第147話『ウイスキーから消えたもの』
「なに!?」
ゆうこたちが一斉に跳ね起き、木製の椅子が床を削る鈍い音が響く。
ポンギの険しい表情が一変し、ただならぬ緊張感が走った。
「蒸留所だ」
「え?」
――カン! カン! カン!
硬質な鐘の音が、静寂を切り裂くように激しく打ち鳴らされている。
外の通りからは、人々の慌ただしい足音と怒号のような混濁した声まで聞こえ始めた。
「何かあったの?」
「分からん」
ポンギが地を蹴り、木製の重い扉へ走り出す。
ゆうこたちもそれに続くように席を立った。
外へ飛び出すと、冷たい朝の空気が頬を刺す。
大通りでは、すでに何人もの住民が同じ方向へ焦った足取りで駆け抜けていた。
街の奥。
幾重にも巨大な木樽が並び、職人たちの命とも言える銅色の蒸留器が立ち並ぶ場所――ウイスキー蒸留所だ。
その巨大な建物の前からは、ただならぬ気配が漂っている。
「どうなってるんだ!」
「もう一度確認しろ!」
「そんなはずがあるか!」
怒号が飛び交う中、ゆうこはサクたちと顔を見合わせた。
「行こう!」
ゆうこは鋭く声を張り上げ、石畳を蹴って走り出す。
◇
蒸留所の内部は、足の踏み場もないほどの騒然とした空気に包まれていた。
職人たちが汗を滲ませながら何本ものガラス瓶を抱え、右へ左へと狂ったように走り回っている。
その喧騒の中央。
一人の年配の職人が、力なく立ち尽くしていた。
その手には、震える小さなグラス。
中で揺れているのは、夕陽のような美しい琥珀色の液体――ウイスキーだ。
見た目は、寸分たがわず完璧だった。
何もおかしくない。異変など微塵も感じさせない。
年配の職人は、すがるような目でグラスを口元へと運んだ。
一口。
喉を通るはずの感触を待ち受ける。
「…………」
その喉がごくりと鳴り、液体が胃へと落ちていく。
瞬間、老いた職人の顔から、すっと血の気が引いていった。
「どうだ!?」
周囲の職人たちが蜘蛛の子を散らすように詰め寄る。
年配の職人は言葉を失い、グラスの中の琥珀色を見つめながら、震える声で絞り出した。
「……駄目だ」
「そんな!」
「もう一本だ!」
絶望を振り払うように、別の樽から別の瓶、そして別のグラスへと酒が注がれる。
迷いのない手つきでもう一口。
「…………」
しかし、残酷な結果は何も変わらない。
「駄目だ……」
ゆうこたちは押し寄せる人混みを両手で掻き分けて前へ進み出る。
「すみません!」
声をかけられた職人がびくりと振り返り、血走った目を向けた。
「なんだ、あんたたちは!」
「旅の者です。何があったんですか?」
「何がって……」
職人は言葉を詰まらせ、再び手元のグラスへ視線を落とす。
そこにあるのは紛れもないウイスキーだった。
重厚な琥珀色。鼻腔をくすぐる芳醇な香り。長い時間を暗い樽の中で過ごしてきたことが分かる、深みのある色合い。
どこから見ても、誰がどう見ても、誇り高き完璧なウイスキーだった。
それなのに職人は、まるで化け物でも見るような恐怖に満ちた顔で、青白い唇を震わせた。
「酒気が……ない」
「…………え?」
ゆうこの眉間が険しく寄る。
「酒気?」
「ああ」
職人はグラスが割れんばかりにその指を強く握りしめた。
「香りはある。味もする。ちゃんと酒にもなってる」
そして、その老いた手は耐えがたい恐怖に震えている。
「なのに……」
職人は虚ろな目で琥珀色の液体を凝視した。
「酒気だけが、どこにも宿ってない」
「…………」
ゆうこは喉の奥が詰まったように言葉を失う。
そのすぐ隣で、たなかの表情が強張っていくのが分かった。
ポンギもまた、無言のままゆっくりと大きな拳を握り締める。
豆腐。
温泉。
そして、今度はウイスキー。
すべてが同じ朝に、音もなく何かを失い始めていた。
蒸留所の中に、鉛のように重苦しい沈黙が落ちる。
ゆうこは目の前にずらりと並べられたウイスキーの瓶を見つめた。
一本や二本ではない。
三本、四本と、職人たちが次から次へと別の樽から酒を取り出しては検査を繰り返している。
熟成年数も違う。
使われているオークの樽も違う。
仕込んだ季節や時期だって違う。
それなのに。
「……これも駄目だ」
「こっちもだ!」
「嘘だろ……」
返ってくるのは、絶望に満ちた声ばかりだった。
結果はすべて同じ。
見た目は美しい琥珀色。
鼻腔をくすぐる豊かな香り。
舌を打つ確かな味わい。
アルコールだってきちんと含まれており、化学的な定義の上では立派に酒として完成している。
なのに、この世界の酒が本来持っているはずの、魂を酔わせるような《酒気》だけが、綺麗さっぱりと消え失せている。
「昨日は?」
静寂を破るように、ゆうこが鋭く尋ねる。
年配の職人がハッとして振り返った。
「何がだ」
「昨日造ったウイスキーはどうだったんですか?」
「問題なかった」
即答だった。
「昨夜確認した時までは、いつも通りだった。香りも、味も、胸を焦がす酒気もな」
「じゃあ……」
ゆうこは小さく息を呑む。
たなかの豆腐と同じだ。
昨日はあんなに美味しかったのに、今朝になって旨味が根こそぎ消え去っていた。
《六本木》の温泉もそうだ。
昨日は一日の疲れを芯から癒やしてくれたのに、今朝はただの温かいだけの湯に成り果てていた。
そして、このウイスキーまで。
昨日までは正常で、今朝から異常。
「同じタイミング……」
サクも異変の核心に気づいたらしく、その瞳を細める。
「偶然とは考えにくいわね」
「ですね」
クルスも腰の剣に手をかけ、表情を引き締めた。
ポンギが我慢できず、年配の職人の胸ぐらに迫る勢いで詰め寄る。
「水は!?」
「水だと?」
「仕込み水だ! 今朝になって、水に何か変わったことはなかったのか!」
「何もねえよ!」
職人は苛立ったように手を振り払う。
「いつもと同じ山水だ! 量も変わらねえし、濁ってもいねえ、いつもの透明な水だ!」
「……やっぱり」
たなかが力なく呟いた。
その視線は、蒸留所の奥深くへと向けられている。
大量の仕込み水がたっぷりと蓄えられた、巨大なコンクリート製の水槽。
ゆうこもそちらへと目を走らせた。
そこにあるのは、どこからどう見ても澄み切った透明な水だ。見た目には何もおかしくない。
だが、豆腐、温泉、そしてウイスキー。
それらすべてを繋ぐ共通の因子は、やはり「水」ほかならなかった。
「ちょっといいですか?」
ゆうこが職人に向かって一歩踏み出す。
「今度はなんだ、忙しいんだよ」
「ウイスキーって、そもそもどうやって造ってるんですか?」
「…………」
職人はあきれたように目を丸くした。
「おい、こんな時にそれを聞くのか?」
「今だからこそ聞きたいんです」
ゆうこの瞳には強い光が宿っていた。
「どこで異常が起きてるのか突き止めたい。だったら、まず正常な造り方を最初から知らないと、調べようがないじゃないですか」
「……なるほどな」
職人はふっと息を吐き、腕を組む。
「酒気が消えた原因を本気で調べてくれるってんなら、こっちから頼みたいくらいだ。いいぜ」
職人は踵を返す。
「うちの酒造りを、最初から最後まで全部見せてやるよ」
その言葉に、ゆうこは力強く頷いた。
「お願いします!」
◇
最初に案内されたのは、蒸留所の一角にあるだだっ広い作業場だった。
倉庫の壁際には、大麦がみっしりと詰まった麻袋が山のように積み上げられている。
床一面には、ほんのりと湿った発芽途中の大麦が広げられていた。
「まずは麦だ」
職人がその中から一粒をつまみ上げ、指先で示してみせる。
「これは二条大麦。これに清らかな水を吸わせて発芽させ、頃合いを見て熱風で乾燥させるんだ」
「ねえ、なんでわざわざ発芽させたりするの?」
ゆうこが首を傾げながら尋ねる。
「麦の中にあるでんぷんを、あとで糖分に変えやすくするためなのさ。発芽することで、酵素が目覚めるんだよ」
「糖分?」
「まあ、難しく考えるな。『酒造りの準備運動を終えた麦』くらいに覚えとけ」
「なるほど、分かりやすい!」
職人は作業台の上にあった発芽したばかりの麦を、ひょいとゆうこの掌へと乗せた。
「これが麦芽だ」
「これが……麦芽」
ゆうこは掌の上で転がる小さな粒を、じっと観察する。
「モルトとも呼ぶな」
「モルト!」
その響きに、ゆうこはハッと目を見開く。
耳にした聞き覚えのある単語だった。
「モルトウイスキーのモルトって、これのことなんだ」
「そういうことだ。おっ、飲み込みが早いな」
ゆうこは納得したように何度も頷いた。
「じゃあ、この麦芽をお酒にするの?」
「いや、まだ早い」
職人はフッ鼻を鳴らし、次の通路へ歩き出す。
「次に行くぞ」
◇
続いて案内されたのは、巨大な木製の槽が何基もずらりと並ぶ部屋だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、もわぁ……と温かな湯気とともに、どこか懐かしいような甘い麦の香りが鼻腔をくすぐる。
「んっ、いい匂い……」
ゆうこは思わず深呼吸をしながら、槽の縁に両手をかけて中を覗き込んだ。
「さっき砕いた麦芽に、絶妙な温度のお湯を混ぜ合わせるんだ」
職人が大きな櫂を動かしながら説明を続ける。
「すると、麦のでんぷんが酵素の働きで糖へ変わり、驚くほど甘い液体ができる」
「なるほどね」
ゆうこは納得の表情で右手の指を一本立てた。
「まず、麦を発芽させてモルトにして」
次に二本目の指を折る。
「それを細かく砕いて、お湯と混ぜて……」
三本目の指をピンと伸ばす。
「あまーい汁にする!」
「ざっくりしすぎだが、工程としてはまぁ合ってるな」
「やった!」
サクは呆れたように大きなため息をつきながら、ゆうこの横顔を流し目で見つめる。
「本当にその雑な理解で覚えるつもり?」
「大筋が分かればいいのよ!」
職人は苦笑しながら、作業の手を止めずに話を続ける。
「この甘い液体のことを、麦汁と呼ぶ」
「麦汁ね」
ゆうこは再び槽の底を覗き込む。
「この段階では、まだお酒にはなってないんだよね?」
「ああ。糖分が溶けているだけで、アルコールはまだほとんどない」
「じゃあ、次は……」
ゆうこは顎に手を当てて少しだけ考える。
異世界を巡る旅の中で見てきた知識や、酒造りの基本を頭の中で組み立てていく。
「発酵、かな?」
職人は満足そうにニヤリと笑ってみせた。
「その通りだ」
◇
さらに奥の部屋へと通される。
そこには、薄暗い空間にずらりと並んだ巨大な木製の発酵槽があった。
槽のフタの隙間から、プツプツと小さな気泡が弾ける音が聞こえ、中で麦汁が静かに呼吸をするように発酵している。
「ここで酵母菌を投入するんだ」
「酵母が糖分をモリモリ食べて、アルコールを作り出すのね」
元の世界でもよく耳にする馴染みのある知識に、ゆうこは小さく胸をなで下ろす。
職人は満足げに太い首を縦に振った。
「その通り。発酵が進めば、ただの甘い麦汁はアルコールを含んだ濁った液体へと姿を変える」
ゆうこは腕を組み、得た知識を整理するように呟く。
「つまり……こうだよね」
左手の人差し指から順に折りながら数えていく。
「麦を麦芽にする」
「うん」
「お湯と混ぜて甘い麦汁を作る」
「ああ」
「酵母の力で発酵させてお酒にする」
「そうだ」
「これで完成!」
「まだだ!!」
「えっ、まだなの!?」
職人はあまりの天然っぷりに頭を抱えて天を仰いだ。
「ここからがウイスキーの本番だろうが!」
「うわ、怒られた……」
「当たり前でしょ」
サクが冷ややかな視線を投げつける。
職人はフンと鼻を鳴らし、さらに工場の奥へと歩き出した。
その視線の先にあったのは、ゆうこがこの街へ到着した時からずっと気になっていたものだった。
圧倒的な存在感を放つ、巨大な銅製の器具。
下部はふっくらと丸みを帯びた胴体をしており、そこから細長い首のような煙突が天に向かってまっすぐ伸びている。
磨き上げられた銅色の表面が、蒸留所の天井灯を反射して鈍く、しかし妖しく光り輝いていた。
「これが……」
ゆうこは首が痛くなるほど見上げ、息を呑む。
職人はその巨大な装置の腹を、コンッと軽く叩いてみせた。
乾いた金属音が響き渡る。
「蒸留器だ」
「おお……!」
ここは蒸留酒大陸。
焼酎の国でも似たような仕組みを目にしてきた。
だが、焼酎のそれとはまた違う、美しくも無骨な形をした蒸留器がウイスキーには使われている。
「発酵させただけの液体は、まだアルコール度数が低くて香味も荒々しい」
職人は専門家の顔つきになり、淡々と説明を続ける。
「だから、こいつを使って熱を加え、蒸留するんだ」
「加熱して、アルコールとかの揮発しやすい成分だけを気化させて、それを冷やして濃くするってことね」
「いい線いってるじゃねえか」
「前の国でも似たような蒸留の仕組みは見てきたからね!」
ゆうこは得意げに胸を張ってみせる。
「さっきまで『完成!』って大声で叫んでた人とは思えない変わりようね」
「うるさいなあ!」
サクの鋭いツッコミに、ゆうこは頬を膨らませる。
職人は楽しそうに笑い声を上げた。
「だがな、こいつで蒸留したばかりの酒は、まだ無色透明なんだよ」
「え?」
ゆうこはぱちくりと目を丸くした。
「ウイスキーって、あの綺麗な茶色じゃないの?」
「最初からあの色をしてるわけねえだろ。蒸留したてはただの水みたいなもんさ」
「じゃあ、いつあの茶色になるの?」
職人は言葉を切り、無言のまま蒸留所のさらに奥、暗がりへと続く扉を指差した。




