威圧感を放つ空間。
いや、それだけではない。
漆黒の洞窟の入口から、ごうごうと轟音を立てて、大量の冷たい水が勢いよく流れ出している。
「ここ……」
たなかは大きく目を見開き、信じられないものを見るように洞窟の入口を見つめた。
「まさか、こんなところまで来ることになるなんてね……」
「たなか、ここがどこだか知ってるの?」
ゆうこが尋ねると、たなかはゆっくりと頷いた。
「水源のひとつだよ」
「ひとつってことは、他にもあるの?」
「うん。この山の地下には、いくつもの複雑な水脈が張り巡らされているの」
たなかは洞窟の暗がりを凝視しながら言葉を継ぐ。
「ここは、その中でも特に大きな水脈へと繋がっていると言われている場所なんだよ」
ゆうこは視線を下へと落とし、地面を這う痕跡を確認する。
巨大な溝。それは寸分の狂いもなく、真っ直ぐにその洞窟の奥底へと続いていた。
「…………」
サクは音もなく弓へ手を伸ばし、鋭い矢に指をかける。
クルスも腕に巻かれた包帯へそっと触れ、戦闘態勢に入る。
ポンギは頼もしく拳を固く握り締め、たなかも緊張の色を滲ませた面持ちで洞窟の闇を見つめている。
「しゅわ……!」
しゅわ丸は、ゆうこの足首へとびったりと身体を寄せ、恐怖に震えながら身を小さくしていた。
その時だった。
ゴォォォォォ……。
洞窟の遥か暗い奥底から、腹の底に響くような低い地鳴りのような音が轟いた。
「……風の音?」
ゆうこは耳を澄まし、息を殺す。
違う。一定のリズムを刻む風の吹き抜け方ではない。
ゴォォォ……。
不意に音が止まる。
そして。
ゴォォォォォ……。
再び重苦しく響き渡る。
まるで、広大な地下の深淵に潜む巨大な何者かが、ゆっくりと、深い呼吸を繰り返しているかのような錯覚に陥る。
「…………いるわね、確実に」
サクが小さく呟き、警戒を強める。
ゆうこは万能シャベルの柄を力いっぱい握り締め、底知れぬ暗闇の奥を睨み据えた。
まだ、その正体は視界に入っていない。
だが、確信がある。
この冷たい闇の先に、確かな「何か」が潜んでいる。
この山の命綱である清らかな水の中から、街を狂わせる《酒精の芽》だけを次々と喰らい尽くしている張本人が。
「行こう」
ゆうこは固い決意を胸に、一歩を踏み出す。
ついに、冷え切った暗い洞窟の内部へと足を踏み入れた。
ひやり、と。
外の世界とは明らかに異なる凍てつくような冷気が、ゆうこの頬を撫でて通り過ぎる。
「……寒っ」
思わず身震いし、白衣の襟元をしっかりと合わせる。
一歩、また一歩と慎重に足を進める。
奥へ進むにつれて、背後の入口から差し込んでいた頼りない陽光は、急速にその光量を失い、闇へと呑み込まれていった。
代わりに洞窟内を満たしているのは、不気味なほどの静寂と、奥壁から絶え間なく響く低い水音だけ。
天井の岩肌から、冷たい水滴が一定の間隔で落ちてくる。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
そして、時折お腹の底を揺らすように聞こえてくる、あの巨大な息吹。
ゴォォォ……。
「やっぱり、ただの風なんかじゃないわね」
サクが息を潜め、小声で呟く。
「うん……」
ゆうこも緊張の面持ちで頷き返す。
やはり規則正しい自然の風ではない。
重く響いたかと思えば、ピタリと止まる。そして、再び不気味に響く。
まるで、底知れぬ眠りについた途方もない巨獣の、深い寝息そのものだった。
「ポンギ」
「なんだ?」
「ここ、来たことある?」
「入口の近くまでならな」
ポンギは周囲の暗がりを警戒の視線で払いながら答える。
「だが、この奥へ足を踏み入れたことは一度もない」
「これほど大事な水源なのに?」
「この山の地下水脈は俺たちが想像する以上に複雑なんだ」
たなかが一歩前に出て説明を加える。
「途中から人間が到底入れないほど狭くなっていたり、逆に底がどこにあるかすら分からないほど深い縦穴になっていたりするからね」
「なるほど……だから誰も近づけなかったんだ」
ゆうこは足元に視線を落とす。
そこでは、濁りのない透き通った水が、静かに、しかし確かな流れを作って足元を洗っていた。
洞窟の奥底から発し、これからあの街の方角へと絶え間なく流れ下っていく命の水。
「この水も、やがてあの街まで届くんだよね」
「うん」
たなかが神妙な面持ちで頷く。
「途中でいくつもの支流と合流しながらね」
「…………」
ゆうこは流れる水面をじっと見つめる。
ここを流れる水自体は、見たところ驚くほど綺麗だった。
それなのに。
「しゅわ……」
しゅわ丸は、ゆうこの足元にぴったりと張り付いたまま、一歩も水に近づこうとしない。
やはり、ここも街の井戸水やあの小川と同じなのだ。
「もっと奥へ進むしかないわね」
ゆうこは顔を上げ、再び前を向いた。
◇
さらに険しい道のりをしばらく進むと、それまで広かった洞窟は少しずつ狭く、天井も低くなってきた。
「頭、気をつけてね」
たなかが後ろの面々に声を掛ける。
「分かっ……」
ゴンッ!!
「いったぁぁぁぁぁ!!」
直後、鈍い衝撃音とともに、ゆうこが頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「言ったそばから激突するなんて!?」
「だってもう言うのが遅いんだもん!」
「目の前に大きな岩が出っ張ってたでしょ!」
「暗くて全然見えなかったのよ!」
サクが呆れ返ったように、痛がるゆうこを冷ややかに見下ろす。
「洞窟に入ってまだ五分も経ってないのに、敵と遭遇する前に岩に敗北する人なんて初めて見たわ」
「負けてない、ただの不意打ちだし!」
「しゅわ♪」
「ちょっと、しゅわ丸まで笑った!?」
相棒の丸い身体が、可笑しそうにぷるぷると小刻みに揺れている。
その横で、クルスは淡々と天井を見上げて涼しい顔をしていた。
「俺は元から猫背気味でしたので、こういう時は助かりますね」
「人生で初めて猫背が長所として輝いた瞬間ね!」
だが、そんな軽口を叩き合う余裕も、すぐに消え去ることになる。
険しい狭窄部を抜けたその先。
「…………!」
一行の視界が、一瞬にして信じられないほどの広がりを見せて開けた。
そこは、言葉を失うほど巨大な地下空洞。
天井は遥か頭上の暗闇の彼方にあり、そこから無数の鋭い鍾乳石がまるで牙のように垂れ下がっている。
岩壁のあちこちから清らかな地下水が滝のように流れ込み、その広大な空間の中央には、一つの巨大な地底湖が静まり返っていた。
「……すごい」
ゆうこは圧倒的な光景に息を呑み、言葉を失う。
地底湖の水面は、風すらないため鏡のように周囲の景色を完璧に映し出している。
驚くべきはその透明度で、底の深さすら容易に見通せそうだった。
おまけに、洞窟の内部だというのに、湿った岩壁の至るところに群生する淡い青色の苔が、神秘的な蛍光色の光を放っている。
その柔らかな光が湖面に反射し、広大な地下空間全体が、深く幻想的な青色に美しく輝いていた。
「こんな場所が、この山の底に隠されていたなんて……」
豪快なポンギですら絶句し、立ち尽くしている。
たなかも初めて目にする光景らしく、目を丸くして見開いていた。
「私だって、こんな場所の存在は知らなかった……」
ゆうこは吸い寄せられるように、ゆっくりと湖の縁へと近づいていく。
「先生、待ってください」
クルスが素早く腕を伸ばし、その歩みを制止する。
「どうしたの?」
「足元をよく見てください」
ゆうこが促されるままに、そっと視線を足元へ落とした。
「…………!」
そこにあったのは、やはり見覚えのある恐怖の証。
巨大な痕跡。
森の外で見つけたものと完全に一致する、圧倒的な規模の爪痕。
何か途方もなく重い巨体が、地面を引きずられながら進んだような太い泥の溝。
それが、そのまま地底湖の縁へと直結していた。
そして、その痕跡は、湖の波打ち際でぷっつりと途切れていた。
「まさか、この中へ入った……?」
サクはすぐに身構え、銀色の弓に手をかける。
ピリピリと張り詰めた緊張感が、一瞬で空気を支配した。
全員が、ただ静まり返った不気味な湖面へと一斉に視線を集中させる。
「…………」
何も起きない。
波ひとつ、さざ波すら立っていない。
ゆうこは万能シャベルの柄を握り締める手に力を込めた。
「しゅわ丸」
「しゅわ……」
「絶対に私の脚から離れないでね」
「しゅわ!」
しゅわ丸は震えながら、ゆうこの足首にぐっとしがみつく。
その緊迫した静寂を切り裂くように、音もなく現象が起きた。
ぽこっ。
「…………?」
静まり返った湖の中央付近。
小さな泡が、ひっそりと一つだけ水面へと浮かび上がってきた。
ぽこっ。
それに続くように、また一つ。
ぽこ。
ぽこぽこぽこっ……!
「……来るわよ!」
サクが鋭く息を吸い込み、弓を引き絞る。
ぱきん、と大気が凍りつくような清らかな音とともに、眩い銀色の光を放つ弓が形作られる。
たなかも懐から素早く取り出したものを掲げた。
「よっ! 男前どうふ!」
ぽんっ!!
盛大な白煙とともに、筋肉隆々で凛々しい顔立ちの「男前どうふ」が頼もしく現れた。
「いや、戦闘の最中に豆腐を持ち歩いてたの!?」
「当たり前でしょ、こんなこともあろうかと!」
「何が当たり前なのよ!」
「いざとなれば非常食にもなるし!」
その言葉に反応してか、召喚された男前どうふは、ガーンとショックを受けたように劇画タッチで顔を曇らせた。
「ちょっと、本人の目の前でそんな悲しいこと言わないであげてよ!」
そのコミカルなやり取りを遮るように、水面で激しい異変が起きた。
ボコッ!!
広大な湖面の一角が、盛り上がるように大きく膨れ上がる。
「っ……!」
全員が再び身構え、息を呑む。
ボコボコボコボコボコッ!!
無数の泡が水面を埋め尽くし、湖の水全体が底知れぬ内側からの圧力で持ち上がっていく。
「全員、下がって!」
ゆうこが鋭く叫び声を上げる。
直後。
ザバァァァァァァァン!!
地底湖がまるで爆発したかのような轟音を立てて割れた。
「うわぁっ!」
周囲に降り注ぐ、大量の水飛沫と激しい濁流。
その水柱の底から、途方もなく巨大な影が、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を持って湖面へ姿を現した。
地鳴りのように洞窟の岩壁が激しく震え、天井の鍾乳石から無数の雫が一斉に降り注ぐ。
そして。
ズズズズズズ……。
暗褐色に濁った、おぞましいほどに巨大な身体。
最初に見えたのは、岩肌と見紛うほどに硬質で無骨な巨大な鱗の数々。
その一枚一枚が、人間の大人の胴体ほどもあるほどのスケール感だった。
次に、水面を割って天を突くように長い首が鎌首をもたげる。
荒々しく突き出た鋭い角、獲物を噛み砕くために裂けた巨大な口。
そして、暗闇の空間の中で不気味に輝く、血走った二つの瞳がカッと見開かれた。
「…………龍、だわ」
ゆうこは圧倒的な存在感を前に、思わず息を呑み、言葉を失う。
その全身の長さなど、この暗がりでは一目で見極めることすら不可能だった。
水面へ露出している上半身だけでもビルのように巨大であるというのに、その下の湖中にはさらに果てしない長大な胴体が沈んでいる。
「こいつが、今回の元凶……」
サクは冷や汗を流しながらも、矢の先端をその巨獣の急所へと合わせる。
森を這っていた巨大な溝の痕跡。
枯れかけていた水源。
そして、目の前にいるこの想像を絶する巨大生物。
すべてのピースが恐ろしい精度で噛み合っている。原因はこの龍で間違いない。
「まだよ、早計に決めつけないで」
ゆうこは左手を突き出し、サクの攻撃を必死に制止した。
「こいつが諸悪の根源だって決まったわけじゃないわ」
「でも、状況証拠は揃ってるじゃない!」
「分かってる、だけど……!」
ゆうこも万能シャベルから手を離さず、手に汗を握る。
その時、目の前にそびえる巨大な龍が、苦しげに、しかしゆっくりと巨大な口を開いた。
「来るわよ!」
サクが覚悟を決め、引き絞った弦の指に力を込める。
しかし、恐れていたような破壊的な攻撃は、その口から放たれなかった。
代わりに。
ゴォォォォォォォ……。
龍は、その巨体に似合わず、まるで何かを慈しむかのように深く息を吸い込んだ。
「……え?」
その瞬間、神秘的な地底湖の水面に、かつてない不思議な変化が訪れた。
ぽうっ。
「なんなの、あれ……」
たなかが驚愕に目を見開く。
透明な水の中。
無数の、淡く輝く琥珀色の光の粒が生まれていた。
一つ、また二つ。
最初はぽつりぽつりと小さかった光。
だが、次の瞬間からそれは爆発的な勢いに変わった。
湖の底の至るところから、まるで星屑が目を覚ましたかのように、無数の光の粒が次々と浮かび上がってくる。
数十か、数百か。
まるで夜空に散らばる満天の星々が、そのままこの地底湖の底へと沈み込んでいたかのように錯覚させる光景。
美しい淡い琥珀色の粒が、水面へとゆっくりと集まり始めていく。
「まさか……!」
ゆうこの脳裏に、かつて響いたあの神の重々しい声が蘇る。
アルケラの声が、直接頭の中に響き渡った。
――『あれじゃ』
「え……?」
――『あの光の粒こそが』
酒神の低く澄んだ声が、静寂の洞窟に反響する。
――『お前たちが探しておる《酒精の芽》じゃよ』




