第150話『水源へ』
びくぅっ!!
事情を知らない職人たちが、一斉に肩を跳ねさせる。
「な、なんだ!?」
「急にどうした!?」
「神様が肝心なところだけ知らない!」
「何の話だ!?」
サクは険しい表情で深々と額を押さえ、吐き捨てるように息をつく。
「まったく……」
だが、その直後。
何かに気づいたように、サクは琥珀色の液体をたたえる水の容器へ鋭い視線を向けた。
「でも、手掛かりはあるんじゃない?」
「手掛かり?」
ゆうこが振り返る。
「《酒精の芽》が水から喰われているなら、喰ってる何かも水に触れられる場所にいるはずでしょう?」
サクは透明な水面を白磁の指先で指し示す。
「…………!」
ゆうこの丸い目が大きく見開かれる。
「それだ!」
クルスも静かに頷き、腕を組んで思案の色を深める。
「それに、力を失った水が街へ流れてきているのであれば、下流を調べ続けても仕方ありません」
「ってことは……」
「上流です」
クルスが淀みなく答える。
「街へ流れ込んでくる前の水を辿りましょう。どこから《酒精の芽》が失われているのか、それを突き止めれば原因にも近づけるはずです」
「なるほど……!」
ゆうこは納得したように頷くと、すぐさまたなかへと視線を向けた。
「たなか。この街の水って、どこから来てるの?」
「北の山だよ」
たなかは迷わず答える。
「山の奥に大きな水源があるの。そこから川と地下水に分かれて、この街のいろんな場所へ流れてきてる」
「豆腐屋にも?」
「うん」
「《六本木》にも?」
「ああ」
ポンギが力強く太い首を縦に振る。
すると年配の職人も、近くの水槽へ太い手を置いた。
「この蒸留所も同じだ。俺たちが使ってる水も、全部あの山から来てる」
「…………」
豆腐。
温泉。
ウイスキー。
別々の場所で起きていた三つの異変が、最後にはたった一つの場所へ収束していく。
北の山。
その奥にある、この国すべての水を支える巨大な水源。
「じゃあ」
ゆうこは白衣の襟をきゅっと正した。
「決まりね」
サクが愛用の弓へスッと手を添える。
クルスも引き締まった前腕に巻かれた白い包帯を確かめる。
たなかは真っ直ぐにゆうこを見つめ、ポンギも力強く胸を張る。
ゆうこはもう一度だけ、熟成庫いっぱいに並ぶ木樽を振り返った。
何年も。
何年も。
人の手と、水と、時間によって大切に育てられてきた琥珀色の酒。
それを、正体も分からない何かにこのまま喰わせ続けるつもりはない。
「行こう」
ゆうこは前を向いた。
「水源へ!」
◇
蒸留所を出ると、朝の街は昨日とはまるで違う、どこか冷ややかな空気に包まれていた。
あちらこちらで人々が水路へ集まり、木桶へ水を汲んでは匂いを嗅ぎ、恐る恐る口へ含んでいる。
「普通だぞ?」
「何も変わってない」
「じゃあ、なんで酒が……」
戸惑う声が、街の至るところから波のように押し寄せる。
酒場の前では、店主が極上のウイスキーの入ったグラスを険しい顔で見つめていた。
水路では何人もの職人がしゃがみ込み、透明な流れを何度もすくい上げて確かめている。
それでも水そのものは、昨日と何ひとつ変わっていなかった。
量も減っていない。
冷たい湧水の勢いも変わらない。
濁りもなければ、鼻をつくような異臭もしない。
さらさらと、昨日と同じように豊かな水が街中を巡り、朝の陽光を反射してきらきらと美しく輝いている。
だからこそ異様だった。
こんなにも豊かな水が、今も目の前にある。
それなのに、この国を支えていた見えない恵みだけが、そこから音もなく失われ始めている。
「北はこっち」
たなかが先頭に立った。
「山までは少し歩くよ」
「分かった」
ゆうこたちは街を抜ける石畳の道を進んでいく。
その途中、ポンギがふと足を止めた。
「…………」
「どうしたの?」
ゆうこが振り返る。
ポンギは、道端にある小さな噴水を見つめていた。
石造りの口からは、透き通った水がこんこんと湧き出している。
昨日と同じ。
何も変わらない。
「……いや」
ポンギが太い眉を寄せる。
「だからこそ、気味が悪いと思ってな」
「え?」
ポンギは噴水へ手を差し入れ、流れ落ちる水を大きな掌で受け止めた。
「水はある」
冷たい湧水が、指の隙間からサラサラと零れていく。
「昨日と同じように流れてる。飲める。濁ってもいない」
それでも、この水から昨日まで《六本木》の湯を人を癒やすものにしていた力だけが失われた。
「見た目は何も変わってねえのにな」
ポンギは掌に残る水を見つめたまま、低く呟く。
「中身だけ、何かがいなくなってる」
「…………」
ゆうこも噴水を見る。
さらさらと流れる透明な水。
毒でもない。
枯れてもいない。
なのに、そこから《酒精の芽》だけが綺麗さっぱり消えている。
「行こう」
ゆうこが静かに言った。
「この水が、どこで《酒精の芽》を失ったのか。確かめに行かなきゃ」
ポンギは力強く頷き、再び重い足取りで歩き始めた。
やがて石造りの街並みが途切れ、目の前に鬱蒼とした深い森が広がった。
そのさらに奥には圧倒的な存在感を放つ巨大な山々が連なり、山肌の至るところから細い滝が白い筋となって激しく流れ落ちている。
「この先だよ」
たなかが森へ続く獣道を指差した。
「水源は、あの山の奥」
ゆうこはぐっと顔を上げる。
昨日ポコちん龍の背の上から眺めた時には、ただ美しいとしか思わなかった雄大な山。
けれど今は、その深い森の奥に、言葉にできない何かが潜んでいる。
水そのものには傷一つつけず。
その清らかな中から《酒精の芽》だけを選り分けて貪っている何かが。
「…………よし」
ゆうこは白衣の襟をきゅっと整え、森の奥へ続く薄暗い道を見据えた。
サクも表情を引き締めて弓を構え直し、クルスは前腕に巻かれた包帯の感触を静かに確かめる。
たなかも。ポンギも。
自分たちが愛してきた豆腐と風呂、そしてこの国の命である水を取り戻すため、迷うことなく前を向いていた。
その時。
「しゅわ……」
足元から。
か細い声が漏れた。
「しゅわ丸?」
ゆうこが振り返って呼びかける。
けれど、しゅわ丸はいつものように跳ねて答えない。
ただじっと生い茂る木々の向こう、森の奥深く、水源のある方角を一点に見つめていた。
ぷるっ。
青琥珀色の柔らかい身体が、わずかに、しかし激しく震えている。
そして。
「しゅわ……!」
いつになく鋭く、そして警戒するような威嚇の声を静寂の森へ向けて小さく漏らした。




