第145話『この湯は、もう死んでる』
そして今度は、誰よりも水を好み、水を愛しているはずのしゅわ丸が、その恵みの水を露骨に嫌がり始めている。
「たなか……」
重い沈黙を破り、ゆうこは決意を込めてゆっくりと立ち上がった。
「この街の木樋を流れてるこの水って、もともとは一体どこから湧き出てきているものなの?」
「北の山奥だよ」
たなかもまた、恐怖を振り払うように真剣な眼差しで答える。
「あの山から湧き出た地下水が、複雑な川や地中の水脈を通って、この街全体まで巡ってきてるんだ」
「……じゃあ、《六本木》の温泉も、源泉は同じところだったりする?」
「うん、おそらくね。このエリアの水脈はすべて繋がっているはずだから」
「…………」
ならば、答えは一つしかない。
自分たちの足で確かめに行く必要がある。
ゆうこは店の開け放たれた入り口から、外の世界へと鋭い視線を向けた。
朝の光に包まれた静かな街並み。
昨日と全く変わらず、澄み切った水が美しい水路をさらさらと音を立てて流れている。
ただ、その「見た目」だけを信じるなら。
この世界のどこにも、おかしな事など何ひとつ起きていないように思えるのに。
「ちょっと、ポンギのところへ行ってくる」
「えっ?」
不意を突かれたように、たなかがピクリと顔を上げる。
「あそこの温泉の湯加減や状態も、自分の肌で直接確認したいの」
「……私も一緒に行く」
迷う間もなく、たなかは即座に力強く言い切った。
「いいの? お店のほうは大丈夫?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないわ。閉める!」
「決断が早すぎるでしょ!」
しかし、たなかの動きはすでに止まらない。彼女は店先にかかっていた藍色の暖簾へと真っ直ぐに向かう。
手際よく金具から外し、店内の安全な場所へとさっと片づけた。
そのあまりの手際の良さに、ゆうこが思わず苦笑交じりに声をかける。
「……ねえ、たなか。今度こそ本当に店を閉めるんだよね?」
動きを止めたたなかは、ゆっくりと振り返り、どこかふざけたような、それでいて決意に満ちた笑みを浮かべる。
「やってないよー!」
「本当にやってないやつぅぅぅ!!」
こんな緊迫した、笑い事ではない一刻を争う場面であっても、彼女のそのお約束のボケだけは微塵も揺るがなかった。
――それから数分後。
全員で急ぎ足で向かった先は、お馴染みの温泉施設《六本木》の敷地内だった。
「ポンギーっ!」
ゆうこは重厚な木製の入口の扉を、勢いよく派手に開け放つ。
「おっ、朝から入りにきたのかぁぁぁっ!」
奥の受付スペースから、いつもの野太い威勢の良い声が間髪入れずに飛んでくる。
「違う違う、そうじゃないの!」
「なんだと!? 違うのか!?」
声のトーンからして、ポンギはものすごく残念そうに肩を落としているのが目に見えるようだった。
ドタドタと床を揺らすような大きな足音を盛大に響かせながら、ポンギが不機嫌そうに顔を出す。
「朝風呂はな、一日の始まりを制する最高の儀式だぞ!」
「今日はそういうのを楽しみに来たわけじゃないの、一大事なの!」
ゆうこは抗議するように、自分の背後に控えているたなかを指差した。
「たなかの作った豆腐の味、今朝になって急におかしくなったんだって」
「豆腐が、だと?」
ポンギの太い眉が、スッと不審そうに片方だけ持ち上がる。
「昨日まではあんなに絶品だったのに、今朝になったら旨味成分だけがきれいさっぱり抜けてるみたいなのよ」
「大豆の仕入れも、水抜きの時間も、作り方の手順も、昨日から一切変えていない」
たなかが真剣な眼差しで割って入る。
「だから、根本的な原因を探るために、この街の『水』を調べてるの」
「水、だと……?」
その言葉を聞いた瞬間、ポンギの表情からからかいの色が消え失せ、一気に鋭い漢の顔へと引き締まった。
ゆうこは強く頷いてみせる。
「《六本木》のこの温泉だって、同じ源泉の水脈から引いてるんでしょ?」
「ああ、間違いなくな」
「だったら、ここのお湯にも何か目に見えない変化が起きちゃってないか、一緒に確認させてほしいの」
「…………」
ポンギは腕を組み、しばらくの間だけ深い沈黙に包まれた。
そして、全てを察したように大きく息を吐き出す。
「分かった」
それはいつもの、勢い任せの威勢の良い声ではない。
底知れない重みと、確かな危機感を宿した低く真剣な声だった。
「俺について来い」
――案内されたのは、湯気が立ち込める朝の露天風呂だった。
もうもうと白い湯気が静かに、しかし絶え間なく空へと立ち上っている。
昨日と一寸の狂いもない、見慣れた美しい景色。
波のない、どこまでも透明な湯の表面。
底から絶えず流れ込む新しい水。
周囲を囲む味わい深い岩肌。
視覚的な情報として、何ひとつ変わったところは見当たらない。
ポンギは湯船の縁の岩場へとしゃがみ込み、その巨大な右手を、ためらうことなく熱い湯の中へと沈めた。
ちゃぷん、と心地よい水音が響く。
彼はすっと目を閉じ、五感を研ぎ澄ます。
「…………」
ゆうこたち三人は、その背中を見守りながら息を呑んで静かに待った。
やがて、ポンギが低く呟く。
「四十一・九度」
「温度自体は、いつも通り普通ね」
「ああ、間違いなくな」
ポンギの右手が、湯の中でわずかに、しかし力強く動かされる。
彼の特殊な能力――【湯加減】が発動する。
じわり、と肌を刺すような熱の波動が周囲に広がり、湯の温度がわずかに上昇していく。
そして。
「四十二度、ぴったりだ」
昨日と寸分違わない、完璧なまでの最高の温度。
それを確認すると、ポンギはすっと力強く立ち上がった。
「服を脱げ、今すぐ入るぞ」
「えっ……?」
「実際に自分の肌で確認するんだろ!」
「やっぱりここでも入るの!?」
「温泉の効果を確かめるには、全身で浸からなきゃ何も分からん!」
それが正しい温泉職人の論理なのかどうか、ゆうこにはもう判断する余裕すら残されていなかった。
――しばらくして。
「…………」
ゆうこは昨日と同じ露天風呂の縁に腰掛け、肩のあたりまでじっと温かい湯に浸かっていた。
湯の温度は、確かに四十二度。
じんわりと心地よい熱が、冷えた肌を伝って全身を包み込んでいく。
体の芯から、ぽかぽかと温まっていくのがわかる。
すぐ隣では、サクも同じように肩まで湯に浸かり、目を閉じてじっと感覚を確かめていた。
「お湯の感じ、普通じゃない?」
ゆうこが湯面を見つめながら呟く。
「そうね……」
サクも水中で腕を動かし、その感触を確かめる。
「温度も、昨日と全く同じに感じるわ」
温かい。
心地いい。
ただの「良いお風呂」として楽しむ分には、不満など何ひとつないはずだ。
しかし、そこから五分が経過し、さらに十分という時間が過ぎ去っても。
「…………」
ゆうこは違和感を覚え、自分の肩をゆっくりと大きく回してみた。
ぐるり、と関節を動かす。
もう一度、大きく回してみる。
「……あれ?」
昨日であれば、この温泉に浸かっているだけで、旅の疲れで凝り固まっていた身体が嘘のように驚くほど軽くなっていったはずだった。
日々の蓄積した疲労が綺麗に抜け落ち、肩も腰も驚くほど楽になり、風呂から上がる頃には長旅の倦怠感など綺麗さっぱり消え去っていたのだ。
だが、今の体感は違う。
「……ただ、普通に気持ちいいお風呂に入ってるだけ、みたい」
少し離れた場所で、サクがぽつりと寂しそうに呟いた。
「やっぱり、サクもそう思う……?」
「ええ、間違いないわ」
その頃、男湯の仕切りの向こう側。
「…………」
ポンギからの声は、一切聞こえてこなかった。
昨日までの彼なら、湯に浸かった瞬間に「どうだ、最高だろ!」と豪快に笑い声を上げていた頃合いのはずなのに。
「ポンギ?」
心配になったゆうこは、仕切りの岩壁に向かって大きな声で呼びかけた。
しばらくの沈黙のあと。
「……おかしい」
掠れたような、低い声だけが返ってきた。
「やっぱり、何か変なところがあるのね?」
「ああ……間違いなくな」
ざばっ、と激しい水飛沫を上げて、向こう側でポンギが重い体を立ち上がらせる音が響く。
「湯の温度は、合っている」
四十二度。いつも通り。
「湯の湧き出る量だって、減っちゃいねぇ」
お湯の量も、見た目の色も、鼻を突く微かな硫黄の臭いも。
昨日から何ひとつ、変わったところなどない。
それなのにポンギは、昨日までの豪快な彼とはまるで別人のような、底冷えのするような声でぽつりと言い放った。
「……この湯は、もう死んでる」
「…………」
ゆうこは言葉を失い、ただ黙って揺らめく透明な湯面をじっと見つめ続けた。
その残酷な宣言を、昨日までの自分であれば、きっと冗談だと言って笑い飛ばしていただろう。
けれど、今の彼女にはもう笑うことなどできなかった。
豆腐は、形こそちゃんと豆腐になっている。
なのに、肝心の命である旨味が完全に抜け落ちている。
温泉も、ちゃんと四十二度に保たれている。
なのに、人間の疲弊した身体を癒やす奇跡の力が失われている。
そして。
「しゅわ……っ」
露天風呂の隅、岩場の端っこにちょこんと陣取って。
しゅわ丸は、今日という一日の中で、まだ一度もその温かい湯の中へ入ろうとしようとはしていなかった。




