第144話『水を嫌がるしゅわ丸』
先ほどまで漂っていた温かな活気が、一瞬にして音を失う。
ゆうこは息を呑み、目の前に鎮座する白い豆腐をまっすぐに見つめた。
形はどこまでも綺麗だ。
指先で触れずとも伝わってくる、白く滑らかな表面の質感。
おそるおそる箸を入れれば、昨日と同じ心地よい柔らかな弾力が手元へ小気味よく返ってくる。
不快な発酵臭やまぐわい臭もしない。
どこを見渡しても、腐敗している様子など微塵もなかった。
「……なんだろう、これ」
耐えきれず、ゆうこは小さく呟きながらもう一口を口に運んだ。
舌の上で、滑らかな生地がゆっくりと溶けていく。
「味がないわけじゃないんだよね」
「ええ、私も同感ね」
サクもまた、瞳をわずかに細め、神妙な面持ちで静かに頷いた。
「普通に、食材としての豆腐として食べられるわ。ただ……昨日みたいな、あの噛むほどに広がる深い旨味がない」
ゆうこが言葉を継ぐと、その場の空気が一段と重くなった。
当の本人であるたなかは、一言も発しない。
ただ、信じられないものを見るかのように、じっと自分の手元にある豆腐を見つめていた。
そのひどく強張った表情が、ゆうこには少しだけ意外に映る。
昨日はあれほど底抜けに明るく、大らかな笑顔を振りまいていたというのに。
初対面の客に向かって「やってないよー」と茶目っ気たっぷりに返してくるような、あの陽気な豆腐職人の面影はどこへ行ったのか。
今の彼女は、たった一丁の豆腐を前にして、逃げ出したくなる衝動を必死に抑え込むように、本気で思い悩んでいた。
「たなか」
「…………」
「ねえ、たなか?」
「……ごめん、ちょっと待って」
ようやく絞り出すように声を漏らし、たなかははたと顔を上げる。
「ちょっと、仕込み場を確認してくる」
それだけ短く告げると、彼女は素早い足取りで奥の厨房へと姿を消した。
厨房の薄暗がりの中、たなかは真っ直ぐに大豆の入った麻袋と大きな桶へと歩み寄る。
ざらりとした手ざわりの大豆を一粒だけ指先で摘み上げ、そのまま自分の口元へ運んだ。
奥歯で力を込めて、しっかりと噛み締める。
「……大豆の質は、変じゃない。いつも通りだ」
次に、壁際の木棚から使い慣れた小さな陶器の器を取り出す。
豆腐を固めるために厳選して使っている材料の入った壺の蓋を開け、匂いを嗅ぎ、指先で状態を確かめる。
「こっちも、昨日と全く同じ配合、同じ状態」
熱を均等に伝える大釜。
手入れの行き届いた木製の道具類。
秒単位で計算された仕込みの拘束時間。
たなかは焦る心を必死に抑え込みながら、一つずつ工程を綿密に確認していく。
昨日のあの柔らかな、のんびりとした雰囲気はもうどこにもない。
研ぎ澄まされた刃物のように、その手つきには一切の迷いがなくなっていた。
「……すごいな」
入り口の隙間からその背中を見つめながら、ゆうこが小さく呟きを零す。
「何が?」
すぐ隣で、サクが不思議そうに小首を傾げた。
「ううん、違うんだ。たなかって、本当に一途で、本物の職人なんだなって思ってさ」
昨日は、ただ旨い豆腐の話になると嬉しそうに目を輝かせる、少し変わった気さくなお姉さんくらいにしか思っていなかった。
だが、今の彼女は違う。
予期せぬ異変に気づいた瞬間から、恐怖や混乱に呑まれるのではなく、冷徹なまでの観察眼で原因を突き止めようとしている。
何がいつもの日常と違っていたのか。
どの工程に致命的な原因が潜んでいるのか。
感情を一切排除し、可能性を一つずつ丁寧につぶしていくその背中は、確かなプロの気迫に満ちていた。
やがて、リズミカルに動いていたたなかの手が、ぴたりと静止した。
彼女の視線の先にあるもの。
それは、外の清らかな水源から、店の中へと直接引き込まれている一本の木樋だった。
さらさらさら……。
耳を澄ませば、昨日と何ひとつ変わらない涼やかな水音が、空間に響き渡っている。
透明な水が、途切れることなく滑らかに流れていた。
「…………水、だ」
たなかが乾いた声を漏らす。
吸い寄せられるように、彼女は木樋へと歩み寄った。
両手の平を合わせ、溢れる水を掬い取り、そのまま自分の唇へとそっと運ぶ。
ごくっ。
「…………」
納得がいかないのか、たなかはもう一度たっぷりと水を掬い、舌の上で転がした。
「どうなの?」
たまらず、ゆうこが声をかける。
たなかは眉間に深い皺を寄せたまま、首を横に振る。
「分からない……」
「分からないって、どういうこと?」
「だって、普通なのよ」
濡れた両手を不安そうに見つめながら、たなかが呟く。
「ちゃんと冷たいし、不快な臭いもしない。雑味や変な味だって一切しない。昨日までの水と、五感で感じ取る限りは何も変わらないように感じるの」
「じゃあ、原因は水じゃないってこと?」
「…………」
たなかは、それ以上答えようとはしなかった。
昨日、彼女自身が語っていた言葉が脳裏によみがえる。
――豆腐は、嘘をつかない。豆腐は、水を隠せない。
だからこそ。
自分の感覚だけで「異常なし」と判断するには、あまりにも状況証拠が揃いすぎていた。
彼女自身の中にも、簡単には否定できない不安の影が落ちている。
「ねえ、私にもその水を飲ませて」
ゆうこは居ても立ってもいられず、木樋へと一歩近づいた。
自らの両手で、さらさらと流れる冷たい水をそっと掬い上げる。
見た目はどこまでも透明。
鼻を近づけても、嫌な臭いは一切しない。
おそるおそる、一口だけ口に含んでみる。
「…………普通、かな」
昨日、この街に着いたばかりの頃に飲んだ、あの体の芯から染み渡るような水の味を必死に思い出してみる。
しかし、ゆうこの未熟な舌では、目の前の水と過去の水の決定的な違いなど到底見つけられなかった。
「サクは、どう思う?」
振り返ると、サクも同じように自らの手で水を掬い、口をつけていた。
「私も……特別おかしな点は見当たらないわね。ただの綺麗な地下水よ」
さらに、背後から近づいてきたクルスも、同じように水を口に含んでから首を振った。
「特に妙な味や、引っかかるような違和感は感じられませんね」
「だよね……みんなそう思うよね……」
ゆうこは腕を組み、小さく唸り声を上げる。
その緊迫した空気の足元で。
「しゅわ?」
ふと、小さな愛らしい声が聞こえた。
見れば、しゅわ丸が小首をかしげながら、ぷるぷるちんまりと佇んでいる。
「どうしたの、しゅわ丸?」
心配になって、ゆうこはその場でしゃがみ込んだ。
しゅわ丸はつぶらな瞳をパチクリとさせながら、トコトコと木樋のほうへ近づいていく。
ぴょん、ぴょん。
跳ねるような足取りで進み、水が勢いよく流れ落ちるすぐそばの特等席までたどり着いた。
「…………」
ぴたりと、その小さな足が止まる。
「しゅわ丸?」
ぷるっ、と柔らかい身体が大きく震えた。
昨日までなら、この豊かな水流を見るだけで嬉しさのあまり大はしゃぎし、自ら飛び込んでいこうとしたはずだ。
つい先日訪れた《六本木》の温泉郷でも、あんなにぷかぷかと気持ちよさそうに浮かび、至福の表情を浮かべていたではないか。
なのに今日は、まるで全く違う生き物のように怯えている。
「しゅわ……っ」
かすかな鳴き声を漏らしながら、しゅわ丸は自分の意思でぽんと一歩、後ろへ下がった。
「……え?」
ゆうこの綺麗な眉が、驚きにぐっと寄る。
「しゅわ丸、あなた水が大好きだったはずよね?」
サクもまた、足元で起きた明らかな異変に気づき、ハッとした表情を浮かべる。
「しゅわぁ……」
さらに、しゅわ丸はもう一歩、今度はあからさまに嫌がるように後ずさった。
その仕草には、明らかに"その水に近づきたくない"という拒絶の意志が宿っている。
ゆうこは信じられない思いで、目の前の木樋としゅわ丸の小さな背中を交互に見つめ返した。
「いったい、どうしちゃったの……?」
心配になり、そっと手のひらに再び水を優しく掬い取る。
「ほら、怖くないよ」
しゅわ丸の目の前へと、そっと差し出してみた。
「…………」
しゅわ丸は、出された水をけっして拒絶するように睨みつけはしなかったが、じっと観察するように見つめたままだ。
そして次の瞬間。
ぷるぷるぷるっ、と全身を激しく横に振って見せた。
「いらないの、これ……?」
「しゅわ……」
「…………」
ゆうこの表情から、さっきまでの余裕や笑みが完全に消え去る。
何かが、確実に狂い始めている。
人間である自分たちの口には、水は普通に美味しく飲める。
舌で感じる限り、何の異常も健康被害も感じられない。
それでも。
できたての豆腐からは、命とも言うべき旨味がごっそりと消え去っていた。




