第146話『よっ! 男前どうふ!』
「…………」
ゆうこは重たい溜息を飲み込み、岩場の端へ冷たい視線を向ける。
しゅわ丸は、ソーダ水のように透明な身体を小さく縮こまらせたまま、じっと湯面を見つめている。微動だにしない。
昨日は違った。
誰よりも先に飛び込み、ぷかぷかと湯面に浮かび、挙げ句の果てには元気になりすぎて、ゆうこの顔面へ盛大に水飛沫を浴びせてきたというのに。
それが今日は、ただ怯えたように身を縮めているだけだ。
「しゅわ丸」
ゆうこは濡れた両腕をゆっくりと広げる。
「おいで」
「…………」
しゅわ丸は首を振る代わりに、ぷるぷると小さく身体を横へ揺らすだけで、湯へ近づこうとはしない。
「今日は入らないの?」
「しゅわ……」
か細く情けない声を漏らす。
その拒絶の反応を見た瞬間、ゆうこの胸の奥に冷たい泥のような嫌な感覚が走った。
「……っ」
豆腐だけじゃない。
温泉の効能だけでもない。
そして、あのしゅわ丸までが。
別々に見えていた三つの不自然な異変が、ゆっくりと、しかし確実にひとつの場所へと集まり始めている。
「……水」
ゆうこが唇を震わせて呟く。
その背後で、サクが濡れた髪を揺らしながら顔を向けた。
「やっぱり、原因は水だと思う?」
「分からない。けど……」
ゆうこは即答する。だが、まだ決めつけるには早すぎる。
水そのものには、今のところ明確な異常など見当たらない。
透き通る清らかな湧き水。
生臭さや硫黄臭といった変な臭いすらない。
色もどこまでも透明。
人間が口にしても、腹痛一つ起きない。
けれど共通してるのは、それしかない。
たなかの絶品だった豆腐。
ポンギが誇る神秘的な温泉。
そして、あんなにも水を愛していたしゅわ丸が示す拒絶反応。
そのすべてに等しく関わっているもの。
答えは一つしかなかった。
「一度、上がろう」
ゆうこは冷めかけた湯からすっと立ち上がる。
「ちゃんと調べて、白黒つけたいから」
◇
しばらくして。
《六本木》の薄暗い休憩処には、朝とは思えないほど重苦しい鉛色の空気が漂っていた。
古びた木の卓の上には、素朴な木杯が四つ。
そして、その中央には、ずっしりと重みのある大きな水差しが鎮座している。
中身は、まさに今この《六本木》の源泉として使われているものと全く同じ水だ。
ゆうこはその不気味なほど澄んだ水を、自分の木杯へと慎重に注ぐ。
無色透明。
底の木目まで綺麗に見える。
おそるおそる鼻を近づけてみる。
「臭いは……ないね」
一口。
ごくっ、と喉を鳴らす。
舌の上で冷たい液体を転がしてみる。
「味も、いつもの普通の水」
そのまま飲み込む。
食道を通り、胃に落ちていく。しかし身体には、今のところ何の変化も起きない。
「サク、飲んでみて」
ゆうこは木杯を差し出す。
サクは眉を寄せながらも口に含み、ゆっくりと頷いた。
「……普通の、美味しい湧き水ね」
続いて、クルスが顔を曇らせながら確認する。
「俺にも、異常や毒性は感じられません」
最後に、この宿の主であるポンギ。
長年、この土地の地下水と向き合ってきた男なら、何か隠された違和感に気づけるはずだ。
ポンギは無言で木杯を受け取り、一気に飲み干す。
ごくっ。
「…………」
ポンギは固く目を閉じたまま、長い間黙り込む。
「どうなの、ポンギ?」
「……分からん」
絞り出すような、ひどく悔しそうな声だった。
「昨日までと何一つ変わらない、いつもの水にしか思えん」
「そっか……」
ゆうこは腕を組み、深く考え込む。
その時、隣の畳に座っていたたなかが、突然勢いよく立ち上がった。
「待ってて」
「たなか?」
「今、持ってくるから!」
それだけ言い残し、たなかは風のように《六本木》の戸を蹴破る勢いで飛び出していった。
数分後。
ばたんっ!!
乾いた激しい音と共に、戸が大きく開く。
「持ってきたよ!」
「早っ!?」
たなかが、両手で抱えきれないほどの大きな木製の器を抱えて戻ってくる。
その中に入っていたのは――白い大豆の塊。
そう、豆腐だった。
それも、大人が両手で抱えるほどの特大サイズだ。
「また豆腐持ってきちゃったの!?」
「大事なことだから仕方ないでしょ!」
たなかの瞳には、妙な使命感の炎が燃え盛っている。
彼女はためらうことなく卓へその特大豆腐をドンと置き、大きく息を吸い込んだ。
「よっ!」
たなかが指を突きつける。
「男前どうふ!!」
「…………」
ゆうこが戸惑いながら瞬きをする。
サクも、クルスも、ポンギも、そして端で震えていたしゅわ丸までが一斉にその不気味な豆腐を見つめた。
次の瞬間。
ぽんっ!!
乾いた破裂音と共に、白い煙が辺りに弾けた。
「うわっ!?」
ゆうこが椅子から転げ落ちそうになりながら後退る。
立ち込める真っ白な煙の中で、モコモコと何かが急速に巨大化していく。
ぬっ。
「…………え?」
人。
いや、間違いなく人間の形をしている。
しかし全身が真っ白な大豆の質感でできており、頭部は不自然なほど四角く角張っている。
そして何より、豆腐という食材のイメージとは完全にかけ離れた、信じられないほどの筋骨隆々な肉体。
胸板は厚い鉄板のように盛り上がり、腕はまるで古木のような太さ。
引き締まった腹部には、彫刻のように見事なまでのシックスパックが刻まれている。
腰へ両手をどっしりと当て、その白い巨漢は、真っ白な歯を剥き出しにして眩しい笑顔を浮かべた。
キラッ。
「…………」
ゆうこは完全にフリーズした。
サクも、クルスも、言葉を失って固まっている。
そしてしゅわ丸だけが、首をかしげて「しゅわ……?」と小さく鳴いた。
数秒の沈黙の後、ゆうこが震える指でその白き巨漢を指差す。
「…………誰これ?」
「男前どうふ」
たなかが我が子を誇るように当然の顔で答える。
「いや、そういう意味じゃなくてさ!!」
ゆうこの絶叫が休憩処に響き渡る。
しかし、たなかは至って真剣そのものだった。
「私の固有スキル、【豆腐生成】」
「豆腐!?」
「私が愛情込めて自分で作った豆腐に、『よ! 男前どうふ!』って声を掛けると、この子が実体化して私を守ってくれるの」
「能力のシステムまで全部豆腐なの!?」
ツッコミをよそに、男前どうふは無言のまま力強く親指を立てた。
キラッ。
「……なんか、無駄に爽やかぁ!!」
サクが興味津々な様子で、男前どうふのムキムキの腕を至近距離からじっと眺める。
「随分と頼もしい腕をしてるじゃない」
「そうでしょ、強いんだから」
たなかが自慢げに胸を張る。
「私自身は前線で戦うのすごく苦手だけど、この子は防御も攻撃も一通りこなせるから」
「なるほどね……」
ゆうこは改めて、目の前の男前どうふを見上げる。
どう見ても喧嘩なら百戦錬磨だ。
むしろ、ふと自分の華奢な腕を見下ろし、黒歴史のように小さく呟く。
「なんか、豆腐の方が私よりムキムキなの、すごく腹立つんだけど」
「張り合うところ、そこ間違ってない?」
だが、たなかの表情に笑みはなかった。
彼女は真剣な眼差しで、じっと男前どうふの上腕二頭筋を見つめている。
「……やっぱり」
「え?」
たなかが、男前どうふの腕を慌てて掴んだ。
むにっ。
「…………」
もう一度、両手で力強く揉みしだく。
むにむにっ。
「ちょっと待って」
たなかの顔色がみるみる青ざめていく。
「筋肉が……柔らかすぎる」
「これで!? 岩みたいに固そうに見えるけど!」
ゆうこは男前どうふの身体を改めて観察する。
どう見ても丸太のような上腕二頭筋であり、岩みたいな厚い胸板だ。
どこをどう見ても細くなんて見えない。
しかし、たなかは必死に首を横に振る。
「違うの! いつもはもっとカチカチですごいの!」
「もっとってどれくらい!?」
「この三倍くらいは硬くて強靭だった!」
「それもう建物入れないでしょ!!」
「いつもなら、この大きな木製の卓くらい片手でひょいと持ち上げられるのに」
たなかが目の前にある木製の大卓を指差す。
「ほら、やってみて!」
男前どうふは無言で重々しく頷く。
卓の端へ、ゴツゴツとした大きな手をしっかりと掛ける。
ぐっ……!
「…………」
持ち上げる。
本来なら、それだけの筋力があるはずだった。
ぐぐぐぐぐ……。
しかし、男前どうふの全身の筋肉が激しく痙攣するように震え始める。
「…………っ!」
額らしき無機質な場所から、だくだくと。
つぅぅぅ……。
一筋の白い水分が、冷や汗のように流れ落ちた。
「豆腐が汗かいてるぅぅぅぅ!!」
ぐぐっ……!
ぷるぷるぷるぷる……。
びくともしない。重い卓は、地面に張り付いたように微動だにしない。
やがて、限界を迎えたのか。
男前どうふは力なく、そっと卓から手を離した。
そして――。
がくっ。
その巨大な両膝が、耐えきれずについに床へと突いた。
「男前ぇぇぇぇぇ!!」
ゆうこが思わず悲鳴を上げて駆け寄る。
「しっかりして! まだ何も重いもの持ってないのに!」
「…………」
男前どうふは震える腕で、必死に踏ん張る。
ぐっ……。
それでも最後の意地なのか、親指だけはしっかりと立ててみせた。
「機能停止しかけてるのに無駄に男前すぎない!?」
しかし、たなかの表情は曇ったままだ。
彼女は膝をついた男前どうふへしゃがみ込み、その震える肩へそっと手のひらを添える。
「昨日までの私なら、こんなこと絶対になかった」
「昨日もこの子を出したの?」
「ううん、出してないけど」
「じゃあなんで昨日ならいけるって分かるのよ!?」
「毎日欠かさず豆腐作ってるんだから、自分のスキルの調子くらい肌で分かるよ!」
そこだけは妙に自信満々な声だった。
たなかは男前どうふの白い身体を不安そうに確認する。
「この子の強さは、元になった豆腐の出来栄えで完全に決まるの」
「豆腐の出来……ね」
「大豆の質が悪ければ弱くなる。仕込みの時にちょっとでも失敗しても弱くなる」
たなかは顔を上げ、真剣な瞳でゆうこを見る。
「でも今日は、大豆も水も昨日と全く同じ条件で作ったはずなのに……」
その言葉の裏で、パズルのピースがカチリと音を立てて噛み合う。
残された可能性は、もう一つしかなかった。
「……やっぱり、水だ」
ゆうこが小さく呟く。
たなかは観念したように小さく頷いた。
これで、奇妙な現象のピースがまたひとつ増えてしまった。
豆腐から旨味が綺麗に消え失せた。
ポンギの自慢だった温泉から、疲労を癒やす回復の力が消えた。
そして、たなかの切り札である男前どうふまで見る影もなく弱体化した。
追い打ちをかけるように、しゅわ丸は命の源であるはずの水そのものを拒絶している。
なのに目の前にある水は、誰がどう見てもただの普通の水。
喉の渇きを潤すだけの、無色透明な液体。
「一体……どうなってるのよ、これ」
ゆうこは重たい水差しをじっと見つめ続ける。
もしこれが毒なのだとしたら、飲んだ人間に何かしらの身体的異常や痛みが現れるはずだ。
水自体が腐っているのだとしたら、鼻を突くような悪臭や、舌を刺すような変な味に異常が出るのが当然だ。
だが、何も起きない。
あまりにも正常すぎて、逆に不気味だった。
その静寂を切り裂くように。
――カン、カン、カン、カン!!
突然、静まり返った街のどこか遠くから、耳を劈くような激しい鐘の音が不吉に鳴り響いた。




