第148話『すべては、水に繋がる』
ギィィィ……。
静寂を切り裂くように、重たい扉が音を立てて開く。
その瞬間。
ふわり。
乾燥した木と濃厚な酒の匂いが混ざり合い、ひんやりとした空気の中に溶け込みながら、ゆうこの鼻腔を優しく包み込んだ。
「わぁ……」
薄暗い巨大な倉庫。
そこには、気の遠くなるような数の木樽が、視線の先でずらり、ずらり、ずらりと奥の闇へと並んでいる。
終わりが見えないほどの圧倒的な物量だった。
「ここで寝かせるんだ」
職人が無言で歩み寄り、一番手前にある古びた木樽へそっと手を置く。
「蒸留したばかりの無色透明な酒を樽へ詰め、長い時間をかけて熟成させる。そうして、琥珀色の液体へ生まれ変わるのさ」
「それで……」
ゆうこは、今朝宿で口にしたばかりの、あの深く芳醇なウイスキーの色を思い出す。
「あんな綺麗な色がつくんだ」
「ああ。色だけじゃない。樽の木肌からいろんな香りや風味を受け取りながら、酒がゆっくりと育っていく」
「へえ……」
感嘆の声を漏らしながら、ゆうこはひんやりと冷えた木樽へそっと指先を触れた。
冷たい。
何年もの果てしない時間を、この暗い倉庫の中で過ごすのだ。
ウイスキー造りは、決して一朝一夕では終わらない。
大地で黄金色の麦を育て、丁寧に麦芽を作り、糖へ変え、発酵させ、蒸留器で熱し、さらにこの暗い樽の中で眠らせる。
「ウイスキーって……想像以上に大変な手間がかかっているのね」
「大変なんてもんじゃねえよ」
職人は自嘲気味にふっと笑った。
だが、その笑みはほんの一瞬で消え去り、代わりに険しい緊張感が走る。
「だからこそ……!」
樽へ置かれた大きな手に、ぐっと強烈な力が籠もる。
軋むような音がした。
その悔しげな横顔をじっと見つめながら、ゆうこは何も言えずにただ小さく頷いた。
麦を育て、麦芽を作り、糖へ変え、発酵させ、蒸留する。
そして樽へ詰めたあとも、何年という果てしない時間をかけて酒を育てていく。
一杯のウイスキーが出来上がるまでに、これほど途方もない手間と時間が必要になるなんて、この国へ来るまで知らなかった。
だからこそ、目の前の職人たちがこれほどまでに必死になる理由が、今のゆうこには痛いほどよく分かる。
「…………」
ゆうこは改めて、薄暗い熟成庫の奥へと視線を巡らせた。
どこまでも規則正しく並ぶ巨大な木樽の列。
その一つ一つの暗がりの中で、職人たちが人生をかけて積み重ねてきた時間と情熱が眠っている。
だが、完成したはずのウイスキーから、肝心の《酒気》だけが綺麗さっぱり消え失せている。
「ねえ」
重苦しい沈黙を破るように、ゆうこが顔を上げた。
「今まで見せてもらった工程って、全部いつも通りにちゃんとできているんだよね?」
「ああ」
職人は迷いのない足取りで頷く。
「麦芽の出来は?」
「問題ねえ」
「麦汁も?」
「ちゃんと甘みが出てる」
「発酵は?」
「いつも通りの気候と時間だ」
「蒸留器は?」
「何度調べても異常は見つかってねえよ」
「樽の状態は?」
「どこも傷んでねえ」
「…………」
ゆうこの綺麗な眉間に、深い皺が寄っていく。
材料がおかしいわけではない。製法を間違えたわけでもなければ、道具がどこか壊れているわけでもない。
それなのに、仕上がったウイスキーから《酒気》だけが失われている。
まるで、完璧に組み上げられた完成品の中から、もっとも大切な核心だけが、誰かにそっと抜き取られたかのように。
「ゆうこ」
背後から、たなかの声がした。
「ん?」
振り返ると、たなかは熟成庫の隅をじっと見つめている。
そこには、樽の乾燥を防いだり、度数を調整したりするための仕込み水が、いくつもの大きな素焼きの容器へたっぷりと蓄えられている。
「ここにもあるね」
「…………水」
たなかの呟きをきっかけに、ゆうこの頭の中で、これまでに起きた不可解な異変が次々と鮮やかに蘇ってきた。
朝食で食べた、あの豆腐。
街外れの、あの温泉。
そして今、目の前にあるウイスキー。
まったく性質の違う三つのもの。
しかし、そのすべてに共通して関わっているものが一つだけ存在する。
「…………」
吸い寄せられるように、ゆうこは仕込み水の入った大きな容器へと歩み寄った。
水面はどこまでも澄み切っており、鼻を近づけてみても、嫌な臭いは微塵もしない。
意を決して、両手で少しだけ水をすくい上げる。
手のひらに伝わる感触はひんやりと冷たい。
そのまま、ほんの少量を口へ含んでみた。
こくり。
「……やっぱり普通だわ」
味も、香りも、何一つおかしくない。
水そのものには、異常らしい異常などまるで見当たらなかった。
なのに、その水が深く関わったものだけ、大切な「何か」が音もなく失われ始めている。
その時。
「しゅわ……」
足元から、頼りない小さな声が聞こえた。
「ん?」
ゆうこがふと視線を落とすと、しゅわ丸は仕込み水の容器へ近づこうとすらしなかった。
それどころか、嫌悪感を示すかのようにほんの僅かに身体を引き、容器から距離を取っている。
「…………」
ゆうこの瞳が鋭く細くなる。
これで二度目だ。
もう偶然で片付けるわけにはいかない。
人間である自分たちには何も感じられないけれど、しゅわ丸には、この水に隠された異変の本質が分かっているのだ。
「水はあんなに普通なのに……」
手のひらに残った冷たい水を見つめながら、ゆうこが呟くように息を吐き出す。
「私の作った豆腐からは、大豆本来の旨味が消えていた」
続くように、たなかが腕を組んで声を挟む。
「あれだけ長湯しても体の芯から疲れが取れなかった。あの街の湯からは、人を癒やす力が綺麗に失われている」
ポンギも険しい表情で水を睨みつけながら頷く。
そして職人は、近くの棚から使い古されたグラスを手に取った。
そのガラスの底では、昨日までこの国の誇りだったはずの琥珀色の液体が、何も知らない無機質な顔をして静かに揺れている。
「ウイスキーからも、《酒気》が消えた」
「…………」
倉庫の中に重い沈黙が落ちる。
豆腐。
温泉。
ウイスキー。
バラバラに見える三つの異変を貫くものは、世界でただ一つしか存在しない。
「……水、だ」
この国へ足を踏み入れたその瞬間から、ずっと見続けてきたもの。
山肌を縫うように流れる清らかな清流。
生活を支える無数の水路。
美味しい豆腐を生み出すための仕込み水。
人々の疲れを癒やす湯。
そして、ウイスキーという芸術品を完成させるために絶対に欠かせない水。
この国は、最初から最後まで、豊かな水とともに息づいている。
「…………」
ゆうこはもう一度、手のひらに残るわずかな水へ視線を落とした。
透明で。
冷たくて。
喉を潤すことができる。
どこからどう見ても、それはただの"普通の水"なのに。
「水そのものが狂っているわけじゃないとしたら……一体、何が起きているの?」
疑問の答えを探すように、ゆうこは冷たい水面を見つめ続けた。




