第151話『水を喰らうもの』
ゆうこは、じっと見つめている。足元で震える、しゅわ丸の小さな丸い身体を。
いつもなら――。
初めて踏みしめる場所ほど、誰よりも先へ駆け出したがる。
珍しい花を見つければ飛びつき、水辺をみつければ嬉しそうに跳ね、たとえ危険な足場だろうとお構いなしにぷるぷる進んでいく。
そんな、しゅわ丸が今は、ゆうこの靴から一歩も離れようとしない。
「……やっぱり、この先に何かあるんだね」
「しゅわ……」
か細く返ってきた声は、怯えの色を帯びていた。
ゆうこは膝を折り、柔らかい触感を確かめるように手のひらでそっと撫でる。
「大丈夫」
「しゅわ?」
「何がいるかは分からないけど、まずは確かめに行くだけだから」
トントンと背中を叩く。
「危なかったら、すぐ私のところに来ること。いい?」
「しゅわ!」
今度はわずかに力強い返事。
ゆうこは決意を込めて微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「よし、行こう」
◇
深い森へ足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一変する。
街を満たしていたウイスキーと古い木樽のまろやかな香りは消え去り、代わりに湿った土の匂い、青臭い苔の香り、水分を含んだ木々のざらついた匂いが鼻腔をくすぐった。
頭上を見上げれば、天を突くほど巨大な木々の枝葉が幾重にも重なり合い、眩しい太陽の陽射しを深緑色の穏やかな光へと変えている。
そして、耳を澄ますと――。
さらさらさら……。
どこからともなく、絶えず清らかな水の音が響いていた。
「すごいわね」
サクが目を丸くして周囲を見渡す。
右を見れば、透明な小川が軽やかな水音を立てて流れ、左を見れば、ゴツゴツとした岩肌の隙間から絶え間なく湧き水が染み出している。
少し歩を進めるたびに、道の脇を細い水流が並走していた。
まるで、広大な森全体に、青く脈打つ血管のような水の道が張り巡らされている。
「この山、こんなに水が豊かだったんだ」
ゆうこは感嘆の息を漏らす。
「だから言ったでしょ」
先頭を歩いていたたなかが、ひょいと振り返る。
「この国の水脈は、ほとんどここから始まっているの」
「豆腐も?」
「そう」
「温泉も?」
「もちろんだ!」
ポンギが力強く答える。
「質問したのは、たなかなんだけど」
「水と風呂の話なら俺が答える!」
「なんで対抗意識を燃やしてるのよ」
たなかが呆れたように肩をすくめる。
「ちなみに私の方が、この山の水にはよっぽど詳しいよ」
「なんだと!?」
「張り合わなくていいから!」
さっきまでの張り詰めた緊張感はどこへやら、軽妙なやり取りが木々の間にこだまする。
だが、そんな軽口を叩きながらも、ゆうこの瞳は鋭く周囲の様子を捉えていた。
水はある。それも大量に。
枯れているわけでも、嫌な濁り方をしているわけでもない。
生い茂る森の植物はどこまでも青々としており、目に見える不穏な異変は何ひとつなかった。
「たなか」
「ん?」
「水源まで、あとどれくらい?」
「歩いて半日といったところかな」
「半日!?」
思わずゆうこの足がぴたりと止まる。
「先に行ってよ、そんな大事なこと!」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない!」
ポンギが豪快に胸を張って笑い声を上げる。
「安心しろ!」
「何が!?」
「疲れたら、俺がその場で極上の風呂を沸かしてやる!」
「森のど真ん中で!?」
「水ならそこら中にいくらでもある!」
「肝心の浴槽がないでしょうが!」
「地面を掘ればいい!」
「野生の露天風呂を作る気!?」
サクが思わず小さく吹き出し、傍らのクルスは淡々と呟く。
「あの人なら、本当にやりかねませんね」
「やるぞ!」
「やらなくていい!」
そんな調子の軽やかな会話を重ねながら、一行はさらに険しくなる山道を進んでいった。
◇
それから一時間ほど歩いた頃。
「…………」
ゆうこの足が、再びぴたりと止まる。
「どうしたの?」
サクが心配そうに振り返り、問いかけた。
ゆうこは言葉を返さず、道の脇を流れる小川へと近づく。
しゃがみ込み、水面を凝視する。
「ここ……?」
「うん」
どこまでも透明な水。川底に沈む滑らかな小石の粒までくっきりと見通せる。
ゆうこは恐る恐る指先を浸し、その冷たさを確かめたあと、両手でたっぷりと掬い上げる。
「待って」
たなかが険しい表情で制止する。
「どうしたの?」
「飲むつもり?」
「そのつもりだけど」
「だったら、私が先に飲む」
「え?」
たなかはゆうこの隣へ素早くしゃがみ込み、自らの両手で水を掬い取って口元へ運ぶ。
ごくっ、と喉が鳴る。
「…………」
たなかは固く目を閉じ、もう一口味わうように含んでから飲み下した。
「どう?」
「……普通」
たなかが不審そうに眉を寄せる。
「やっぱり、あの街の井戸水と同じだ」
「ここでも《酒精の芽》の力が失われているってこと?」
「分からない」
たなかは流れる水面をじっと見つめ続ける。
「少なくとも、今の私には以前との違いが全く分からない」
すると、ゆうこは足元に落ちていた乾いた小枝を一本拾い上げた。
「しゅわ丸」
「しゅわ?」
「ちょっとだけ、確認させてね」
小枝の先端を川の水に浸し、その濡れた先をしゅわ丸の方へとそっと差し出す。
「…………」
しゅわ丸の身体がビクリと跳ねる。
すっ、と一歩、後ずさる。
「やっぱり、嫌がってる」
「しゅわ……」
サクが腕を組み、冷徹な分析を口にする。
「街だけじゃないわね、被害は」
「うん」
この異変は、少なくともここまで確実に広がっている。
ゆうこは覚悟を決めて立ち上がった。
「もっと上へ行こう」
◇
さらに歩みを進める。
川の流れとは完全に逆方向、どこまでも上流へ、上流へと足を向ける。
進むにつれて道は険しさを増し、巨大な岩肌、地表に張り巡らされた木の根、ぬかるんだ湿った地面が一行の歩みを阻む。
そして。
「…………」
しばらく登り続けたところで、ゆうこが三度目の足を止めた。
「また?」
サクが声をかける。
「いや……」
ゆうこは周囲のざわめきに神経を集中させる。
さらさらさら……と流れる川の音。
ざわざわと揺れる木々の葉擦れの音。
遠くで響く野鳥の鳴き声。
それ以外の気配は、驚くほど何もない。
「なんか、静かすぎない?」
「静か?」
たなかが周囲を見回す。
「深い森なんだから、これくらい普通じゃない?」
「そうかな……」
何がおかしいのか、言語化できない違和感が胸のざわつきを煽る。
ゆうこは再び歩き出そうとした。
その瞬間。
「…………!」
クルスが鋭く片手を掲げた。
「止まってください」
一瞬で全員の足が凍りついたように止まる。
「どうしたの?」
クルスは答えず、じっと一点を見つめている。
道の脇、うねるような湿った地面の一角。
やがて、彼はゆっくりと膝を折り、地面に手を添えた。
「これを見てください」
「何?」
ゆうこたちも一斉に身をかがめて覗き込む。
そこにあったのは、柔らかい土を豪快にえぐり取ったような、痛々しい跡だった。
一本ではない。
太く深く削られた溝が、生い茂る森の奥へと長く続いている。
「……何これ」
ゆうこが息を呑み、眉を寄せる。
たなかの顔から、先ほどまでの余裕の笑みが完全に消え去っていた。
「こんなもの……前は絶対になかった」
「獣の足跡かしら?」
サクが警戒を強めて尋ねる。
「いいえ」
クルスは溝の泥にそっと指を這わせる。
「足の踏み跡ではありませんね」
「じゃあ?」
「何か途方もなく巨大なものが」
クルスは冷徹な眼差しで森の奥を睨み据えた。
「重い身体を引きずりながら移動した痕跡に見えます」
「…………」
ゆうこは目の前に広がる溝の規模を測る。
幅は、人間の身体など遥かに凌駕する広さだ。
しかも、その周囲には、ぽっきりと折れた太い枝、無残に削ぎ落とされた樹皮、押し潰されて泥まみれになった草木が散乱している。
それは、ただの自然現象ではなく、圧倒的な巨体の何者かが通過した決定的な証拠だった。
「まさか……」
ポンギが低くうめくように呟く。
その時だった。
「しゅわっ!」
しゅわ丸が突如として鋭い鳴き声を上げた。
「どうしたの!?」
しゅわ丸が向けている視線の先は、目の前の溝ではない。
その反対側、すぐ脇を流れる小川だった。
ぷるぷると全身を異常なほど激しく震わせている。
「水が……?」
ゆうこはハッとして川へ駆け寄る。
そして、直感した。
「…………え?」
流れが、さっきよりも明らかに弱弱しい。
川そのものが干からびて細くなっているわけではない。水量は十分に満たされている。
だが、あきらかに、水が前進しようとする勢いが死にかけている。
ポンギも慌てて川べりに飛び込んだ。
「……やっぱりだ」
「分かるの?」
「ああ」
ポンギは冷たい水に直接手を沈める。
「街の噴水でおかしかったのは、俺たちの見間違いじゃなかった」
「水量が減ってるわけじゃないなら……?」
「いや」
ポンギは力なく首を横に振る。
「量とかの問題じゃなくて……」
言葉を必死に探しながら、その水を手のひらで掬い上げる。
「水に、生きる勢いがない」
「勢いって……?」
「昨日までのこの山の水は、もっとこう、生きてるみたいに元気だったんだ」
「水が元気なんて……」
ゆうこは言いかけて、ふと喉を詰まらせた。
今なら、その表現を笑うことなどできなかった。
かつて温泉を目の当たりにしたとき、ポンギは言い放ったのだ。
――湯が死んでる、と。
そして今、この森を巡る水そのものまでが、少しずつ、何か確実なものを失いかけている。
「…………」
ゆうこは絶句したまま、巨大な溝へと再び目を戻す。
何かが、ここを通った。
そして、その進路と呼応するように、《酒精の芽》の気配が消え去っている。
「この跡を追うわよ」
サクが低く、しかし力強い声で言い放つ。
ゆうこも強く頷き返す。
「きっと、この先にすべての原因があるかもしれない」




