第149話『水に宿るもの』
その瞬間だった。
――『ふぉっふぉっふぉっ』
「…………!」
ゆうこが息を呑み、勢いよく顔を上げる。
「アルケラ?」
だが、今回はゆうこたちだけではなかった。
すぐそばにいた、たなかとポンギも同時に顔を上げ、突然頭の中へ流れ込んできた見知らぬ声に、驚いたように周囲を見回している。
どうやらアルケラは、この場にいる全員へ声を届かせているらしい。
――『ようやく、そこまで辿り着いたか』
「何か知ってるの!?」
――『水ではないぞ』
「え?」
――『異変が起きておるのは、水そのものではない』
ゆうこの視線が、再び冷えた掌の透明な水へと落ちる。
そして、酒神アルケラは静かに告げた。
――『水に宿るものが、喰われておる』
「…………」
ゆうこの指先から、ぽたり、と一滴の水が冷たい床へ零れ落ちる。
「……喰われてる?」
――『うむ』
「ちょっと待って。水そのものが喰われてるってこと?」
――『違う』
「じゃあ何が喰われてるのよ?」
――『先ほど言ったであろう。水そのものではない』
いつものふざけた調子を潜めたまま、アルケラは低い声を続ける。
――『この国を巡る豊かな水には、目には見えぬほど微かな力が宿っておる』
「力?」
――『うむ。水とともに巡り、酒や食、湯へと渡り、それぞれが本来持つ良さを引き出す力じゃ』
ゆうこは深い眉を寄せ、思考を巡らせる。
「それが……なくなってる?」
――『正確には、なくなり始めておる』
「始めてる?」
その言葉の端々に、ゆうこの意識が鋭く引っかかった。
――『国中から一夜にして消え失せたわけではない。どこかで何者かが、その力だけを水から喰らっておるのじゃ』
アルケラの声が、静まり返った熟成庫の闇へ落ちていく。
――『そして力を失った水が流れ、少しずつこの国へ広がっておる』
「…………!」
その瞬間。
ゆうこの脳裏に、昨日から今日までの数々の出来事が一気に蘇る。
昨日、初めてたなかの店へ入った時に食べた豆腐の衝撃。あれは間違いなく美味しかった。
大豆の優しい甘み。
舌の上へじんわりと広がる芳醇な旨味。
滑らかな舌触り。
すべてが鮮烈に記憶へ刻まれている。
ところが、今日になって作られた豆腐からは、その命とも言える旨味だけが完璧に失われていた。
「だから……」
ゆうこが大きく目を見開く。
「昨日食べた豆腐を作った水には、まだその力が残ってたんだ」
――『そういうことじゃろうな』
「でも、そのあとに……」
ゆうこは自らの掌に残る水を見つめる。
「何かに力を喰われた水が、街まで流れてきた」
――『うむ』
かちり、と音を立てて。
頭の中で、これまでバラバラだった歯車がようやく噛み合う。
「じゃあ……《六本木》も」
ポンギが低い声を漏らし、険しい表情を浮かべる。
昨日まで、あの湯は確かに旅人の疲れを心地よく癒やしていた。
ゆうこ自身がその身を沈めたからこそ分かる。
身体の芯まで温まり、長旅の疲労が湯の中へ溶け出していくような、あの独特の充足感。
それが今日になって突然失われた。
――『同じと考えるのが自然じゃろう』
「…………」
ポンギの頑丈な拳が、ぎゅっと固く握り締められる。
けれど、ゆうこの胸中にはまだ一つだけ、どうしても引っかかる疑問があった。
「でも待って」
正面を見据え、勢いよく顔を上げる。
「じゃあ、ウイスキーは?」
――『ほう?』
「昨日食べた豆腐を作った水には、その力が残ってたんでしょ?」
ゆうこは熟成庫の壁一面に並ぶ、無数の木樽を指差した。
「だったら、何年も前からここで寝かせてるウイスキーまで《酒気》が消えてるのはおかしくない?」
サクが、はっとしたように息を呑んで樽を見上げる。
傍らで、クルスも僅かに目を細め、静かに思案の海へ沈んだ。
――『そこが、この力の厄介なところじゃ』
アルケラの声が、さらに重く低くなる。
――『酒に宿ったあとも、その土地を巡る水との繋がりが完全に断たれるわけではない』
「…………?」
――『この世界の酒は、ただ水と麦を混ぜ、蒸留しただけの液体ではない』
シーンと静まり返った熟成庫。
何年もの時間を重ねた樽の芳醇な香りに包まれながら、酒神の声だけが真っ直ぐに響いていく。
――『土地の水。そこに生まれる酒気。そして、造り手たちが積み重ねてきた営み。それらが結びついて初めて、この世界の“ぽしゃけ”となる』
「…………」
ゆうこは目の前にある古びた樽へとそっと手を触れた。
じっとりと冷たい木肌。
この遮断された空間の中には、気の遠くなるような長い時間が眠っている。
――『ゆえに、この国を巡る水の力が急激に失われれば、すでに造られた酒にも悪影響が及ぶ』
「じゃあ……」
ゆうこが再び目を見開く。
「新しく造ったウイスキーだけじゃない」
――『うむ』
アルケラが深く頷く。
――『この土地と水に深く結びついておるウイスキーそのものから、《酒気》が失われ始めておる』
「…………」
だからこそ樽の中で何年も眠っていたはずの古酒も、すでに瓶へ詰められた商品も、昨日まで確かにこの国の誇りだったものから、《酒気》だけが乾ききったように抜け落ちていく。
だが、豆腐は違った。
昨日食べたものには、まだ異変が届く前の清らかな水の恵みが残っていた。
そして今日になって、力を失った水が街の水道へと届いたことで、初めて旨味の抜けた豆腐が生まれたのだ。
「なるほど……」
ゆうこが小さく納得の息を吐き出す。
「同じ水が原因でも、時間差や状態によって影響の出方が違うんだ」
――『そういうことじゃ』
「で」
ゆうこは、自分の掌に残った最後の一滴の水をじっと見つめる。
「さっきから言ってる、その水に宿ってる力って一体何なの?」
空間に、ほんの僅かな沈黙が落ちる。
そして、アルケラが重々しく口を開いた。
――『《酒精の芽》』
「酒精の芽……?」
――『この国の水に宿り、酒を育み、食を支え、湯の恵みを引き出す、ごく微かな根源の力じゃ』
ゆうこは、その奇妙な名前を胸の内で何度も繰り返した。
《酒精の芽》。
外見からは、何も変わったようには見えない。
水は今日も相変わらず透明で、肌を刺すように冷たく、喉を潤すために飲むことだってできる。
毒が混ざったわけでも、嫌な匂いがして腐ったわけでもない。
だからこそ、誰もがその変化にすぐには気づけなかったのだ。
異変を最初に訴えたのは、水そのものではなく、その水によって生かされていた者たちだった。
真っ白な豆腐。
心地よい温泉。
そして、琥珀色のウイスキー。
「水って……」
ぽつり、とたなかが絞り出すような声を零す。
ゆうこがハッと振り返る。
たなかは、自分の両方の手のひらをじっと見つめていた。毎日、その手で大豆を選び抜き、清らかな水に浸し、心を込めて豆腐を作ってきた手だ。
「私、ずっと自分が一人で豆腐を作ってるって思ってた」
たなかは、ほんの少しだけ自嘲するような、切ない笑みを浮かべる。
「でも、水も一緒にずっと私と豆腐を作ってくれてたんだね」
「…………」
ゆうこも胸が締め付けられる思いで、自然と頬を緩ませる。
「そうみたいね。水は、ちゃんと生きていたんだ」
けれど、その柔らかな表情はすぐに引き締まった。
今ようやく分かったのは、この世界を覆う異変の正体だけだ。
一番解決しなければならない核心は、まだ何も分かっていない。
「アルケラ」
――『なんじゃ?』
「《酒精の芽》が何者かに喰われてるってところまでは分かった」
ゆうこは掌を軽く傾け、残っていた最後の一滴を下の容器へ戻した。
そして、逃げることなく真っ直ぐ前を見据える。
「じゃあ、いったい誰が喰ってるの?」
――『…………』
ピタリと、アルケラからの返事が途絶える。
「アルケラ?」
――『ふむ』
珍しく、酒神が酷く歯痒そうに考え込むような唸り声を漏らした。
――『それは、流石のわしにも分からぬ』
「…………え?」
――『《酒精の芽》が何者かに根こそぎ喰われておる。そこまでは確実じゃ。じゃが、それが一体何者で、どこに潜んでおるのかまでは、ここからでは計り知れぬ』
「…………」
一秒が、酷く長く感じられる。
二秒の沈黙。
そして。
「肝心なところぉぉぉぉぉぉ!!」
ゆうこの魂の絶叫が、静まり返った熟成庫の樽の隙間を抜けて、外の世界へ向けて盛大に響き渡ったのだった。




